東京ダンジョン物語

さきがけ

第1話:ノックが告げる、いつもの週末

2024年6月1日、土曜日。朝8時。


西新宿の片隅にある築15年のアパート。その一室で、平山悠真は目を覚ました。


カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋の中を斜めに切り裂いている。エアコンのタイマーは7時半にセットしてあったが、室温は28度を超えていた。梅雨明けを思わせる、じりじりとした暑さの始まりだ。


「ん……」


ベッドから身を起こし、首を左右に回す。昨夜遅くまでダンジョン攻略の動画を見ていたせいか、少し寝不足気味だった。それでも、週末の朝に目覚まし時計より早く目が覚めるのは、もはや体に染み付いた習慣になっている。


枕元のスマートフォンを手に取り、時間を確認する。8時3分。いつもの時間だ。


立ち上がってカーテンを開けると、眩しい朝日が部屋いっぱいに広がった。窓の外には、新宿の高層ビル群が朝靄の中にそびえ立っている。その向こうに見える青空は、今日が絶好のダンジョン日和であることを告げていた。


トントン。


控えめなノックの音がドアから聞こえてきた。この時間、この遠慮がちなノックは一人しかいない。


「悠真さん、起きてますか?」


玄関のドア越しに聞こえてくる声は、予想通り隣人の綾瀬美琴のものだった。


「起きてるよ、美琴」


「あ、よかった。朝ごはん作ってきたので、一緒に食べませんか?」


いつもの申し出に、悠真は苦笑を浮かべる。美琴がこうして朝食を作ってくるようになってから、もう1年以上経つ。最初は遠慮していたが、今ではすっかり日常の一部になっていた。


「ありがとう。すぐ開けるよ」


パジャマのままで玄関に向かう。チェーンロックを外し、ドアを開けると、エプロン姿の美琴が立っていた。腰まで伸びた黒髪は、いつものように丁寧に整えられている。手には竹で編まれた大きめのバスケットを提げていた。


「おはようございます、悠真さん」


「おはよう。今日も早いね」


「土曜日は探索の日ですから。しっかり食べないと、スタミナが持ちませんよ」


そう言って微笑む美琴の顔に、悠真は一瞬だけ既視感を覚えた。4年前、高校2年生の時に初めてパーティーを組んだ日も、彼女はこんな風に笑っていた気がする。


 ◇ ◇ ◇


悠真の部屋は1LDKのシンプルな間取りだ。リビングには、2人掛けのダイニングテーブルと、壁際に置かれた本棚、窓際のソファ、そしてその正面にテレビが置かれている。本棚には、ダンジョン関連の専門書や、大学の教科書が雑然と並んでいた。


「今日は何を作ってきたの?」


「和食にしました。焼き鮭に卵焼き、ほうれん草のお浸しと、お味噌汁です」


「おお、今日も気合入ってるね。いつもありがとう」


「いえいえ、私が好きでやってることですから」


美琴はそう言いながら、手際よく食器を並べていく。この2年間でキッチンの使い方もすっかり覚えたようで、まるで自分の家のように動き回っていた。


「そういえば、昨日の講義どうだった?」


「近代文学史ですか? レポートの課題が多くて大変です……夏目漱石の作品分析なんですけど」


「ああ、文学部は読む量が多いって聞くもんな」


二人が通う大学は、都内でも有数の規模を誇る総合大学だ。悠真は経済学部の3年生、美琴は文学部の2年生。学部は違えど、同じ大学に通っているのは偶然ではない。美琴が悠真と同じ大学を選んだのは、明らかに意図的なものだった。


「今日は新宿中央公園ダンジョンの10階層でしたよね?」


箸を動かしながら、美琴が確認する。


「ああ。最近は安定して素材が取れるから、来年の学費分も貯まったよ」


「それなら良かったです。でも、悠真さん、最近装備の修理代もかさんでるって言ってましたよね?」


「まあ、何とかなるさ。ただ、剣の調子がちょっと心配なんだよな」


悠真は壁に立てかけてある愛剣を見やる。購入してから3年になるその剣は、度重なる戦闘で刃こぼれが目立ち始めていた。


「新しいの、買った方がいいんじゃないですか?」


「そうしたいのは山々なんだけどね。良い剣は最低でも30万はするから」


「30万……」


美琴も思わず息を呑む。探索者向けの装備は、一般的な道具とは比較にならないほど高価だ。特に武器は、ダンジョン内の過酷な環境でも壊れない耐久性と、モンスターとの激しい戦闘に耐える強度が求められるため、その分値段も跳ね上がる。


「まあ、もう少し頑張ってみるよ。この剣にも愛着があるしね」


 ◇ ◇ ◇


朝食を終え、二人はそれぞれ準備を始めた。


悠真は自室で探索用の装備に着替える。動きやすいカーゴパンツに、モンスターの爪や牙に対する防御力を持つ特殊繊維のシャツ。その上から、軽量ながら防御力の高いレザーアーマーを身に着ける。


腰のベルトには、ポーション類を収納するポーチと、予備の短剣を装着。メインウェポンの剣は、専用の鞘に納めて腰に下げる。そして、ドロップアイテムを収納するための大きめのリュックサックを背負う。


一方、美琴も隣の部屋で準備を進めていた。魔法使いタイプの探索者である彼女の装備は、悠真とは対照的だ。動きやすさを重視したローブ風の戦闘服に、魔力を増幅させる効果のあるアクセサリー類。手にする杖は、魔法の発動を補助し、狙いを定めやすくする道具だ。彼女もまた、素材収集用のリュックを背負う。


「準備できた?」


8時45分、二人はアパートの玄関前で合流した。


「はい、ばっちりです」


「じゃあ、行こうか」


アパートから新宿中央公園までは、徒歩で約15分。土曜日の朝ということもあり、通りにはまだそれほど人影はない。時折すれ違うのは、同じように探索に向かうと思われる装備を身に着けた人々だった。


「天気が良くて良かったですね」


「ああ。やっぱり晴れてると気分も上がるよな」


他愛もない会話を交わしながら、二人は歩を進める。


途中、コンビニエンスストアに立ち寄り、飲み物を購入した。ダンジョン内での水分補給は重要だ。食事については、美琴がいつも手作りの弁当を用意してくれている。


「今日のお弁当は何?」


「内緒です。お昼のお楽しみということで」


「相変わらずじらすなあ」


そんな会話を交わしているうちに、目的地が見えてきた。


 ◇ ◇ ◇


新宿中央公園。


10年前、世界中で同時多発的に出現したダンジョン。この公園の中央に突如として現れた石造りの建造物も、その一つだった。


今では公園の周囲に、探索者向けの施設が立ち並んでいる。装備品を扱う店、素材の買取所、簡易宿泊施設、そして探索者協会の支部。まるで一つの街のような賑わいを見せていた。


「相変わらず人が多いですね」


「土曜日だからな。平日は仕事や学校がある人も、週末なら探索できる」


ダンジョンの入口へと続く石段には、すでに多くの探索者たちが列を作っていた。年齢層は幅広く、高校生と思われる若者から、白髪混じりのベテランまで様々だ。


「おはようございます。探索者証を拝見します」


受付窓口で、制服を着た職員が事務的に告げる。悠真と美琴は、それぞれ探索者証を提示した。


「平山悠真さん、レベル20。綾瀬美琴さん、レベル17。転送先は?」


「10階層でお願いします」


「10階層への転送ですね。1000円になります」


料金を支払い、転送ゲートへと向かう。青白い光を放つ円形のゲートは、古代の魔法陣を思わせる神秘的な佇まいだ。


「それでは、お気をつけて」


職員の言葉を背に、二人はゲートに足を踏み入れた。


一瞬の浮遊感。まるで水の中を潜っているような、不思議な感覚が全身を包む。そして次の瞬間には、見慣れた10階層の転送地点に到着していた。

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