第9話
ミオとジンが部屋を去った後、レイは床に座り込んだまま、どれくらいの時間、動けずにいたのか分からなかった。
静寂が、耳に痛い。ミオの優しさも、ジンの怒声も、もうここにはない。あるのは、自分の浅い呼吸と、壁の向こうから聞こえる、マナの生命維持装置の無機質なリズムだけだった。
(これでいい。これで、よかったんだ)
自分に言い聞かせる。もう、誰も俺の邪魔はしない。誰も、俺のために心を痛めることはない。俺は、たった一人で、マナのために全てを懸けることができる。
レイは、震える手で床をつき、ゆっくりと立ち上がった。
向かう場所は、決まっている。カイトが言っていた、非合法の臨床実験。
命を賭ける、最後のギャンブルだ。
ストレイ層の、さらに奥まった工業地区。地図にも載っていない、廃墟となった診療所が、その場所だった。
錆びついた鉄のドアを開けると、消毒液の匂いに混じって、わずかに血の匂いがした。待合室には、レイと同じように、追い詰められた顔をした男たちが、生気のない目で座っている。誰も、一言も喋らない。
やがて、白衣を着た、目の濁った男に名前を呼ばれ、レイは診察室へと通された。
「――同意書だ。よく読んで、ここにサインしろ」
男は、一枚の電子ペーパーをレイの前に放り投げた。そこに書かれていたのは、実験の危険性に関する、膨大な量の免責事項だった。
「被験者の精神が崩壊、あるいは死亡した場合においても、C.M.社および関連機関は一切の責任を負わない」
「成功すれば、クレジットは即日振り込まれる。失敗すれば……まあ、分かってるな?」
男は、汚れた歯を見せて笑った。
レイは、ペンを握りしめた。これを書けば、マナは助かる。だが、俺は……。
脳裏に、マナの笑顔が浮かぶ。ミオの泣き顔が、ジンの怒った顔が、次々に現れては消える。
(……ごめん)
心の中で、レイはもう会えないかもしれない友人たちに別れを告げた。そして、自分の名前を書き込もうと———
「――そこまでです」
凛とした、しかし氷のように冷たい声が、部屋に響いた。
診察室のドアが、いつの間にか開いている。そこに立っていたのは、この世の汚いもの全てと無縁であるかのような、白いワンピースを着た少女――ノアだった。彼女の後ろには、黒いスーツを着た、屈強な男たちが二人、控えている。
「な、なんだ、てめえら!」
白衣の男が、慌てて立ち上がる。
だが、ノアは彼を一瞥もせず、ただレイだけを見つめていた。
「私の貴重なサンプルが、自ら破損するのを見過ごすわけにはいきません」
「さ、サンプルだと……?」
レイが呆然と呟く。ノアは、隣に立つスーツの男に、静かに命じた。
「この実験を中止させてください。ここにいる被験者全員に、十分な補償金を。そして、この施設は、即刻閉鎖を」
「かしこまりました、お嬢様」
スーツの男が、端末を取り出す。白衣の男は、顔面蒼白になって、その場にへたり込んだ。
ノアは、ゆっくりとレイの前に歩み寄った。そのガラス玉のような瞳が、レイの心の奥まで見透かすように、じっと見つめている。
「あなたの選択は、やはり非合理的でした、レイ。自暴自棄という感情データは、何の利益も生み出しません」
「……なんで、ここに」
「あなたの動向は、常に監視させてもらっていますので」
ノアは、こともなげに言った。
「あなたが、私の手を振り払った後、どのような行動を取るのか。興味深い観察対象でした。ですが、これ以上の観測は、サンプルの喪失という、最も避けるべき結果に繋がる。よって、方針を変更します」
彼女は、レイの目の前に、一枚の黒いカードを差し出した。
「先日、あなたが拒絶した契約。その条件を、一部改定します」
「……なんだと?」
「マナさんの治療及び、あなたの生活に関する全ての費用は、私が無条件で、無制限に提供します。その対価として、あなたは、私の『専属サンプル』となる。私の好奇心が満たされるまで、あなたの人生の全てを、私に観測させるのです」
ノアの瞳には、何の感情も浮かんでいない。
「もう、あなたに拒否権はありません。なぜなら、あなたはもう、自分の命さえ捨てようとしていたのですから。あなたの命の所有権は、もはやあなた自身のものではない」
レイは、目の前の少女と、机の上の、サインされなかった同意書を、交互に見つめた。
地獄から救い出してくれた天使。
いや、違う。
地獄の淵で、俺の魂を買い叩きに来た、悪魔だ。
だが、今の俺に、この悪魔の手を振り払う力は、もう残っていなかった。
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