第3話 タバコの煙

 目を覚ましてスマホの時計を見ると、もう朝の4時になっていた。

 横を向くと、ベッドの縁に座ってタバコを吸っている五十嵐さんの姿があった。


「五十嵐さん」


 私が声をかけると、彼女はビクッと肩を揺らして、恐る恐るこちらを向く。

 私は服を着ようと思ったが見つからず、代わりに近くに置いてあったタオルを体に巻き付けて彼女の隣に座る。


「えっと…その〜…」


 五十嵐さんは気まずそうに頭を掻く。

 私がずっと彼女のことを見つめていると、


「怒ってる…? よね…」


 と言う。


「酔った勢いで…って言っても駄目だよね。本当に…ごめんなさい」


 五十嵐さんはそう言って、深々と頭を下げる。

 私は五十嵐さんに、顔を上げてください、と伝え私も言葉を続ける。


「どうなるかわかっていて身を委ねたのは私です。こちらこそ、ごめんなさい」


 そう言って、私も頭を下げる。


「な、なんであまねちゃんが謝るの? 悪いのは完全にこっちだから! 頭上げてよ」


 五十嵐さんが焦ったようにそう言ったから、私は頭を上げる。

 すると、彼女の瞳と目が合って心臓がドクンと跳ねる。


 彼女の目にはもう涙は溜まっていなかった。少しだけ、ほっとする。


「あの、ひとつ聞きたいんですけどいいですか?」


「え? う、うん! なんでも聞いてよ。ていうか、私拒否権ないし…」


 五十嵐さんを真っ直ぐ見つめ、小さく尋ねる。


「———なんで私を抱いたんですか?」


 私は目が覚めた瞬間から、気になっていたことを聞く。

 酔った勢いとはいえ、なんで急にあんな行為に至ったのだろうか。


 嫌——…だったわけじゃない。ただ、純粋に気になるだけ。


 私は五十嵐さんの返答を待つ。でも、10秒も20秒も待っても五十嵐さんは口を開かない。


 もしかしてだけど———


「理由はなかったんですか? まあ、ないならないで…いいですけど」


「り、理由がないなんてことはないよ!! …理由はあった。ちゃんと、明確に…」


 そう言う声がだんだんと小さくなっていく。

 理由。理由って本当になんだ。

『あまねちゃん、かわいい顔してる』と言っていたから、それなのか。でもそれは、キスしてみたい理由だったからセックスしたかった理由とは違う気がする。


 私は五十嵐さんの言葉を待つ。

 すると五十嵐さんは眉毛を八の字に曲げて、こちらを向いて、口を開く。



「——彼氏のこと、忘れられる気がしたから」



 ドキッとした。私は瞬きを忘れて、ただ彼女を見つめる。


「そう、ですか」


「……本当に、ごめん」


 五十嵐さんは視線を落として、タバコを灰皿に押し付ける。

 私の胸の奥で、妙な共鳴が生まれる。


 ———忘れたい。私と、同じ。


「…忘れられたんですか? その、彼氏さんのことは」


 そう問いかけると、五十嵐さんは少しだけ口を開きかけて、躊躇して、やがて小さく頷いた。


「……してる時は、忘れられたよ」


 その答えに、私はふっと息を吐いて、小さく笑う。


「それなら、よかったです」


 嘘ではなかった。泣きはらしていた昨日の彼女を思い出すと、余計によかったと思った。


 沈黙が落ちる。窓の外では、ビルの隙間から朝日が輝いていて、始発が走り始める音がかすかに聞こえ始めていた。


 五十嵐さんは視線を落としたまま、ポツリと呟く。


「ねえ、あまねちゃん」


「はい?」


「嫌だったら、全然断っていいし、強制するわけじゃ、ないんだけど」


 五十嵐さんは私を真っ直ぐ見て、告げる。



「彼氏のこと、忘れられるまででいいからさ、私とセフレになってよ」



 思わず言葉を失う。唐突に聞こえるけど、その声色は本気だった。責任から逃げるわけではない、ただ必死に縋るような響き。


 この人は、本気で忘れたいんだ。彼氏のことを。


 私は考える。

 彼氏を忘れるため、そんな理由で始まる身体の関係なんて、よくない。それに相手は、10歳も年上だ。

 でも、理性が並べた正しさより、胸の奥の声の方がよっぽど私に響く。


 忘れたいのは、私も一緒。

 でも、私は五十嵐さんに抱かれた時、余計にあの人のことを思い出した。首に回された腕で、強引さの残滓で、数々の仕草で。


 また、彼女に抱かれてもいいと、心は言っている。

 忘れたいのに、彼女に触れられるたび、閉じたはずの引き出しが開いて、中身がこぼれ落ちる。辛くて、辛くて、苦しいのに、その痛みが嬉しくて、抱きしめたくなる。


 忘れるための行為が、記憶を呼び覚まし、心に傷をつける。

 それでも『よかった』と答えてしまったのは、矛盾したその感情ごと、私自身が望んでいたからだ。


「———忘れるまで、ですね」


「う、うん」


「いいですよ」


「———え?」


「なりましょう。セフレに」


 私がそう言うと、五十嵐さんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。


「え、え、え、え!? 本当にいいの!?」


「いや、そっちが提案してきたんですよね?」


「や、そうだけど!! 絶対無理だと思ってたからさぁ!!」


 私は五十嵐さんの焦った姿に笑いが込み上げてくる。


 五十嵐さんはなんで笑うの、と言いながら、新しいタバコに火をつけていた。タバコを吸う五十嵐さんの横顔を見つめながら尋ねる。


「……タバコって美味しいんですか?」


「美味しいわけじゃないけど…。1本吸ってみる?」


 いやなに言ってんだよ、未成年に喫煙を勧めてどうする。


「未成年だから吸えないですよ。まあ、成人しても吸う気は———」


 私がそう言うと、五十嵐さんの顔が固まり、手に持っているタバコを離してしまう。


「ちょ、火事になりますよ!?」


 私がそう言うと、五十嵐さんは急いでタバコを拾い、つけたばかりにも関わらず、灰皿に押し付ける。


 タバコの火が消えたことを確認すると、五十嵐さんは冷や汗をかきながら困惑した表情でこちらを向く。


「え、待って待って待って待って待って!? あまねちゃん、未成年なの!? え、いくつ?」


「え? 高1で…まだ15ですけど」


「じゃあ、私は10歳下の未成年に手出して、セフレになろうって提案してるってこと!? やばいやつじゃん!? え、犯罪!?!」


 五十嵐さんはまじかぁ、と言って頭を抱えている。まじかと言いたいのはこっちだ。まさか私が高校生だと知らなかったのか。


 呆れるを通り越して、笑いが生まれてくる。


「今更やめる、なんて言いませんよね?」


 五十嵐さんははぁ、とひとつため息をついて、またタバコに火をつける。

 そして緊張したようにこちらを向いて、そっと言う。


「よろしくね、あまねちゃん」


「はい、こちらこそ。五十嵐さん」


 私も自然に返す。


「成那でいいよ。長いでしょ」


「——じゃあ、成那さん」


 私がそう言うと、成那さんはふっと笑って、煙を吸う。


 始まったばかりのこの関係が、いつか終わる日が来るのだろうか。

 そして私も、いつかあの人を忘れられる日が来るのだろうか。


 私はそんな風に考えながら、ビルの間から顔を覗かせる朝日を眺めた。

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