第30話:億
所長室は、買取所の喧騒が嘘のように静かだった。重厚なマホガニーのデスクと、革張りのソファが置かれた応接セット。壁には、高名な画家が描いたであろう風景画が飾られている。
田崎は、自ら淹れた深煎りのコーヒーを二人の前に差し出した。
「まずは、お礼を言わせてください。これほど貴重な品を、当協会に持ち込んでいただき、誠にありがとうございます」
悠真は無言でコーヒーカップに口をつけた。美琴は緊張した面持ちで、小さく頭を下げる。
「さて、本題の査定額ですが」
田崎はデスクの引き出しから電卓を取り出し、いくつかの数字を打ち込んだ後、真剣な表情で二人を見据えた。
「このマジックバッグの市場相場、そして極めて高い希少価値を考慮し、当協会として最大限の評価をさせていただきます」
ゴクリ、と美琴が息を呑む音が聞こえた。
「1億2000万円。これが、我々の提示できる適正価格です」
その金額を聞いた瞬間、美琴の肩が微かに震えた。悠真も、内心の動揺を悟られまいと、ポーカーフェイスを保つのに必死だった。事前にインターネットで調べた過去の取引履歴では、マジックバッグは2億円以上の値がつくこともあった。しかし、それはあくまでオークションでの話であり、協会による直接買取としては、破格の金額と言っていい。何より、彼らが事前に想定していた金額と、ほぼ一致していた。
「……その金額で、お願いします」
悠真が、努めて冷静な声で答えた。その一言に、田崎は満足げに頷いた。
「承知いたしました。では、手続きを進めさせていただきます」
売却は成立した。必要書類にサインをし、探索者証を提示する。代金は、悠真が指定した銀行口座に、その場で即時振り込まれた。スマートフォンのバンキングアプリを起動し、残高を確認した美琴が、隣で小さく息を呑む気配がした。画面に表示された天文学的な数字は、まだ現実のものとして受け止めきれずにいた。
手続きの最中、田崎は興味深そうに二人の探索者証のデータを眺めていた。平山悠真、レベル21。綾瀬美琴、レベル18。この若さで、これほどのレアアイテムを手に入れるとは、一体どんな探索をしているのか。田崎の鑑定士としての好奇心が、強く刺激されていた。
「失礼ですが、お二人は、普段どの階層で活動を?」
探るような田崎の質問に、悠真は曖昧に答えた。
「中級階層がメインですね。今回は、たまたま運が良かっただけです」
「運、ですか。その運も、実力のうち、と申しますからな」
田崎はそれ以上深くは追及しなかった。しかし、彼はこの若いパーティーのことを、協会本部に提出する重要アイテムの取引報告書に、特記事項として詳細に記載することを心に決めていた。平山悠真と綾瀬美琴。この取引をきっかけに、二人が探索者協会の上層部から注目されることになったのは、言うまでもない。
◇ ◇ ◇
その頃、朝霧紗夜は、秋葉原へ向かうJR山手線の電車に揺られていた。午前中は自宅で過ごし、昼から悠真たちとの待ち合わせに向かっているところだった。
窓の外を、目まぐるしく景色が流れていく。高層ビル、住宅街、そして再びビル群。その無機質な風景をぼんやりと眺めながら、紗夜はスマートフォンのメッセージアプリを開いた。トーク画面の一番上には、妹である千夏の名前がある。
『これから悠真さんたちと、もっと強くなるための装備を買いに行くよ。必ずお花を手に入れるから、待っててね』
メッセージを打ち込み、送信ボタンを押す。すぐに既読がつき、間髪入れずに返信が来た。
『がんばって、お姉ちゃん!』
その短い言葉と、元気なウサギのスタンプに、紗夜の口元が自然と綻んだ。
数ヶ月前の自分を思い出す。たった一人で、無謀な探索を繰り返していたあの頃。焦りと孤独感に苛まれ、心がすり減っていくのを感じていた。千夏を救いたい一心で、自分の命を顧みず、危険な階層に挑み続けていた。
それに比べ、今はどうだろう。
(私には、信頼できる仲間がいる)
悠真と美琴。二人の顔を思い浮かべる。圧倒的な強さと、それを決して驕らない優しさ。彼らと出会えたことは、自分にとって何よりの幸運だった。三人でパーティーを組むようになってから、探索は驚くほど安定し、収入も格段に増えた。何よりも、一人ではないという安心感が、紗夜の心を強く支えてくれていた。
千夏の未来に、確かな光が見えてきた。悠真が約束してくれた、『生命の花』の複製。その希望が、紗夜の胸を熱くする。
(もっと強くならなくちゃ。二人の足手まといにならないように。そして、千夏を笑顔にするために)
電車が秋葉原駅に到着するアナウンスが流れる。紗夜はスマートフォンをポケットにしまい、静かに立ち上がった。その瞳には、先ほどまでの柔らかな光とは違う、鋭い決意の炎が宿っていた。
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