第25話:祭りの喧騒、そして秘めたる想い

祭りの賑わいを楽しみながら歩いていると、射的の屋台が目に留まった。コルク銃が並び、その奥の棚には様々な景品が置かれている。アニメのキャラクターグッズ、お菓子、そして大小様々なぬいぐるみ。


その中で、紗夜の視線が一点に釘付けになった。棚の一番上に置かれた、可愛らしいクマのぬいぐるみ。ふわふわとした茶色い毛並みで、首には赤いリボンが結ばれている。


「これ……千夏にあげたい!」


紗夜の声には、強い決意が込められていた。千夏がきっと喜ぶであろうそのぬいぐるみを、どうしても手に入れたい。その一心で、彼女はコルク銃を手に取った。


一回目の挑戦。500円玉を渡し、五発のコルク弾を受け取る。逸る気持ちを抑えきれず、狙いが定まらない。パン、パン、と軽い音が響くが、弾は全て的を外れてしまった。


「くっ……もう一回!」


悔しさを滲ませながら、再び500円玉を差し出す。二回目の挑戦。今度は少し落ち着いて狙いを定めた。一発がお菓子の箱に当たり、棚から落ちる。しかし、本命のクマのぬいぐるみには一発も当てることができなかった。


「どうして……」


落ち込む紗夜の肩を、悠真が軽く叩いた。


「力みすぎだよ。肩の力を抜いて、リラックスして狙うんだ。銃を構えたら、一瞬息を止める。そうすればブレない」


「紗夜ちゃん、がんばって!」


美琴も隣で応援の声をかける。


仲間の声に励まされ、紗夜は三回目の挑戦に臨んだ。深呼吸をして、悠真のアドバイスを思い出す。肩の力を抜き、銃をゆっくりと構える。ぬいぐるみの頭部に照準を合わせ、一瞬、息を止めた。


パン!


乾いた音が響く。コルク弾は一直線に飛び、見事にぬいぐるみの頭部に命中した。ガタン、と音を立てて、クマのぬいぐるみが棚から転がり落ちる。


「やった!」


紗夜は思わず声を上げた。屋台の店主からぬいぐるみを受け取ると、そのふわふわの感触を確かめるように、ぎゅっと抱きしめた。


「やった! 千夏、きっと喜ぶ!」


満面の笑みを浮かべる紗夜の姿に、悠真と美琴も、自分のことのように嬉しくなった。


 ◇ ◇ ◇


午後8時が近づき、祭りのクライマックスである花火大会の時間が迫ってきた。辺りの人々も、そわそわと空を見上げ始めている。


「始まる前に、何か飲み物を買っておきましょう」


美琴の提案で、三人は近くのコンビニエンスストアに立ち寄った。冷たいお茶とお菓子をいくつか購入し、花火がよく見えるという河川敷の土手へと向かう。


土手にはすでに多くの人々が場所取りをしており、レジャーシートを広げて花火を待っていた。三人も空いているスペースを見つけ、腰を下ろす。川面を渡る夜風が、祭りの熱気を帯びた体に心地よかった。


「今日は、本当に楽しい一日でした。病院に来ていただいただけでも嬉しかったのに、お祭りまで……」


紗夜が改めて感謝の言葉を口にした。


「俺たちも楽しかったよ。千夏ちゃんにも会えたしな」


悠真が応じると、美琴も頷いた。


「千夏ちゃん、きっとぬいぐるみ喜びますよ。紗夜ちゃんの気持ちが、一番のプレゼントですね」


三人の間に、穏やかで温かい空気が流れる。悠真の隣には、ごく自然に美琴が座っていた。


その時、紗夜が「あ」と小さく声を上げた。


「ごめんなさい、中学の時の友達を見つけちゃった。少しだけ挨拶してきてもいいですか?」


「ああ、もちろん」


悠真が答えると、紗夜は「すぐ戻ります!」と言い残し、人混みの中へと消えていった。


残された悠真と美琴の間に、一瞬の沈黙が流れた。遠くで聞こえる祭りの喧騒が、二人の間の静けさを際立たせているようだった。


 ◇ ◇ ◇


ヒュルルル……ドン!


午後8時ちょうど。最初の花火が打ち上げられ、夜空に大きな光の輪を描いた。遅れて、腹の底に響くような重い音が届く。それを合図に、次々と色とりどりの花火が夜空を彩り始めた。


「きれい……」


美琴が、感嘆の息を漏らした。彼女の横顔が、花火の光に照らされて幻想的に浮かび上がる。その瞳には、夜空に咲く大輪の花が映り込んでいた。


「本当だな」


悠真も空を見上げながら応じた。赤、青、緑、金。次々と変化する光の芸術に、周囲の人々からも歓声が上がる。


ひときわ大きな花火が、夜空を真昼のように明るく照らした、その瞬間だった。


悠真の右手に、ふわりと柔らかな感触が触れた。驚いて視線を落とすと、美琴の左手が、自分の手にそっと重ねられている。その手は少しだけ冷たく、そして微かに震えているようだった。


悠真が弾かれたように横を向く。しかし、美琴は花火を見上げたまま、こちらを見ようとはしなかった。その横顔は、緊張しているのか、それとも別の感情を隠しているのか、花火の明滅する光の中では判別がつかない。


悠真も、何も言えなかった。不意の出来事に思考が停止する。振り払うべきか、それとも……答えの出ない問いが頭を巡る中、触れた部分から伝わる彼女の温もりと、花火の音に負けないほどの自分の心臓の音だけが、やけにリアルだった。


「わあ、すごい! こんなに大きな花火、初めて見ました!」


その時、紗夜の弾んだ声がすぐ近くで聞こえた。彼女が友人との挨拶を終え、戻ってきたのだ。


その声に、美琴ははっとしたように、さりげなく悠真の手から自分の手を離した。あまりにも自然な動きだったため、戻ってきた紗夜は二人の間に流れた微かな緊張に気づくことはない。


「おかえり。すごいの、今始まったところだよ」


美琴が、何事もなかったかのように紗夜に微笑みかけた。


「本当ですね! うわ、次のはハートの形!」


紗夜が子供のようにはしゃぐ。その無邪気な姿が、悠真と美琴の間に漂っていた甘く切ない空気を、夏の夜の喧騒の中へと霧散させた。


「写真撮りましょうよ、三人で!」


美琴がスマートフォンを取り出し、カメラを起動させた。


「いいですね! 撮りましょう!」


紗夜が美琴の隣に駆け寄り、悠真も促されて二人の後ろに立った。


花火が打ち上がるタイミングに合わせて、シャッターが切られる。スマートフォンの画面には、色とりどりの光を背景に、弾けるような笑顔を浮かべる三人の姿が収まっていた。


やがて、花火大会はフィナーレを迎えた。無数の金色の光が、まるで天から降り注ぐ柳のように夜空を埋め尽くす。その圧倒的な光景に、三人は言葉を失い、ただただ空を見上げていた。


祭りの終わりを告げるアナウンスが流れ、人々がぞろぞろと帰り支度を始める。その人波に乗りながら、三人も駅へと向かった。


「今日は、本当にありがとうございました」


駅の改札前で、紗夜が改めて深々と頭を下げた。その目には、楽しかった一日の思い出と、二人への感謝が溢れている。


「こちらこそ。また一緒に来ような、来年は千夏ちゃんも一緒に」


悠真が言うと、美琴も力強く頷いた。


「はい、絶対!」


紗夜は満面の笑みでそう答えると、改札の中へと消えていった。


残された悠真と美琴も、同じ改札を通って電車に乗り込んだ。アパートまでは電車で数駅の距離だ。車内は夏祭りの帰りの家族連れで賑わっていた。二人は吊り革につかまりながら、どちらからともなく口を開くことはなく、ただ車窓を流れる夜景を眺めていた。


やがて西新宿駅に到着し、改札を出て夜道を歩き始める。アパートまでは駅から歩いて5分ほど。先ほどまでの喧騒が嘘のように静かな住宅街を、二人は並んで歩く。アスファルトを蹴る二人の足音だけが響いていた。悠真の右手には、まだ微かに、彼女の柔らかな手の感触が残っているような気がした。

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