Caput XIII 「記録の影、目覚める記憶」

ナギの谷を離れ彼らが辿り着いたのは──

灰色の空の下にそびえ立つ鋼鉄の城塞。

 

《シュタールフェストゥング》

 

冷たく鈍い光を放つその壁面は、まるで大地から

生え出た鉱石の牙のように無慈悲で近づく者を拒む

威圧感に満ちていた。


巨大な鉄門が重機の呻きにも似た音を立てて

ゆっくりと開く。

内部からは人の気配も鼓動も感じられない。

ただ、冷たい金属と油の匂い、そして張り詰めた

静寂が満ちていた。


高い吹き抜けの上階──監視回廊から一人の女が現れる。

銀髪に鋭い青の双眸。軍服のような装いのその女は感情の起伏を一切見せぬままリュカを見下ろしていた。


「……君の“選択”を記録する」

 

低く、しかし確実に胸へ突き刺さる声。

その言葉だけを残しカーチャは視線を外し

闇の奥へと歩み去った。

 

リュカはしばらくその姿を見送った後、

思わず舌打ちを漏らす。


「記録? ……チッ。何しに来やがったアイツ」


隣で弓を下ろしたシルアムが低く息を吐いた。

 

「……カーチャだ。俺も実物を見るのは初めて

 だけど名前は聞いたことがある」


リュカが目を細める。

 

「カーチャ……?」


「転生者のひとりだ。戦場じゃほとんど戦わず

 ただ現れて“記録”を取るだけだって話だ。

 敵兵からも味方からも得体の知れない存在だと

 恐れられてる」


するとミュカが小さく肩をすくめる。


「……記録。何のために」


「さあな。ただ……見られてるだけで嫌な汗が

 出る」


シルアムはぼそりと答える。


リュカは奥歯を噛みしめた。

 

「記録だろうがなんだろうが……こっちは遊びじゃ

 ねえ。邪魔する気なら、容赦しねえぞ」

 

次の瞬間、その場に影が立つ。

鉄靴が床を踏み鳴らし黒衣の青年が現れた。

無言のまま腰の剣を抜き払う。

鋭く澄んだ瞳が真っ直ぐにリュカだけを見据える。


──ヤマダタクマ。

その名を、この場にいる誰もが口にしなかった。

だが空気は、すでに戦闘のために張り詰めていた。


リュカは息を呑む。

初めて見るはずの相手だ。出会った覚えなどない。

それなのに胸の奥にわずかな"ざわめき"が広がる。


……どこかで……。


曖昧な感覚が脳裏をかすめる。

夢の中で見たような遠い昔の幻のような。

目の前の青年の輪郭が、なぜか"知らない"と断言できなかった。


リュカは眉をひそめ無意識に拳を握りしめていた。

理由も根拠もない。ただ、この男だけは──自分の前に立ちはだかることが、ずっと前から決まっていたかのように思えてならなかった。


 


 

鉄と影が支配する回廊に低い声が落ちた。

 

「……イグナス様に逆らう者は殺せと

 命じられている」


言葉を吐くヤマダタクマの瞳は炎も迷いも宿さない。淡々と、それだけを告げる。

 

だが、その無機質さこそが命令の重さと深さを物語っていた。


背後でシルアムが短く息を呑む。

 

「……イグナスが命じたことは相手の意志ごと

 強制される。拒否も反抗も……できない」

 

その声には嫌悪と警戒が混じっていた。


リュカは一歩、前へ出た。

 

「……それが、本当にお前の意志か?」

 

問いかけは鋼鉄の壁に吸い込まれたかのように

反応を返さない。


沈黙のままタクマは瞼をわずかに伏せ──

そして開く。

その瞳が、わずかな光を帯びる。

 

空気が揺らぎ互いの間にある見えない距離が

一気に刃の間合いへと変わった。


次の瞬間、二人は同時に動き出す。

戦闘が、始まった。


 


 

リュカの突き、シルアムの矢、ガルゥの爪――

そのすべてを、タクマはわずかに体を傾けるだけでかわしていく。

 

予兆掌握ヴィーデ

次の瞬間に何が起こるか、その意図が視える

彼にとって無駄な動きは一切ない。


「……遅い」

 

冷ややかに呟きながらタクマは反撃の剣を突き出す。

 

リュカは身をひねって避けるが、すでに次の攻撃が読み込まれている。

 

防御すれば崩され攻めれば先を取られる──

まさに手も足も出ない拮抗。


だがリュカの目には諦めの色はなかった。

 

「……だったら」

 

避けも牽制も捨て真正面から踏み込む。


タクマの予兆の瞳に、その意図が映る。

 

──ぶつかってくる。避ければ、すれ違いざまに反撃できる。

 

それは最も単純で最も読みやすい選択肢のはずだった。


だがリュカは笑みを浮かべる。


「だったら、お前の中の“イグナスの命令”ごと──

 打ち砕く!」


タクマの脳裏に、いつものように未来が開ける。

拳を避ける未来。反撃して勝つ未来。

だが、どれも心を冷やすほど味気なく同じ繰り返しだった。


──殴られる未来だけが妙に鮮やかに見えた。


(なぜだ……?)


それは予知の確信ではなかった。

ただ理由もなく"そうなった方がいい"と思えてしまった。

気まぐれな直感に従うようにタクマは拳から逃げなかった。


そして次の瞬間、軋むような感覚とともに何かが内側で外れる。


 


 

拳が頬を打ち抜いた瞬間――

それは単なる打撃ではなかった。

リュカの拳から揺るぎない意志が伝わる。


 

お前はお前のままでいい。

命令なんか、もういらない。


 

タクマの中に絡みついていた冷たい鎖が弾け飛ぶ音がした。

 

視界の端に無数の「命令」の残滓が崩れ落ちていく。

その奥に暗く封じられていた扉があった。


 ――扉が開く。


幼い日の光景。

教室の片隅で机に突っ伏していた少年に

屈託なく声をかけてくれた顔。

 

笑い合った日。

そして、ある朝、突然いなくなった。

その名を、ずっと呼びたかった。


「……リュウ……」


息を呑むようにタクマの瞳が見開かれる。

硬く閉ざされていた感情が堰を切ったようにあふれ出す。


拳の衝撃に揺らいだ刹那、脳裏に浮かんだのは

転生する前のイグナスの命令に上書きされる前の記憶だった。


怒りも、悲しみも、喜びも、全部が混ざった声が

喉を震わせた。


リュカはその変化を見逃さない。


それは単なる打撃ではなかった。

 


「……もう、命令に縛られてないな」


タクマはかすかに頷いた。

その目には、もう“命令”の影はなかった。


 


 

タクマは喉の奥から押し出すように声を震わせた。

 

「……思い出した。全部……思い出したよ」


息が荒い。けれど、その言葉ははっきりと響く。

 

「幼いころ教室の片隅で誰とも話せなかった……

 俺に」

 

「……普通に話しかけてくれた少年がいた」


脳裏に蘇る色あせない光景。

ひとりの帰り道を並んで歩いたあの日。

不器用に笑ってくれた、その横顔。


「……ある日、何の前触れもなく……

 その少年は、姿を消した」

 

タクマは拳を握り締める。

 

「……唯一の友達だったんだ。あのときの

 ……リュウ」


その名を聞いた瞬間リュカの胸の奥で何かが

弾けた。鼓動が速くなり視界が揺れる。

 

――けれど記憶の断片は霧の向こうにあるままだ。


「……俺は……覚えてない」

 

リュカは苦く笑い視線を逸らす。

 

「いや……たぶん思い出せないだけだ」


その目を再びタクマに向け押し殺した感情を

吐き出すように言った。

 

「でも……最初から、ずっと……お前のこと

 悪いヤツだとは思えなかった」

 

「理由なんてなくても……わかるんだ。

 きっと……大事な奴だったって」


沈黙が二人を包む。

その沈黙は敵と味方の間にあるものではなかった。


 

 


タクマは長く息を吐き視線を伏せたまま拳を握りしめた。

その瞳に怒りではなく――確かな意思が宿る。


「……イグナスがやってきたこと

 全部……理解した」

 

低く、噛みしめるような声。

 

「支配……殺戮……命令で

 人を人じゃなくするやり方……」


ゆっくりと顔を上げ、リュカを見据える。

 

「もう命令には従わない。俺自身の意志で

 イグナスを止める」


その言葉は迷いがなく鋼のように揺るぎない。

リュカは黙ってタクマを見返し

わずかに口元を引き結ぶ。


タクマは一歩踏み出し短く告げた。

 

「……俺が“お前の隣”に立つ番だリュカ」


静かな宣言が鉄と油の匂い漂う要塞に響いた。

その瞬間、二人の間にあった見えない壁は――完全に消えていた。


 


 

静まり返った通路に乾いたヒールの音が響く。

鉄の手すりの上から銀髪の女がゆっくりと姿を現した。


カーチャ――

その青い瞳は感情を映さず冷たい水面のように揺らぎもしない。

 

「……記録、完了」

 

彼女の声は報告書の一行を読み上げるように平坦だ。


「二人の交差、その意味……

 十分に興味深いデータが得られたわ」

 

細い指先が、ゆっくりとリュカたちを指す。


「さあ……次は私が直説行動解析してあげる」


まるで研究対象を前にした観測者のように

カーチャは一歩、足を踏み出した。

その足音は、これから始まる“別の戦い”を告げていた。

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