「蝶の夢」(8月31日)

 あなたを探そうとしても、何も見えない。


 想いを伝えようとしても、何も言えない。


 言葉を噛み砕いて、ただ、理想に恋をする。


 記憶を飲み込んで、ただ、あなたに恋をする。


 青く染まる空と、白い柵に手を伸ばす。


 けれど私には、この小さな壁すら越えられない。


 目の前をひらりと、蝶のようなものが舞った。


 置いていかないで。




「小晴、こんなところにいたのね」


「お母さん?」


 病院の屋上で空に顔を向けていると、扉の開く音と母の声が聞こえた。


「そうよ、支払いも終わったし、帰りましょう」


「うん」


 母は私の車椅子をゆっくり押し始めた。滑らかな床をなぞるように進む車椅子は、乗っていて少し心地よかった。


 車椅子生活にはまだ慣れない。


 学校には行けないし、毎日病院に通って、検査を受けなければならないし、日常生活もままならない。


「小晴、晩御飯は何食べたい?」


「ううん、なんでもいい」


「そっか」


 歩道を進む車椅子はがたがたと揺れ、不快な振動が微かに伝わってくる。


 ふと、はしゃぐ子供たちの声が耳に届いた。確か、この辺りに公園があった。

 その声に耳を傾けていると、私のそばを通った女子学生の話し声も聞こえてきた。


 炎天下の中に響く無邪気な声は、平和で、穏やかで、耳障りで、とてつもなく滑稽だった。


「お母さん」


「なあに?」


「私ってね、最低なの」


「どうして?」


「公園で遊ぶ子どもの声を聞いて、私じゃない、誰かの足が無くなればよかったと思うの。側を通る学生の声を聞いて、私じゃない、誰かの目が見えなくなればよかったと思うの」


「うん」


 話を聞きながら、母は車椅子を押し続けた。


「それにね、学校の友達からのメッセージにも嫌気がさすの。元気になったらまた遊びに行こうね。って。おかしいよね、その子は心配してくれてるだけなのに」


「その子が事故に遭えばよかったのにって、思うの」


「……うん」


 母は話を聞きながら、やはり車椅子を押し続けた。

 けれど私の耳に届く母の声は、何かを我慢しているように思えた。


「でもね、楽しいこともあるんだよ」


「そうなの?」


「うん、昨日は夏希くんと花火を見にいったの」


「え?」


「夜にね、大きな船から上がった花火がぱあっと咲いてね、音楽も流れていて、すごく綺麗だったの」


「小晴……」


「それにね、この前はね、夏希くんと海に出かけたの」


「……小晴……」


「汗びっしょりになるくらい暑いのにね、海の水って冷たいの。肌が焼けるまで二人で遊んだんだよ。夏希くん泳ぐの得意でね……」


「小晴!」


 突然、母が車椅子を押す手を止め、私を抱きしめた。

 耳元で母の涙する声が聞こえた。


「小晴……、夏希くんは、もういないのよ」


 静かな夏の音がだけがこだまする。


 いない? ああ、そうか、もういないんだ。


 涙が溢れた。すでに枯れたはずの涙が、止まることなく溢れ続けた。

 ぼやけた視界が、さらにぼかしを増していく。


「私が、私が誘ったの。夜に星を見たいって」


 記憶が蘇る。思い出したくない、あの日の記憶が。


 対向車線から射す眩しい光、激しい衝撃と耳を裂く激突音。焼けつくような痛みが走る足と突然霞んだ視界に映った、ひしゃげた彼の体。


「夏希くん、夢があるって言ってた。パイロットになりたいって。自分の手で操縦した飛行機で、自分の目で見たあの空を、飛んでみたいって」


 彼の笑顔が好きだった。

 無邪気で、眩しくて、愛らしくて。


 だから、まだあなたには、笑っていてほしかった。


「私が、私が死ねばよかったのに。何もかも奪った、最低な私が、……死ねばよかったのに」


 母は、私を強く抱きしめている。

 振り解けないほどに、強く抱きしめていた。


「最低じゃない……。もう、もういいのよ、小晴……」


 溢れ出す涙は、まだ止まらない。


 泣いたって、彼が戻ってくるわけじゃない。泣いたって、私の罪が、消えるわけじゃない。


 泣き止んでよ、泣きたいのは、私じゃないのに……。


 彼を探そうとしても、何も見えない。

 ごめんなさいを伝えようとしても、何も言えない。


 言葉を噛み砕いて、記憶を飲み込んで、それでもまだ、あなたに恋をしている。


「病院の屋上でね、死のうとしてもね、小さな柵すら越えられないの。私の弱い力じゃ、不自由な体じゃ、夏希くんのところには、行けないの……」


 麻痺した体に微かに伝わる母の温もりと、強い日差し、そして、深い青色の空だけが、悲しみに暮れる私の元へ届いている。


 もうすぐ夏も終わる。


 私を一人残して、また一つ、季節が過ぎていく。


 お願い、置いていかないで。置いていかないでよ。


 目の前をまたひらりと、蝶のようなものが舞った。


 お前は自由でいいよね、どこにだって飛んでいける。

 私を彼の元へ連れて行ってよ。


 きっと、あの空の向こうにいるから。

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