第17話 急な誘い
早苗は、夫の智也に対して以前のような愛情はもちろん、恐怖などの感情も抱かなくなっていた。毎日家事をこなして仕事へ行き、智也の気分によって怒鳴られ、殴られ、優しく気遣われ、妻として求められ、何も感じられなくなってしまった。
喜びも悲しみも怒りもない。外界からの刺激をただ受け止め、機械的に義務をこなすだけだった。
早苗が感じていたのは、殴るときに目立つ部位は避けてくれてありがたい、ということだけだった。言い訳を考える必要に迫られずに済むからだ。殴られるのは当然のことだと思っていた。
タブレットを手にすることも減り、SNSも見なくなっていた。唯一やり取りをしていたEMA522とのメールも、途絶えがちになった。
なぜなら、SNSで智也の愚痴をつぶやいていたことが恥ずかしくなったからだ。自分が無能なせいなのに、その愚鈍さを自ら言いふらしていたなんて、なんとバカな真似をしていたのだろうと反省した。
EMA522には、それはモラハラやDVなのではないかと指摘されてしまったから、また誤解されてしまうと思ってなおのこと言えなかった。
生田のことを話したことも後悔していた。自分の不道徳さを嬉々として話すなど、バカ丸出しである。見知らぬ相手とはいえ、プライベートな部分をさらけ出すというのは、自分の中にある無防備な感情が、社会的な価値判断でジャッジされるのだと知って恐ろしくなった。
元気がなく日常的に虚ろな表情をしていても、気にとめる人は誰もいなかった。
早苗は、実家の両親にはもちろん、友人にもネットにも誰にも言えず、一人で受け止め、耐えていたのだった。
そしてその日、仕事を終えていつものようにバス停で待っていた。
「早苗さん」
振り向かずともわかるその声は、何度もこの場で聞けたらと焦がれていた声だった。
しばらく動かしていなかった口角の筋肉を精一杯上げてから、その声のほうへ振り返った。
「お疲れさまです。生田さん」
「2週間、3週間ぶりくらいですか? 遠くからお見かけすることはありましたが、お話するのは久しぶりですね」
久しく見ていなかった生田の笑顔を見て、鼻の奥がつんとした。涙をこらえようとして、不自然にならない程度の角度に顔をそむけた。
「ええ、確かに。お久しぶりです」
「帰宅されるんですよね? 送りますよ」
生田は以前と変わらず、陽気な態度だ。
もう二度と、こんなふうに声をかけて欲しくないと思っていた。二人きりになりたくないと思っていた。
しかしその言葉を聞いて、生田と日常的に会話をしていたことが一気に蘇った。
あの頃は穏やかで、幸福だった。
智也から殴られることはなかったし、パートの仕事もやる気に満ち、家事の合間にこっそりとタブレットを見ることが楽しかった。
ほんの少し前のことなのに、今やなんて遠いところへ来てしまったのだろう。まるで他人のことのようだ。
胸が詰まった早苗は、生田に反応を返すことができず、促されるままに歩き始めた。
そしていつの間にやら車にまできて、導かれるように乗り込んだ。
生田は微笑を浮かべているだけで何も言わず、早苗が乗り込んだあと、ゆっくりと車を発進させた。
車は早苗の自宅の方へは向かわず、幹線道路のほうへ入っていった。走り始めても会話はなく、オーディオから微かに流れている軽快なポップスの音楽だけが響いていた。
しばらくして道の駅の駐車場へと入り、停車した。
「早苗さん、元気がないようですね。僕に会ったせいだなんて自惚れたいところですが、そうではないように思います」
早苗はどこを見るともなくただ前へ向けていた視線を、声のする方へ向けた。
そこには生田の笑顔が、自分を気遣わしげに見つめる優しい眼差しがあった。
視界がぼやけ始め、再び鼻の奥から込み上げてくるものを感じた。
「大丈夫ですか? どうしたんですか?」
早苗は流れる涙を見られまいと窓に顔を背け、目の端を素早く拭った。
「……なんでもありません」
「あのときはお互いに酔っていたんです。もう忘れましょう。二度とあのようなことはしません。すみませんでした」
生田は、そのときのことを早苗が気にしていると思っているようだ。
早苗も思い出していたが、気にするどころか自分の過去とは思えず、誰かの身に起きたことか、遠い世界のフィクションのように感じただけだった。
全ての感覚に蓋をして機械的に過ごしていたせいで、蘇ってきたそれまでの記憶と様々な感情が、自分のこととして処理することができなかった。
「私は、帰らなければなりません」
早苗はフロントガラスを見つめながら、呟くように言った。
「何かご予定がありましたか? 勝手にこんなところへ連れ出したりして申し訳ありません」
「……今までありがとうございました。もうこのように送っていただかなくて結構です」
「あー、やっぱり怒ってるんですね? すみません! 本当にもうあのようなことは致しませんから」
生田は気まずい空気を取り去ろうとしたのか、少しおどけた調子を含ませて言った。
「怒っていません。……ただ、私には夫がおりますし、その、生田さんにとって無駄な時間といいますか、えっと、倫理的にも良くないですし、同僚と言っても、ここまでするのは行き過ぎだと……思います」
早苗は毅然とした態度を取ろうと努力をしたが、声は次第に弱々しくなり、最後は消え入りそうになった。
「早苗さんが結婚されてるのは重々承知しています。僕の願望を押し付けてしまって、申し訳ありませんでした」
早苗は生田に視線を向けた。
誠意を感じる声音と同様に、顔付きも真剣で、本心から詫びているように感じられた。
「以前お伝えしましたが、僕は早苗さんとお話しすることが好きなんです。ただ、職場では会話もままならない。そのため、このように機会を見つけてお誘いしておりました。ですが、それが早苗さんをご不快にさせているのであれば、僕の本意ではありません。このようにお誘いするのはこれで最後にします」
見るも美しく、笑顔だけで人を魅了するような人物が、こんなにも誠意をもって好意を伝えてくれている。
そんな彼に欲望を滾らせてしまっても、それを咎めないばかりか水に流してくれた。
もうこれで最後。そうであるべきだ。二度と二人きりになりたくないと思っていたのだから。
しかし、なんと名残惜しいことだろう。
生田といる時間は、早苗にとってもこのうえなく楽しい時間なのに。彼もそう言ってくれているのに。
「……今回で最後にします。ですから、最後に一度だけ、一緒に食事をしていただけませんか?」
名残惜しさを感じた途端に、最後に一度だけだからと誘われた。
早苗は迷った。
こんなふうに会うのは倫理的にも体面的にもよくない。そうはっきりと言葉にした。生田は早苗の気持ちを尊重し、理解してくれた。
その彼が、最後に一度だけだからと頼んでいる。
これ以上どう断れと言うのか。もう断れない。
──断りたくない。
「はい。よろしければ是非」
そう答える以外になかった。
生田は満足げに頷くと、再び車を発進させた。店の希望を聞かれたが、早苗にあるはずもなく、生田に一任した。
10分程度のドライブの道中、二人はそれ以上会話をしなかった。早苗は窓に目を向け、流れ行く景色を眺めていた。
このまま生田と食事をすれば、智也が帰宅するタイミングには間に合わない。智也は早苗のいない家に帰ることになる。そんなこと、これまでに一度としてあっただろうか。買い忘れを買い直しに出たこと、管理人に突然呼び出されたこと、親が連絡なしに訪ねてきて外に連れ出したこと、色々と思いついたが、どれも帰宅した時には戻っていた。
つまり、今日が初めてだ。
智也の反応を想像するだけで恐ろしさで身がすくむ。このドライブと食事の後に待っているのは罵声と暴力だ。そう思うと気が重くなり、承諾した自分を責めたくなった。
しかし、生田の車の匂いやシートの感触、運転する生田の気配を感じていると、ますます離れがたく、承諾する以外になかったとも感じた。
久しぶりに聞いた生田の声や柔らかな笑顔、優しい眼差しが、以前の自分を引き戻していた。
夕方までの現実が剥離していき、機械的に生きていた無感覚な自分のほうを、他人のように感じ始めていた。
現在の早苗にとって、向こうがフィクションで、こちらが現実だった。
しかし、帰宅した瞬間にそれは反転する。
早苗は、帰宅したあとの自分と今の自分とが、同じ人間だとは思えなかった。その境界が地続きであるとは、どうしても考えられなかったからだった。
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