第五章『革命のフィナーレ』

5-1話

 ファッションショー、当日。

 会場である旧王立劇場のバックステージは、まるで決戦を目前に控えた城塞のように、制御された混沌と熱気に包まれていた。


 薄暗い闇の中を、舞台監督の鋭い指示が飛び交う。

 巨大な舞台装置が静かに移動する、車輪の音。


 衣装係の女性たちが、ピンを口に咥えながら、慌ただしく駆け回る足音。

 そして、分厚い緞帳の向こう側から、地鳴りのように響いてくる観客たちの、期待に満ちたざわめき。

 古びた舞台の埃の匂いと、化粧品の甘い匂い、そして人々の緊張した汗の匂いが混じり合い、この特別な夜だけの、独特な空気を作り出していた。


 その嵐のような喧騒の中心で、二人の指揮官は、静かに自分の仕事をこなしていた。


 一人は、エリーズ。

 彼女は懐中時計を片手に、まるで戦場の将校のように、的確な指示を飛ばし続けている。


 「照明、第七キューは四秒ではなく、三秒遅らせて!」

 「第二幕の背景、あと五センチ、左です!」


 彼女のその完璧な采配が、この混沌に秩序を与えていた。


 そして、もう一人は、イリゼ・ファーベル。

 彼はその喧騒から少し離れた、舞台袖の暗がりで、ただ静かに佇んでいた。

 技術的な準備には、一切口を出さない。

 ただ、その紫水晶の瞳で、この革命の主役である三人のミューズたちの様子を、見守っていた。

 彼こそが、この革命の魂の中心だった。


 三人のミューズたちが待機する楽屋。

 そこは、外の喧騒が嘘のような、張り詰めた沈黙に支配されていた。

 彼女たちは、まだ簡素な化粧着のままだ。

 その横には、これから彼女たちが纏うはずの三着の女神のドレスが、静かにその出番を待っている。

 空気は、期待と、そして押しつぶされそうなほどの恐怖で震えていた。


 フローラは、じっとしていられない。

 彼女は虎のように、狭い楽屋の中を行ったり来たり、歩き回っていた。


 「ああ、もう! 早く始まっちまえばいいんだよ! こんなの、生殺しだぜ!」


 その快活な声は、しかし硬く強張っている。


 セレネは、部屋の隅で目を閉じていた。

 彼女は、自分の心の中で、何度も何度も『月の姫君』の物語を反芻している。

 恐怖を、自分の役柄へと昇華させるために。

 その固く握りしめられた手のひらには、汗が滲んでいた。


 そして、ハンナ。

 彼女は故郷のパン屋から持ってきた、小さなパン生地の塊を、ただ黙々と捏ねていた。

 その慣れ親しんだ柔らかな感触だけが、今にも逃げ出しそうになる彼女の心を、この場所に繋ぎ止めていた。


 その時だった。

 楽屋の扉が静かに開かれ、イリゼが入ってきた。

 その穏やかな存在感が、三人の少女たちの尖った神経を、少しだけ和らげる。


 彼は、まず荒れ狂う太陽の乙女の元へ歩み寄った。

 そして、その肩にそっと手を置く。


 「フローラ様。その太陽の輝きを、恐れないでください。貴女が心から楽しめば、観客も必ず楽しくなります」


 次に、彼は月の乙女に囁いた。


 「セレネ様。貴女の物語を思い出してください。姫君は、今、最後の試練の扉の前に立っている。その扉の向こうに、光があります」


 そして、最後に彼は大地の乙女の前にしゃがみこんだ。


 「ハンナ様。そのパンと同じです。貴女は、ただ心を込めるだけでいい。そうすれば、それは必ず、人々の心を温めるものになります」


 彼の言葉は、魔法だった。

 三人の瞳に、再び決意の光が宿る。

 彼女たちは互いの顔を見合わせた。

 そして、初めて三人、一緒に、小さく、しかし力強く頷いた。


 その時、扉の外から声がかかった。


 「開演、十五分前!」


 三人は立ち上がった。

 その顔には、もう恐怖だけではない。

 これから始まる自分たちの物語への誇りと、そして武者震いのような興奮が浮かんでいた。





 楽屋の空気は、一つの共同体としての熱を帯び始めていた。

 三人のミューズたちは、互いに衣装の着付けを手伝い合い、小さな声で励ましの言葉を掛け合っている。

 フローラは、緊張で震えるセレネの手を強く握り、ハンナは母親のように、二人の髪へとそっと触れた。

 彼女たちは、もうただの寄せ集めではない。

 同じ運命に立ち向かう、戦友だった。


 その時だった。

 バックステージの喧騒が、まるで潮が引くかのように、すっと静まり返った。

 舞台監督の怒声が止み、走り回っていたスタッフたちの足が止まる。

 その場にいた誰もが息を呑み、一点を見つめていた。


 イリゼは、その異様な空気の変化に気づき、振り返った。

 そして、彼の心臓もまた、一瞬で凍り付いた。


 バックステージの薄暗い通路の奥から、一人の男が歩いてくる。

 ギデオン・ファーベル。

 その、あまりにも場違いな、圧倒的な存在感。

 彼はこの混沌とした舞台裏には似つかわしくない、完璧に仕立てられた夜会服を、その身に纏っていた。


 彼は周りの人間には、一瞥もくれない。

 その鷲の瞳は、ただまっすぐに、自分の息子だけを捉えていた。


 イリゼの目の前で、ギデオンは足を止めた。

 二人の父子の間を、重い沈黙が支配する。

 イリゼは、静かに、そして深く一礼した。


 「……父上。いえ、商会長。何故、こちらへ?」


 彼は、あえてそのビジネスの関係性を強調した。


 だが、ギデオンは答えなかった。

 彼は息子の肩越しに、舞台の方を見つめる。

 分厚い緞帳の向こうに満ちている、観客たちの熱気を感じ取るかのように。


 やがて、低い、地の底から響くような声が落ちた。


 「……満席だそうだ」


 それは、賞賛の言葉ではない。

 ただ、冷徹な事実の報告だった。


 「貴族も、商人どもも、物好きな平民も。王都中の人間が、お前の道化芝居を見に集まっている」


 そこで初めて、その視線が息子へ戻る。

 氷のように冷たい瞳。


 「……言い訳は、聞かんぞ。イリゼ」


 それだけだった。

 激励もなければ、罵倒もない。

 ただ、絶対的な結果だけを求める、商人としての最後通告。


 ギデオンは背を向けると、一言もなく闇の中へと去っていった。

 確保したであろう最高の貴賓席で、その審判の時を待つために。


 あまりの威圧感に、三人のミューズたちは息をすることさえ忘れていた。

 フローラが小さな声で呟く。


 「……なんだい、ありゃあ……。お伽噺に出てくる魔王かよ」


 だが、イリゼは少しも動じなかった。

 静かに、父が去った闇を見つめている。

 彼の心には、父の本当のメッセージが届いていた。


 (……舞台は整えた。満員の観客も集めてやった。言い訳の余地は、一切ないぞ。さあ、見せてみろ。お前の本当の力を)


 それは、彼が理解できる唯一の、そして最高の父親としての、不器用なエールだった。


 その時、舞台監督の声が響き渡った。


 「開演、五分前!」


 その声が、全員を現実へと引き戻した。

 イリゼは、ゆっくりと振り返る。

 その顔には、もはや一切の迷いも、不安もなかった。

 父が与えた最後の試練が、彼の覚悟を鋼へと変えていた。


 彼は三人のミューズたちを、そしてエリーズを見渡した。

 その声は静かだったが、その場の全ての人間の心を、一つにした。


 「さあ、皆様。参りましょうか」


 「……世界を、変える時間です」


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