Family Portrait──由美子
八月二日 午後七時 山下家
私は、いつも通り無言で帰宅する。
玄関の裏に、ステッカーが貼り付けてある。
『 Lasciate ogne speranza,voi ch'intrate.──この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ──』
──地獄はこの家だろうか、それとも外の世界だろうか。
足音と、エアコンの駆動音以外は聴こえない。
リビングで、双子の兄──
「英士、起きて」
寝息が返ってくる。
「……今日は行ったの?」
「んぁ?」
──起きたか。それとも狸寝入りだったのか。
「ねぇ」
「ふぁ……あ、どれだ? 練習? バイト? 学校?」
私は吐き捨てる。
「どれでも良いわよ、外に出たの?」
「今日はバイト」
「そう」
私はシャワーを浴び、部屋着でリビングに戻る。
英士は、ライブのBlu-rayを観ていた。
「lynch.じゃん。何これ。いつの?」
「二〇一五年、十二月。ドーム」
私は、サイダーを口に含む。炭酸の刺激は、感じない。
「英士」
「ん?」
「……もうしないで、あんな事」
兄は、薄く笑みを浮かべた。獰猛な、野獣の笑みを。
「どれだよ? 心当たり多いんだよ。喧嘩? 徹夜? グロサイト巡り?」
──全部違うよ、お兄ちゃん。
「はぁ、二人は?」
「大学。今日も遅いってよ……何か作るか」
彼は、自分のエプロンを着ける。
◆◆◆◆
中華風の匂いが漂ってくる。
「
シェフから質問が飛ぶ。
「激辛は、やめてくださいます?」
「かしこまりました、よっと」
──フライパンを操る彼は、本当に
「ねえ」
「ん?」
「あの、さ。喧嘩だって英士から吹っ掛けたんじゃないし、徹夜だって作曲とか勉強のためでしょ? それに……バイト代、家に入れてるの……知ってるんだからね」
海老を炒める音と、ライブの曲だけが部屋に漂う。
──どうして、黙っちゃうの?
「……何故俺を"善い兄"だと思う」
全ての音が、遠くなった。
「アーレントは言ったな、『悪は凡庸』だと」
「でも」
「完全に"善い"人間は存在しない。仮にいたとして、俺個人はそれに関わりたくない……そいつは"愛"と"正義"の為に我が子の
何も言えない。
──やはり、この男は私の片割れだった。
──彼も、私を生かそうと……続けさせようとする。
──そんなに私を愛しているなら……腸を引きずり出してよ、お兄ちゃん。
──自分自身には、できるんでしょ……?
◆◆◆◆
四年前 八月二日 N県N市郊外 山下家(当時)
当時、N県にいた頃、山下家には母屋の他にもう一つ"離れ"があった。窓もないそれを、私たち兄妹は『隔離施設』と呼んでいた。
悪いことをすると、『隔離施設』に放り込まれ、閉じ込められた。
闇と悪臭、静寂と空腹が、子供に何をもたらすのか、私たちは知っている。
『やだあああ!! パパあ!! ママあ!! 出して、出してええええええ!!』
ある時は、やった宿題を家に忘れた罪で閉じ込められた。
またある時は、体操着を授業で汚したのが両親の逆鱗に触れた。
『お兄ちゃああああん!! 助けて、お兄ちゃああああん!! 出してえええ!!』
何かと理由を見つけては、私たちは闇の中に隔離された。
泣き叫ぶのは、いつも私だった。
だからなのか、兄が"収監"されることは少なかった。
山下英士は、異常なまでに泣かない子供だった。
黒い孤独の中、彼が何を思って耐えていたのかは知らない。
一度だけ、質問したことがある。
「お兄ちゃん、どうして『隔離施設』で平気なの? 私、あそこ、すごく怖い。怖いよ……」
英士は、何も言わなかった。ただ、私の頭を撫でた。
その晩は、暑く、風もなかった。
焦げた臭いと、何かの燃える音で目が覚めた。
隣に英士がいない。
外に出ると、私たちの悪夢は炎上していた。
もう一人の私は、燃え盛る牢獄を、網膜に刻み込んでいた。
「おに……お兄ちゃん?」
「由美子……あいつ、ら……起こし……て」
彼は、百円ライターを炎の中に放り投げた。腹部から出血している。傍に、出刃包丁が落ちていた。
私は両親の寝室に、泣きながら駆け込んだ。
私たち家族は、こうして崩壊した。
否、最初から"家族"なんて無かったのかもしれない。
◆◆◆◆ 現在
完成したエビチリを、二人で囲む。
──どうして……全部焼いてしまわなかったの? あの時、彼らを呼びに行かせたの?
兄は、事件について私に語ることは一切無かった。
「どうした? 辛かったか?」
私は、笑って誤魔化す。
──今日で、あれから四年だね。お兄ちゃん。
──本当に、貴方は山下英士なの? 私を守ってくれた、双子の兄なの?
──もう、二度と
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