「泳ぐ蜻蛉」(8月17日)
「山奥にあるトンネル知ってる?」
「ああ、レンガのトンネルでしょ? 知ってる、行ったことはないけどね」
「それがさ、出るって噂だよ」
「出る? 何が? まさか幽霊とか?」
「私は恐ろしい村に続いてるって聞いたよ」
「違うよ、怪物の住処なんだって」
「冥界への入り口だって噂もあるよ」
「良い子の皆さん、五時になりましたよ。そろそろお家に帰りましょう。市民の皆さん、この町の明日を担う子どもたちを、暖かな目で見守りましょう」
防災行政無線から流れる夕焼け小焼けのメロディが、午後五時を知らせている。
学生鞄を背負った背中の汗ばみと、帰り道に聞こえてくるトンネルの噂話に、妙に気が立っていた。
見れば、僕より三歳ほど年下に見える女子中学生たちが、楽しそうに話をしている。
馬鹿馬鹿しい。
僕は登下校のために、毎日そのトンネルのそばを通っているが、幽霊や怪物などという物騒なものはおろか、不気味な雰囲気すら感じたことがない。
それよりも、山奥にある家から登下校のために、毎日山を上り下りしなければならない苦労のほうが、よほど深刻な問題だ。
七年前に産婦人科のある病院へ向かう途中、事故に遭い亡くなった両親に代わり、祖父母が僕を育て続けてくれた。
もう随分と昔のことで、あまりよく覚えていない。
父と母も共働きだったため、祖父母と過ごすことは初めてではなかった。
その日も、いつもと変わらず、滴る汗を拭いながら山の中を歩いていた。
しかし、その日はいつもと違った。どんな因果で罰となったのか、噂のトンネルのそばには、見慣れない小さな少女がひっそりと立っていた。
異様に長い黒髪と透けるような肌から、その存在が人間でないことは想像できた。
そして、その白いワンピースを着た小柄な少女は、こちらに顔を向け、唇を微かに緩ませている。
僕を見ている。そう捉える他なかった。
僕の足はすくみ、山を登って上がった体温からは考えられないほど、手足は冷たく、小刻みに震えている。
僕は気が動転していた。動転していたが故、いや、動転していたにもかかわらず、僕は思いがけず声をかけてしまった。
「君は誰」
するとその少女は、ただ一言、冷たく凍るような声色で言った。
「こっちへおいで」白く細長い手は、僕のことをトンネルの方へ招いている。
「トンボがね、泳いでいるの」唇が小さく動く。
「トンボ?」
「そう、トンボが泳いでるとこ見たくない?」スローモーションのように口が動き、少女の声がこだましている。
「トンボは、泳がないよ」
「トンボは泳がない。けど、こっちにいるトンボは泳いでるの」
支離滅裂な会話の内容から、不気味さは残るものの、小学生くらいの女の子と話をしている気分だった。
「君はトンネルの向こうから来たの?」僕の問いに対して、少女はこくりと頷いた。
「トンネルを抜けた先には、何があるの?」
そう尋ねた瞬間、少女は長い前髪の隙間から、恐ろしい目を覗かせた。
「あなたの知らない世界」
「僕の知らない……?」恐る恐る繰り返す。
すると少女は、僕の言葉をかき消すように、目を見開いて、淡々と言葉を述べ出した。
「あなたが知らない世界の終わり。訪れなかった、存在しなかったあの日の出来事。滅びなかったあの日の記憶」
切迫した状況に、焦燥感はさらに増し、再び僕を襲う。それでも、僕は口を開いた。
「世界は――終わっていないよ」
時が止まった。
静かで、夏の音が全て消え去るような、そんな異様な静寂が訪れた。同時に、少女の弛んだ口元は強張り、顎先に数粒の涙が集まった。
「あなたが見た未来に、私はいた?」
溢れた涙は、少女を崩していくようだった。震え出した声は、最悪な予感を募らせた。
「あなたと見たかった」少女がゆっくりと歩き出した。
「僕と……?」体に動けと命じ、石のように固まった足を懸命に動かして、後退りをする。
「あなたに知って欲しかった」少女がゆっくりと迫ってくる。
「僕に……何を……?」逃げなければ、逃げなければ。
「私がいたことを!」
耳を裂くような奇声と白い影が、勢いよく僕に覆い被さった。僕は情けない悲鳴をあげ、地面に倒れ込んだ。
夢を見ていた。
白い病室で、健やかな産声が、透明なガラス越しに響き渡っている。
幼い僕の瞳に映るのは、両親の喜びの表情と、柔く弱々しく愛おしい赤子の姿だった。
僕の隣にいる看護師が、僕の肩に手を乗せて「よかったね」と微笑む。
僕は、もう一度、その光景を目にする。そして、その看護師に向かって笑い返した。
嬉しかったから。
――嬉しい? 一体、何が?
目が覚めると、玄関先の庭に倒れ込んでいた。
顔は汗だくで、呼吸は浅く、視界には青く純粋な大空が広がっていた。
恐怖や不安は微塵もなく、まして世界が滅亡するような予感など、これっぽっちも存在しない。
その爽快感は、恐ろしい悪夢から解放された後の、一種のカタルシス効果とも言えるようだった。
それほどまでに青く、美しく、どこか薄っぺらい空だった。
忘れてはいけない何かを、思い出せなくなってしまうような。
心に留めておくべきことを、見失ってしまうような。
人々が願った、何もない天国を夢見ているような。
そんな白昼の空だった。
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