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Prologus I 「静かな夕暮れ」

谷の空気は澄みわたり日暮れが草木の影を長く伸ばしていた。


ナギの谷──

山々に抱かれたこの聖域を民は〈神の通り道〉と呼ぶ。

遥か昔より神意がもっとも純粋なかたちで降る場所とされ、巫女と神職たちはその声を聴き言葉を祈音へと変えてきた。


谷の中心には白石の神殿が鎮座し、その周囲には慎ましい住居と修練場、祈りの台が点在する。

外界との往来は制限され、ここに暮らす者の多くは己の一生をこの谷に捧げる覚悟を持っている。


風は穏やかに吹き抜け鳥の声すら遠い。

今宵もまた神と人の狭間で、ひとつの一日が静かに終わろうとしていた


風は涼しく、どこか水音のような響きをたたえながら棚田の間を縫うように吹き抜ける。

あちこちの家々からは夕餉の香りが漂い石造りの祈祷台には焚かれた香から白い煙がひとすじ、ゆるやかに空へと立ちのぼっていた。


そんな穏やかな時間に乾いた音が混じっていた。


カッ!!!

──ドスッ!


木刀の打ち合う音。あるいは打ち据えられる音。

谷の中央にある武の修練場、その片隅に2人の姿があった。


汗に濡れた額の下で黒い瞳がぎらりと光っている少年。

もう一人は男。静かな眼差しを湛え無言で木剣を構えたまま立っている。


「──立て」


その声に少年は歯を食いしばり、がくりと膝を折った足を引きずるように立ち上がった。


「さっき言った型。三手目、

 右足を引きすぎていた」


「……分かってた。でも、なんか足が勝手に」


「型は命だ。咄嗟の判断で崩すのは“型”とは

 言わぬ。基本に従え」


男の声は硬い岩のように低く揺るがなかった。


この男の名は──ザオ・ルガン。

ナギの谷におけるカムシラ〈武装神職〉の長。

“神の意を剣として執行する者たち”を統べる存在である。


そして少年は彼のひとり息子──リュカ。


十四を越え身体つきこそ青年に近づきつつあるが、その内にはまだ揺れるものが多かった。

砂にまみれた腕がわずかに震えている。


「言われた通りに動くって、

 なんか変なんだよ……」


思わずリュカの口からそんな言葉が漏れた。


ザオは無言で木剣をふるい鋭く空を裂く。


「それは“変”ではない。“従う”ことに疑念を

 抱くのが変なのだ」


「でも……言われると逆のことをしたく

 なるんだ。意味もなくさ。

 最初はそのつもりなかったのに口で

 言われると……すごく気持ち悪い」


リュカは俯いたまま言った。

それは“反抗”とも“意見”とも違う

もっと素朴な感覚だった。


ザオは一拍置き、やがて木剣を静かに下ろした。


「今日はここまでだ」


「え? まだ──」


「型が甘いまま振るう剣に意味はない。

 祈りの時刻も近い。水桶で身体を

 清めておけ」


淡々と告げるとザオは背を向けて歩き出した。

リュカは一人、ぽつんと残される。


その場に立ち尽くしたまま、うっすらと息を

吐いた。


(……いつも、こうだ)


口にした瞬間、ああまた言っちゃったと思った。

けれど、どうにも飲み込めなかった。

“従え”という言葉に何かが引っ掛かる。


父は知らない──リュカが“そういう体質”

であることを。

だがリュカ自身も、それが何なのかを分からなかった。


ただ一つ確かなのは──


"従う"という言葉が、なぜかいつも嫌だった。


 


 

修練場を出て神殿へと続く道を歩く。


石畳の奥、夕陽のなかで瓦屋根の稜線が静かに浮かび上がる。

それが〈カムイナ〉の神を祀る神殿だった。直線のなかにどこか温もりを感じさせる造形。谷の民はそこに集い天と地とを繋ぐ祈りを捧げる。


神殿の前にある祈祷台に膝をつき少女が

ひとり祈っていた。


少女の掌に載せられていたのは浅い木の盆だった。その上には祈りの言葉が刻まれた薄い護符が静かに置かれている。

一筋の風が台座をかすめ銀の髪がそっと揺れた。


彼女の名は──ルシア。

カムイナにひとりきりの神の言葉を聴く、

巫女である。


年はリュカよりひとつ下。

白い織布の装束をまとい耳元で銀鈴の飾りがかすかに音を立てていた。

その容姿は、どこか儚く美しかった。


「また祈ってんのか」


リュカは石段の途中から声をかける。


ルシアは顔を上げ、ふわっと笑った。


「うん。今日の風、ちょっと違うから。

 ……なんとなくね」


「なんとなくか……。

 俺の修練見て笑ってたくせに」


「笑ってないよ。ちょっと見てただけ」


「見てただけ……ね。じゃあバレてたのか。

 俺の型が崩れてたの」


リュカは軽く唇を尖らせる。


「さっき少しだけ音が聴こえたの。でも……

 すぐに止まった」


「神様も気まぐれだな」


「リュカこそ。お父さんに言われるたび、

 なんであんなに逆らうの?」


「逆らってねーよ。ただ、

 なんか……言われると

 やる気がなくなるんだ」


「病気じゃない? “命令アレルギー”とか」


「それ、ひどくね?」


二人は笑った。

ルシアの笑顔はやわらかく、どこか寂しげな色を帯びていた。


「……ねえ、リュカ」


「ん?」


「今日の風やっぱり変だよ。草の匂いが

 薄い。……土の音が沈んでる」


「詩人かよ」


「本気だよ。……何か来てる。

 よくないもの」


その言葉にリュカの胸の奥がゾクリとざわめいた。


言葉にできない不安。

風の音が、まるで声を殺した誰かの呼吸のように思えた。


 



赤い狼煙が静かに夜空へ昇っていた。

最初は雲の染まりかと思った。

次に思ったのは、どこかの家で火でも焚いたのかということ。けれど違う。

これは──合図だ。


リュカは思わず立ち上がった。

胸の奥がざわめく。風が山の方角から吹きつけてくる。ほんのわずかに焦げたような匂いが混じっていた。


(嫌な感じがする……)


リュカは家の中に駆け込み壁にかけられた布包みを取った。中には小ぶりの打刀が一振り。

模造ながら実戦用に近い造りで父に

"まだ本物は早い"と渡されたものだ。


それを背にくくり再び外へ出ると村の中央にある

祈音台へと足を向けた。


 ──祈音台。

ナギの谷において神意を最も強く受け取るとされる場所。そこにはルシアがいるはずだった。


「ルシア!」


呼ぶ声は風にかき消されそうになったが

答えはすぐに返ってきた。


「リュカ? どうしたの?」


台座の前に立つ彼女の髪が赤い空気を浴びて銀から茜色に染まっていた。


「狼煙、見たか? ……山の上。変だ。

 風も……匂いがする」


「何か来てる……けど、わたしには、ちゃんと

 聴こえない。声が……とぎれてる」


「ここにいては駄目だ。

 父さんのところへ──」


その時、谷を包む空気が張りつめた糸のように裂けた。


東の森で何かが爆ぜたような音。

次いで地鳴りのような低い衝撃。

そして──叫び声。


「……うそだろ」


リュカは足を止め耳を澄ませた。

聞こえる。

遠くで人の怒鳴る声と剣戟の響き。

何より──燃える音。

乾いた枝や葉が爆ぜるような、あの音。


「リュカ、これ……」


ルシアが両手の盆をそっと差し出す。

その上に置かれた護符が微かに光を帯びた。

今にも言葉を紡ぎ出しそうな切迫した気配がそこにはあった。


「読める?」


「……無理だよ、こんな光じゃ……っ」


直後、斜面の方から人の影が転がるように駆けてきた。カムシラ(武装神職)の斥候。


──服には泥と血、顔には切り傷。

息も絶え絶えのままリュカに向かって叫ぶ。


「敵襲だ!

 ……ゼルガの軍。東から回り込んで……

 この谷を……」


そこまで言って兵士は倒れた。動かない。


リュカは喉の奥が凍りついたような感覚に包まれた。息ができない。目の前の光景が急に現実味を失っていく。


けれど、すぐに父の声が脳裏に蘇る。


 ──型を崩せば、死ぬのはお前だ。


型なんか──もう関係ない。

今やるべきことは、ただ一つ。


「ルシア、行こう! 神殿へ!」


少女は一瞬、怯えたように目を見開いたが

すぐに頷いた。


「うん!」


二人は石段を駆け下り、谷の中心部へと向かった。


 


 

神殿の周囲は既に騒然としていた。

カムシラ(武装神職)の戦士たちが次々に集まり、

たいまつに火を灯しながら静かに布陣を整えていく。


ザオ・ルガンの姿は一段高い拝殿の上。

冷ややかな眼差しで東方の森を見据えていた。


「父さん!」


リュカが駆け寄るとザオはわずかに振り返った。


「遅かったな。ルシア、ここにいては危険だ。

 すぐに神域の裏へ」


「でも……」


「それが巫女としての務めだ。

 神意の器であるなら無駄に血を流すな」


 ルシアは唇を噛んだ。


「……わかりました」


彼女は身を翻すと神殿裏手の回廊へと静かに姿を消した。


ザオは再び息子へ目を向けた。


「お前も下がれ、リュカ」


「戦わせてくれ。俺も、カムシラの──」


「命令だ。下がれ」


言葉が落ちると同時にリュカの中で何かがざらりと逆立った。


まただ。命令されると身体が命令と反対に

反応しそうになる。


 (でも、ここで逃げたら……)


意志の力で踏みとどまろうとしたその時──


「敵ッ!! 西からも来るぞ!!」


叫び声が重なった。

ザオの眼光が鋭くなる。


「……包囲されているか」


そして静かに、言った。


「祈る者を守れ。神意は最後の火まで手放すな」


その言葉を合図に、谷全体が戦火に包まれた。

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