Caput XV 「鋼命の檻、支配の終焉 」
厚い鋼鉄の扉が軸を軋ませ、ゆっくりと開く。
開口部から吐き出される空気は外よりもわずかに冷たく油と鉄粉が混じった匂いを含んでいた。
扉の開く音は重く長く、まるで巨獣が息を吐くように響き渡る。
その震えは奥に潜む何かを告げるかのようで背筋に張りつく。
扉の向こうに広がるのは
《シュタールフェストゥング》の心臓部。
黒鉄の柱が天井までまっすぐ立ち並び壁一面には
裂け目のない鋼板が敷き詰められている。
その中央に腰を下ろす男──
赤いマントが床まで流れ金髪が淡く光を反射する。
玉座に深く座したその巨躯は、この空間そのものを支配しているかのようだった。
彼の名は、イグナス・クラウザー。
視線ひとつで空気の密度を変え威圧の波動を放つ男。
目をわずかに細めるだけで周囲の肺が凍りついたかのように呼吸が止まる。
声を発しなくとも、すでに全員を掌握していた。
イグナスの前に立ち並ぶのは30人の兵士。
かつてカムイラを国教とした宗教国家の守護者
武装神職カムシラ。
だが今、その瞳に光はない。
イグナスの能力**インペリウム《絶対勅命》**
──"命令"に絶対的な強制力を持つ力によって
意識は操られ涙も出せず剣を振るう傀儡となっている。
リュカは足を止め息を整えた。
──その兵士たちは彼にとって知る顔ばかりだった。
子供の頃に共に遊んだ者、父の教えを受けた者
戦場で交わした握手の記憶が確かにある者たち。
胸の奥で懐かしさと痛みが同時に湧き上がる。
あの誇り高き瞳が今はイグナスの命令でかすかに震え、けれど意志を持つことを許されず剣を構えている。
「──っ……」
リュカの唇がわずかに震えた。
感情を抑え、しかし体が自然に前に進む。
玉座からイグナスの低い声が響く。
「──動くな」
瞬間、30の兵士が動きを止める。
まるで糸で操られる人形のように。
「戦え」
その直後イグナスの眉間にかすかな皺が刻まれた。
金色の瞳が一瞬だけ濁り奥歯を噛み締めるような仕草。
指示に従った剣が振り下ろされる。
リュカは胸の奥でうずく、あの時の自分たちのような誇りある戦士たちが今、魂で泣きながら敵に剣を向けている現実を。
──この支配を終わらせる──
リュカは心の中で呟き、ゆっくりと前へ踏み出す。
⸻
兵士たちの剣が、かつて共に戦った仲間たちの手から振り下ろされる。
刃の先に映る瞳はリュカの知るあの顔――
懐かしく誇り高く、しかし今は命令に縛られている。
リュカの胸が締め付けられた。
──彼らを斬ることは、絶対にできない。
思わず膝が震む。腕が動かない。心の奥で切りたくないという感情と進まなければならないという責任がせめぎ合う。
剣の一撃がかすめ、冷たい金属音が耳を刺すたび、吐き出す息が荒くなる。
その瞬間、玉座のイグナスが低く息を吐いた。
鋼鉄の扉が軋むような重く冷たい音が空気を震わせ兵士たちの心をさらに圧し潰す。
彼が立ち上がるだけで場にいる者すべてが膝を折りそうになる。
「命令は絶対だ。裏切り者に死を!」
イグナスの手は玉座の肘掛けを強く握りしめ、金属が軋む。額に刻まれた皺は深く吐き出す息に苦痛の色が滲む。
それでも彼は嗤わず声を押し殺すように命令を重ねる。
兵士たちは揺らぐことなく、しかし心の奥では混乱が芽吹いている。
剣を振るうその動作は完全に命令に従ったものだが瞳の端にわずかな戸惑いが宿る。
その微かな光をリュカは見逃さなかった。
心が痛む。
涙が浮かぶ。
動揺の波に押し潰されそうになりながらも
リュカはただ防御に徹する。
剣を受け、剣を払い、必死に避ける。
一歩も前に出ず、しかし退かず、ひたすらに剣をかわし続けた。
「リュカ!」
遠くから叫び声が届く。
声の主はタクマだ。
鋼鉄の床に反響するその声にリュカの意識が
鋭く引き戻される。
「お前の力は命令を断ち切るためにあるんだろ!」
その言葉が胸に刺さる。
リュカは目を閉じ深く息を吸った。
そうだ──自分の手には、そのための力がある。
誰も斬らなくていい誰も犠牲にする必要はない。
触れれば縛られた意志は自由になるのだ。
リュカの指先に力が走る。
──今、ここから、戦いは変わる。
⸻
リュカは深く息を吸い、ゆっくりと前へ踏み出した。
胸の奥で、これ以上見殺しにできないという想いが膨れ上がる。
視線の先には涙を堪えながらも剣を振るうかつての仲間たち――元カムシラの兵士たち。
「……俺は止める」
指先が最初の兵士の肩に触れた瞬間、
空気が微かに震えた。
そして、その者の体に張り付いていた見えない鎖が一気に弾け飛ぶ。
「……あれ……?」
呆然とした声と共に剣が床に落ちる。
兵士は目を見開き重い息を吐きながら涙を流した。
その瞳には、ようやく自分の意思が戻ってきたことを悟る痛みと救われた安堵が混ざる。
しかし玉座のイグナスはただ静かに座ってはいなかった。
額に血管が浮き出し口元を歪め声は低く震えながらも命令を吐き続ける。
「戦え! 動け! 秩序を乱す者を討て!」
その言葉が空間を切り裂くたび激しい痛みがイグナスの体を襲った。
だがイグナスは退かない。
血に濡れた手を握り全身を痙攣させながらも
命令を放ち続ける。
リュカは動じず次の兵士へと歩を進める。
触れるたび同じように鎖が弾け、兵士たちは
一人ずつ呆然と涙を流し武器を捨てていく。
その光景にリュカの胸は痛みと希望で満たされる。
目の前の仲間たちは再び自らの意思を取り戻している――それだけで十分だった。
だが戦場はまだ終わらない。
イグナスは呻き痛みに顔を歪めながらも、
命令をさらに強化する。
「膝をつけ! 降伏せよ! 俺に従え!」
彼の声のたび周囲の兵士たちは一瞬だけ体を震わせる。
だがリュカの触れた者たちは、すでに命令の束縛から解放されている。
動くことを拒んでいた鎖は消え、
仲間たちは自分の意思で立っている。
その光景にリュカは静かに、しかし確かな力を感じた。触れれば誰もが自由になる――
それが自分の力の意味だと胸の奥で初めてはっきり理解した。
一人、また一人と兵士たちが武器を捨て、
目の前の世界に涙を流す。
絶望に沈んでいた空間に希望の光が少しずつ広がっていった。
⸻
リュカは足を止めず兵士一人一人へと歩みを進めた。
触れるたびに、かつて仲間だった者たちの鎖が弾け、呆然とした表情が戻る。
しかし、それは始まりに過ぎなかった。
兵士は全部で30人。
一人、また一人――触れるごとに戦線を離れていくが、残る者の数は依然として多い。
「リュカ、無理するな!」
タクマが叫び、両腕を広げて仲間を守る。
後方からは、ミュカの獣たちがイグナスの監視を引きつけ、シルアムの矢が飛び交う。
だが、リュカ自身が戦場の中心に立ち
手を伸ばさねばならない。
触れた瞬間の兵士たちの反応は、毎回胸を締めつける。
呆然とした目に浮かぶ涙、戸惑い、恐怖。
だが、そのすべてを超えてリュカは触れ続けるしかなかった。
徐々に体が重くなる。
肩の筋肉は痛み、足は鉛のように重く、呼吸は荒くなる。
それでも、彼の手は止まらない。
触れれば解放される――その思いだけが支えだった。
「もう少しだ……もう少しで全員
自由になる……!」
タクマの声が背中を押す。
仲間たちの援護もリュカの意思を支える。
しかし一歩間違えればイグナスの命令で一瞬にして押し戻される危険があった。
仲間たちは必死に戦うがリュカにしかできない役目がある。
一人ずつ、触れて、解き放つ――その繰り返しが、彼の体力と精神を蝕んでいく。
それでもリュカは止まらない。
一人の手が触れ、鎖が弾け、涙がこぼれる――
その瞬間、仲間たちの顔に微かな笑みが戻る。
その笑顔だけが疲れた体を動かす力になった。
残りの兵士が減るにつれ、イグナスの表情は歪む。
痛みに苦しむ顔、絶望をこらえる瞳、命令が届かないことへの苛立ち。
リュカはその視線を背に最後の一人に手を伸ばす。
⸻
リュカの手は最後の一人の兵士へと伸びた。
触れた瞬間、兵士の体が小さく震え目に溢れた涙は今まで抑えられていた感情の全てを語っていた。
剣は音もなく手から落ち兵士は膝をつくことなく静かに立ち尽くす。
「……ありがとう」
言葉はなくとも全員の視線がリュカに向けられていた。
そこには感謝と解放された喜びがあふれていた。
かつて仲間だった者たちの誇り高い目が再び光を取り戻す瞬間だった。
だがリュカ自身はその喜びを享受する余裕はなかった。
呼吸は荒く汗で全身が濡れている。
筋肉は悲鳴を上げ肩と腕は重く鉛のように感じた。
しかし、その手はまだ微かに震えているだけで
完全に自由を取り戻していた。
イグナスは激しい痛みに顔を歪め額には血管が浮き出ている。
命令の強制力を振り絞った代償が全身を容赦なく蝕んでいた。
それでも彼はなお立ち続け冷たい瞳でリュカを見据える。
「……くっ……まだ……立っている……だと……」
声は掠れ怒号というよりは痛みに耐える呻きに近かった。
しかし、その瞳の奥に、まだ消えない冷徹な意思が光っている。
リュカと兵士達の解放がイグナスの怒りをさらに激しく燃え上がらせていた。
戦場は静かになった――しかし静寂は長くは続かない。
リュカの手は震えても彼の眼差しは確かに次の瞬間を見据えていた。
兵士達を救った代償が彼自身の体と心に深く刻まれたことを自覚せざるを得なかった。
「……これで、全員……解放した……」
タクマがリュカの肩に手を置き短く頷く。
ミュカの獣たちは静かに後退し、シルアムは矢を下ろす。
戦場に満ちた解放の空気は、ほんのわずかな安堵を仲間たちに与えた。
しかし、イグナスはなお立っていた。
命令の反動に苦しみ全身を痙攣させながらも、
瞳だけは鋭く次の瞬間に向けて燃えていた。
リュカの胸中には静かな決意が生まれる。
「ここで止まるわけにはいかない……
あの男を――」
満身創痍の身体で立ち上がりリュカは再び戦場の中心を見据えた。
彼の意志は、もう誰の命令にも縛られない。
⸻
イグナスの体が小さく震えた。
額の血管が浮き出し全身に走る痛みが彼の瞳を狂わせる。
「貴様が……いる限り……秩序は……壊れる!!」
その声は怒号というよりも世界を引き裂くような絶叫だった。
その瞳には今までの冷徹さだけでなく混乱と焦燥が混ざり込んでいた。
リュカは息を整え傷ついた体を支えながら前に踏み出す。
両手には血と汗が滲み腕の筋肉は悲鳴をあげる。
それでも目は揺るがずイグナスの巨躯をまっすぐに捉えていた。
「……終わらせる……」
言葉少なにリュカは剣を握る手に力を込めた。
兵士達を解放した代償で疲弊しきった体は重く
痛みは全身を駆け巡る。
だが、それでもリュカの意志は鋼のように固い。
イグナスは一歩前に踏み出す。
絶叫と共に放たれる圧倒的な威圧の波動が空気を震わせる。
「動け……倒せ……貴様を……!」
命令はもはや言葉というより力そのものとして戦場に流れ込む。
リュカはその圧を受け止め剣先をわずかに傾けて跳躍する。
一歩、一閃――彼とイグナスの視線が鋼のように交錯した。
敵の巨躯に挑むその姿は、もはや人ではなく
意思そのものを体現する戦士のようだった。
「──リュカ!」
タクマの声が戦場の隅で響く。
短く、しかし力強い声はリュカの背中を押す。
戦いは今、ついに二人だけの一騎打ちへと突入した。
冷たい光と赤いマント、鋼の床を踏みしめる音
互いの呼吸。
全てが緊張で張り詰め静寂の中に重い鼓動だけが響く。
リュカの瞳には決して揺らぐことのない覚悟が宿っていた。
「……これで、終わらせる……」
そう呟いた瞬間、剣が空を切り戦いは最終局面へと滑り出した。
⸻
踏み出すたびに床が軋み鋼の空間に響く。
イグナスは腕を振り上げ冷たい光のような視線を放つ。
「──従え! 服従せよ!」
声だけならかつての絶対的命令だがリュカには届かない。
互いの間に流れるのは、もはや言葉ではなく
意思のぶつかり合い。
リュカの剣先が一閃、鋼の床を蹴り上げて飛ぶ。
イグナスの巨躯が剣を受け止め重厚な衝撃が空間を震わせる。
「ふっ……遅い!」
怒号を伴いイグナスの一撃が迫る。
だがリュカは反応ではなく先読みで動く。
膝を曲げ体重を転換し巨躯の腕をかすめて回避する。
一歩先の動きが勝利を呼び込む。
剣と拳がぶつかり合うたび火花のように空気が弾ける。
鋼鉄の軋む音、血の匂い、疲労に震える筋肉。
イグナスの攻撃は一つ一つが圧倒的だが、
リュカは恐れず、受け、避け、切り込む。
「……選ぶんだ、意思で!」
リュカの叫びに空気が震えイグナスの動作がわずかに鈍る。
彼は命令の剣に頼ってきた。
だが今、命令は効かず反動に苦しむばかり。
剣を振るうリュカの背後で床が砕け壁が揺れる。
イグナスは巨体を前後に揺らし全身から力の残滓を振り絞る。
その表情に初めて恐怖とも似た光が走った。
「……お前……誰だ……!」
怒号と共に巨躯が反撃を試みる。
だがリュカは一歩も引かず刃先をさらに鋭く向ける。
手に伝わる痛みや疲労を力に変え刃を振り抜く。
一閃、剣が鋼板をかすめイグナスの肩を裂く衝撃が走る。
鋼鉄の床に重い金属音が響き巨躯が微かに揺れる。
その隙を逃さずリュカは連続で斬り込む。
リュカの意思だけが動きを決定する。
「……これで終わりだ……!」
最後の斬撃がついにイグナスの胸元を貫く。
赤いマントが翻り、鋼の床に倒れ込む。
巨大な体が音もなく沈み残響だけが空間に漂った。
呼吸を整え剣を握る手に残る痛みを感じながらも、リュカは立ち尽くす。
全ては意思で選び全ては自らの力で解決した。
命令の檻に囚われず、ただ自分の意志で──
⸻
「……命令を……守ってさえ……いれば……」
イグナスの声は、もう威圧ではなく掠れた呟きだった。
「……子どもたちは……助かったはずだ……」
瞳がかすかに揺れ脳裏に別の光景が差し込む。
炎に包まれた建物──泣き叫ぶ子どもの声──
突入の命令を待たずに駆け出した若い隊員──
崩れる天井──届かなかった手。
焦げた匂いと瓦礫の下に消えた命。
転生前の消防士の、あの瞬間、彼は
"命令こそが救いだ"と思い込むことで
自らを保ってきた。
「だから……この世界では……」
血に染まる手を見下ろし、かすれた息で続ける。
「命令こそが……秩序……救い……」
しかし、その言葉にはもはや力がなかった。
リュカは深く息を吸い崩れ落ちた巨躯を見下ろす。
「……命令じゃない」
その声は静かで、しかし鋼の芯を持っていた。
「意思で選ぶんだ。……それが人を救うんだよ」
イグナスの瞳がわずかに揺れ、そこに淡い光が宿る。
「……選ぶ……か……」
わずかに口角が緩み、そのまま静かに目を閉じる。
巨体は音もなく倒れ込み赤いマントが床に広がった。
長くこの要塞を支配してきた“命令”の檻は今、音もなく壊れた。
⸻
玉座の間に、しばしの沈黙が訪れた。
ミュカは獣たちを下がらせシルアムは矢を下ろす。
タクマは短く息をつき額の汗を拭った。
「……終わったのか」
シルアムが呟く。
リュカは答えず崩れ落ちた玉座を見つめ続けた。
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