Burn it down──宏

 八月十一日 午前十一時 R市立図書館 ブラウジングスペース

 

 時間帯なのか、館内は閑散としている。


 俺は、山下の話を仕事の片手間に反芻していた。

 

 兄、英士の起こした反逆。

 彼女の孤独。

 世界への絶望。

 少女の、強すぎる死への欲求Desiderio di morire

 

 あの『聖女か悪女』の感想文を読んでから、俺は山下史彦の娘に嫉妬──否、畏敬すら抱き始めた。


 ──小説を書かせたい。山下由美子の作品が読みたい。深淵から這い出た怪物の言葉を、浴びてみたい。


 L字型のスペース、その角に俺が、二人分席を空け、件の少女が、同じ制服の少女と並んで座っている。


 ──いたのか、友人。


 ひそひそと、何かを話す様は、まるで普通の女子高生だ。


 くすりと微笑む山下は、いつものThanatos yumikoiではない。


 時折、こちらを見る。


 他に声がないので、聴こえてしまった。


「ね、由美子どしたの? たまにあのお兄さん見てるけど」


「んー、なんか格好いいやん、作家っち感じするばい?」


 ──九州弁か、キャラ作りなんて柄かよ。


 俺たちの関係を、誰も知らない。


 通知のポップアップ。


 捨てアドで、山下が話しかけてくる。音もなく、俺たちは密談する。


『高槻さん、進捗どうですか?』


『編集さんみたいなこと言わないで下さい』


『ちょっと拝読して構いません?』


『お友達の前で?』


『スマホなら。覗き見防止シート、付けてるので』


 俺はそれを読むと、躊躇うこと無く送信する。どうせ彼女は途中まで読んでいるし、そもそも雪河阿美子は山下由美子だ。


 当たり前だが、通知音はなかった。


 彼女はスマホを取り出すと、『デジデリオ・ディ・モルテ』の草稿を貪る。


 横顔が、花のように輝く。


「ちょっと、由美子なーに? あ、夏だもんね? そっかぁ」


「へっへー、私にも春来たんばい? 夏っちゃけど」


「由美子、私もたまにしかつるんでくれないもんね……一人が好きだと思ってたけど、安心したな」


 ──なんて会話だ。


 ──毒を仕込んだ造花。


 紫陽花、水仙……人を狂わせるなら芥子か。


『初めての時も話しましたけど、先生の作品、簡単に人が死にますよね。すごく虚無的って言うか、私は好きです』


『まるで、私が殺人鬼みたいじゃないですか』


『気分を害するようなことをお聞きします。高槻さんは、殺していい状況で、倫理の手も法の手も届かなければ……人が殺せますか?』


 少女を見る。向こうもこちらを見ている。


 深淵から来た生き物と──Thanatos yumikoiと見つめあっているのだ。そればかりか言葉を交わし、怪物は俺を侵食している。


 俺は簡潔に答えた。


『何も見ていなくても、私自身は人など殺せません』


 山下由美子は、俺に決定打を放った。


『先生は、山下英士ができなかった事ができる筈です。全てを終わらせることが。

 それが私の望みです。

 まさかとは思いますが、作品の中で殺されることだけが依頼だとお思いでしょうか?』


 再び、俺に銃口が突きつけられる。今度は.50CAL──対物ライフルだろう。


 俺は、彼女を"誤読"していた事を悟った。


 ──この娘は……俺に"本当に"殺して欲しいのだ。この世界から消えたいのだ。俺を巻き添えに。


 娘をここまで壊し尽くした両親を、俺は憎んだ。


 思えば、友人も少ない、あんな老成した文章を書く、魅加島ヒロトを崇拝する"まともな女子高生"がいる筈がなかったのだ。


 悪寒がした。


 R市立図書館の蔵書を検索する。もっと早くやっていれば、或いは最悪の結末は回避できたかもしれない。


 山下史彦の論文は、R市立図書館に収蔵されていなかった。


 世界が歪み、現実が火葬される音が聞こえた。


 通知が来る。


『明日、閉架室で父の論文をお見せします。お話ししたPC室のデスクの下で、二十三時まで待ちましょう』


 俺の世界が、少女の炎に巻き込まれて、焼け落ちていく。


 全てを焼き尽くす娘、か。


 一瞬、彼女の頭上から豚の血が降り注ぐ幻を見た。映画『キャリー』のように。


 ──止めてやる。人殺しになどなってたまるか。あの才能を潰すなんて、絶対に御免だ。

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