「船渡り」(5月18日)

 昔は未来など、簡単に思い描けた。


 小学生の頃、将来の夢について考える授業で、どんな職業を挙げたのかは、今ではもう思い出せない。

 けれど、根拠もなく並べられたそれら全ては、どこから湧いたのかも分からない自信によって、人生というキャンバスに色とりどりのクレヨンで描かれていた。


 無邪気に駆け回って遊んだ緑の美しい草原が、ゴミが散乱する無秩序な荒地へと変貌するように、大人になるにつれて、身動きが取れなくなっていく。

 そうしていつからか、遠い未来ではなく、少し先の未来を気にするようになった。


 考え出したらきりがなく、そのどれも答えに辿り着くことはない。


 どんな会社に勤めて、どんなパートナーと出会い、そのうち、いったいいつまで生きているのかすら、皆目見当も付かなくなる。

 それはまるで、黒い海の中で一人、小さな船の上で呆けているような気分だ。


 未来なんて誰にも分からない、と言うけれど、歩き出す方向すら分からないようじゃ、生きていくも何も、死に方すら分からずじまいだ。




「おはようございます」


「……はようございます」


 校門の前で、生徒指導の先生が大きな声で挨拶をしている。僕は自転車から降り、その挨拶に対して、小さい会釈と挨拶で返した。


 高校生になって一年が経ち、進学校として知られる私立の高校に通う僕は、今日も冴えない表情で登校していた。


 駐輪場に自転車を停め、下駄箱に向かうと、ちょうど上履きに履き替えていた雄介と目が合った。


「おはよう」


「……はよう」


 出席番号が前後の雄介は、僕が高校で唯一、友達と呼べる存在だ。


 今日はいつもより少し家を出るのが遅くなったため、教室に着くと、すでに多くの生徒が席についていた。

 程なくしてチャイムがなり、担任が扉を開けて入ってくる。

 柔らかい日差しの中、朝のホームルームが始まった。


「はい、おはようございます。では、出席をとりますね」


 担任が名簿を片手に、生徒の名前を読み上げていくと、扉に近い席の方から順番に返事が跳ね返っていく。


 窓の外から校舎の下を眺めると、遅れて登校してきた生徒が、生徒指導を受けているところだった。


 ふと、他の生徒はみんな、どんな気持ちで学校に登校するのだろうと、気になった。


 今日の授業の内容や、もうすぐ始まる中間試験の心配、はたまた、一日をともに過ごす友人のことや、個人的な悩みを抱える生徒もいるだろう。

 それとも、僕のように、何も考えすに、ただ学校に向かう生徒もいるだろうか。


 そんなことを考えていると、出席確認は窓際の僕の席まで進んでいて、自分の名前が呼ばれると、僕はいつもと同じく、小さな声で返事をした。


「では、今日も一日頑張りましょう。あ、それから、進路希望用紙の提出は、今週末が期限なので、遅れないように」


 まだ高校受験が終わってからそんなに月日が経っていないように感じるのに、休む間もなく、次の分岐点が迫ってくる。


 全ての選択が、その後の人生に大きく影響すると言うけれど、実際、慎重に見極めた選択など、両手で数え切れるほどしかない。


 この高校に受験しようと決めたのも、幼い頃から両親に「とにかくいい学校に入学するように」と言われ続けてきたからだ。

 たとえその教えに反して、落ちこぼれの高校に入学したとしても、結局は、同じような表情をしていたと思う。


 勉強は、積み重ねれば積み重ねるほど結果が出る。けれど、大学受験は少し違うような気がする。


 例えるなら今までは、目の前に聳える高い山を、どこまで登ることができるのかという、たわいも無い競争をしていたに過ぎなく、体力に自信があった僕は、難なく山の頂上へと辿り着いてきた。


 しかし、次に目指す行き先は、海の向こうに見える大きな島だ。この大海原を渡るには、船が必要になる。


 浜辺に散らばる漂流物で、皆それぞれ自分なりに船を作る。大きく立派な船ほど、波に飲まれることなく、向こう岸まで安全に渡ることができるだろう。


 僕はその船の作り方さえ知らず、地平線の彼方に存在する島へ向かう、方角すらも決めていない。

 途方に暮れた僕は、砂浜に座りこみ、嫌気がさすほど青い空を、ただ眺めているだけ。


 まるでそんな気がしてならないのだ。




「行きたい大学、決まってんのか?」


 昼休みになり、椅子を後ろ側に向け、僕の机に広げた弁当を頬張りながら、雄介が僕にそう聞いた。


「いや、全然」


「そうだよなあ。ついこの間、高校受験終わったような感じなのにな。俺も、行きたいところは明確には決まってないけど、専門学校か映像科のある大学に行こうと思ってるんだよね」


 雄介は、映画監督になるのが夢らしく、好きな映画の話や、バイトで貯めたお金で買った撮影機材の評価などを、よく話してくれる。


 その話をする雄介の目はいつも眩しく、彼自身でない僕ですら、彼が将来、現場で輝く姿を容易に想像できてしまう。


 僕が「全然」と答えたのには、目指したい学部や職業すらも決まっていないという意味で、雄介の同意とは全く的外れであることはすぐに気づいた。


 とはいえ、教室では、大学受験のための参考書を広げて、勉強に勤しむ生徒の姿も少しずつ増えてきている。


 前を向く方向がすでに決まっている人達を前に、焦りすらも覚えない僕は、遅れているのだろうか。




 その日の授業が全て終了し、僕は自転車で帰路についていた。


 いつも一緒に帰るはずの雄介は、放課後にバイトがあるらしく、その日は一人で帰ることになった。


 僕の住む街は海沿いにある。

 向かい風に吹かれながら自転車を漕いで見た風景は、夕空が地平線を金色に染めるとともに、遠くの街をぼかし、光の届かない手前の水面は、銀色に波打っていた。


 これから周りのみんなは、大きな船に乗って、向こう岸まで猛スピードで渡ってゆくのだろう。

 そんな中、僕は今にも壊れそうな小さな船に乗って、力一杯漕いでみようとするものの、陸に着く気配はなく、その勢いは次第に衰えていく。


 それでも、いつの日かはたどり着くのか。


 荒波に揉まれて服は汚れ、海で得た物は何もない。

 辿り着いた先で、僕が自信を持って出来ることは、何もないだろう。


 でも、生きている限り、こんな僕にも明日はやってきてしまう。


 僕はどんな大人になりたいのだろう。


 夕日が沈んでゆく海の彼方、僕はまた、少し先の未来を想像した。

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