1-4話


 アトリエ・サンドリヨンは、静かな熱を帯びていた。

 もはや、そこは、優雅なサロンではない。

 革命を目論む、司令部そのものだ。

 壁には、巨大な作戦ボードが掲げられ、無数の走り書きが、未来の設計図を描いている。

 空気は、木炭の匂いと、濃く淹れたコーヒーの香りに、満ちていた。


 エリーズは、その冷静な事務能力を、最大限に発揮していた。


 「ボス。予算とスケジュールを鑑みるに、モデルの選定と交渉は、今週中に完了させる必要があります」


 彼女は、分厚い貴族名鑑を、テーブルに置いた。

 その革の表紙には、王家の金箔紋章が、押されている。

 中には、王都の全ての令嬢の人生が、詰まっているかのようだった。


 「ここにリストアップしたのは、比較的低い契約金で、仕事を引き受けてくれるであろう、下級貴族のご令嬢方です。彼女たちを起用するのが、最も現実的な選択かと」


 エリーズの声は、感情のない鋼のように、響いた。

 その、あまりにも合理的な提案に。

 イリゼは、穏やかに微笑んだ。


 「そのお考えは、よく分かります。ですが、エリーズ、少しだけ違う視点をご提案しても?」


 彼は、おもむろに立ち上がった。

 そして、作戦ボードの前に行くと、一本の木炭を手に取った。

 彼は、そのボードの中央に、力強い文字を、書き記していく。

 木炭がボードを擦る、乾いた音だけが、部屋に響いた。


 【ミューズ選定基準】

 そして、彼は、その絶対的な掟を、一つずつ宣言し始めた。

 まるで、新しい世界の憲法を、起草するかのように。


 「第一条、貴族階級の者にあらず」


 その、最初の一文。


 エリーズは、思わず息を呑んだ。


 「……ボス? 正気ですか。我々のブランドは、高級路線です。貴族のお墨付きがなければ、誰も見向きも……」


 「その通り。だからこそ、なのです」


 イリゼの声は、静かだったが、強い確信に、満ちていた。


 「貴族の令嬢が、我々の服を着て、美しくなったとしても、人々はこう言うだけだ。『元がいいからだ』と。そこには、何の驚きも、物語もない。だが、名もなき街の娘が、どんな貴族よりも輝いたとしたら? それこそが、奇跡だ。それこそが、我々の売り出すべき、物語なのです」


 彼は、二つ目の掟を、書き加えた。


 「第二条、モデルの経験なき者」


 エリーズは、もはや反論の言葉さえ、失っていた。


 「……ですが、ボス。ショーまで、時間がありません。素人を一から訓練するなど、あまりにもリスクが……」


 「ええ。リスクは、あります」


 イリゼは、静かに言った。


 「ですが、それこそが、我々の誠実さの証明になるのです。プロのモデルは、服を『見せる』術を知っている。だが、私が見せたいのは、服を『生きる』姿だ。彼女たちのぎこちなさも、羞恥心も、そして、やがてそれが自信へと変わっていく、その軌跡の全てが、我々のショーの一部なのです」


 そして、彼は、最後の、そして、最も重要な掟を、記した。

 その文字は、まるで彼の魂そのもののようだった。


 「第三条、自らが持つ輝きに、未だ気づいておらぬ者」


 その、あまりにも詩的な条件。

 エリーズは、ついに降参したように、ため息をついた。


 「……ですが、ボス。そんな都合のいい人間、一体どうやって見つけ出すというのですか」


 「ああ」


 イリゼの瞳が、遠くを見るように、細められた。


 「それこそが、最も困難な部分だ。そして、最も面白い部分でもある」


 「我々が探しているのは、プロのモデルではありません。我々が探しているのは、まだ自分では気づいていない、物語の原石です。埃をかぶってはいても、その内側には、本物の輝きを秘めている。……その輝きを見つけ出し、磨き上げること。それこそが、人々が『魔法』と呼ぶ、私の仕事の本質なのですから」


 その、常軌を逸した選定基準は、風の噂か、メルシエ商会の役員たちの耳にも、入った。

 会議室は、再び、怒号と嘲笑に、包まれたという。


 「終わったな。あの若造は、完全に狂った」

 「自ら事業を、破滅させようとしているとしか、思えん」

 「ギデオン商会長も、可哀想に。とんだ馬鹿息子を、持ったものだ」


 イリゼとエリーズは、完全に孤立した。

 だが、二人の心は、少しも揺らいでは、いなかった。

 司令部と化した、アトリエ。

 その壁には、今、三つの、あまりにも無謀な掟が、高々と掲げられている。

 エリーズは、その掟を見上げた後、覚悟を決めた表情で、イリゼを見た。


 「……狂気の沙汰ですわね、ボス」


 その声には、しかし、非難ではなく、抑えきれない興奮の色が、宿っていた。

 イリゼは、窓の外、無限の可能性が眠る、王都の街並みを見つめていた。

 その顔には、決意に満ちた、静かな笑みが、浮かんでいる。


 「そうですね。」


 「ですが、最高の宝物は、いつだって、狂気のその先にしか、眠っていないものですよ。」


 イリゼ・ファーベルが投げ入れた小石は、王都という、淀んだ水面に、静かに、しかし、確実な波紋を、広げ始めていた。


 噂の発信源は、メルシエ商会。

 あの、鉄壁の秘密主義で知られる、巨大ギルドの内部から、漏れ聞こえてきた、ありえない計画。

 そのニュースは、まず、王都の上流階級のサロンを、駆け巡った。

 季節外れの薔薇が、咲き誇る、とある子爵夫人の温室。

 銀の食器の触れ合う、かろやかな音。

 貴婦人たちの扇子の後ろで、交わされる、密やかな囁き声。


 彼女たちの手には、一冊の週刊誌があった。

 『王都社交界週報キャピタル・ゴシップ』。

 その一面には、悪意に満ちた戯画カリカチュアと、扇情的な見出しが、踊っている。


 『ファーベル家の狂える御曹司、今度は下町で、サーカス団を結成か』


 「まあ、お聞きになって、皆様」


 一人の侯爵夫人が、記事を読み上げ、甲高い笑い声を、上げた。


 「『かの、路地裏のお医者様ごっこに、飽き足らぬ若きファーベル氏は、今度は、王都の下賤の者どもを集め、見世物小屋をお開きになるご様子。その出し物は、なんと、花売り娘や、パン屋の小娘に、ドレスを着せて歩かせるという、前代未聞の喜劇……』ですって。ああ、おかしい」


 「下品ですわ。わたくしたち貴族の文化である、ファッションを、愚弄するにも、ほどがあります」


 「メルシエ商会も、落ちたものね。あの、ギデオン様も、ついに、ご子息の道楽を、お認めになったのかしら」


 彼女たちの世界では、イリゼの革命的な試みは、ただのスキャンダル。

 そして、最高の暇つぶしの、ゴシップでしかなかった。


 噂は、次に、商人たちのギルドホールへと、達した。

 そこは、葉巻の煙と、欲望と、金勘定の声で、満ちている。

 彼らの関心は、貴族の品位ではない。

 ただ、ひたすらに、利益だった。


 「聞いたか。ギデオン・ファーベルの息子の話」


 一人の太った商人が、せせら笑う。


 「ああ、聞いたとも。どこの馬の骨とも知れん、街の娘を、モデルにするそうだ。正気の沙汰じゃない」


 「ギデオンも、耄碌したな。あんな馬鹿げた道楽に、ギルドの金を使わせるなど。メルシエ商会も、もう終わりかもしれんぞ」


 「いや、これは好機チャンスだ」


 別の、痩せた狐のような目をした商人が、言った。


 「奴らが、そんな道化芝居に、うつつを抜かしている間に、我々が、奴らの上客である貴族方を、根こそぎ奪い取ってしまえばいい。最高の漁夫の利だ」


 彼らにとって、イリゼの挑戦は、ただの愚行。

 そして、自分たちの利益を拡大するための、絶好の機会でしかなかった。


 そして、その噂は、最後に、本来届くはずのなかった場所へと、届いた。

 王都の下町の、活気あふれる市場。

 働く人々の汗と、土と、そして、ささやかな生活の匂いが、満ちる場所。

 ここで、その噂は、全く違う色合いを、帯びていた。

 それは、もはやスキャンダルではない。

 一つの、ありえないお伽話だった。


 「ねえ、聞いた? あの、路地裏の魔法使い様のお店が、今度、ショーを開くんですって」


 洗濯物を運ぶ、若い娘が、声を潜めて言う。


 「ええ、聞いたわよ。でも、そのモデルを、わたくしたちのような、街の娘から探すですって。まさか。そんなこと、あるはずないわ」


 「でも、もし、本当だったら……?」


 花売りの少女が、夢見るような目で、言った。


 「たった一夜だけでも、あんな綺麗なドレスを着て、舞台の上を歩けたら……。どんな気持ちが、するのかしら……」


 彼女たちの声には、嘲笑も、打算もない。

 ただ、純粋な憧れと、そして、「どうせ自分には無理だ」という、深い諦めだけが、あった。

 それは、イリゼがこれから戦わねばならない、最も手強い敵の、正体でもあった。


 アトリエ・サンドリヨン。

 その、静かな司令部で。

 イリゼは、エリーズが集めてきた、それら全ての情報を、読んでいた。


 ゴシップ誌の、悪意に満ちた記事。

 商人ギルドの、動向に関する報告書。

 そして、下町で集められた、人々の生の声。


 エリーズは、深刻な顔で、言った。


 「ボス。反応は、我々の想像以上に、悪いものです。貴族社会は、我々を敵と見なし、ライバル商会は、我々の失敗を、手ぐすね引いて待っている。そして、当の街の人々は、これを、ただのお伽話だと、信じてさえいない。……我々は、完全に四面楚歌ですわ」


 その、絶望的な報告。

 だが、イリゼは、ゆっくりと顔を、上げた。

 その表情に、焦りの色など、微塵もなかった。

 その唇には、むしろ、静かで、そして、絶対的な自信に、満ちた笑みが、浮かんでいた。


 「想像以上に悪い? ……いいや、完璧です。」


 「……完璧、ですって?」


 「ええ」


 イリゼは、立ち上がり、窓の外、眼下に広がる、巨大な王都を、見下ろした。


 「見てください。彼らは、笑っている。怒っている。噂している。だが、重要なのは、その全てが、我々の話をしている、ということです。」


 「まだ名前さえない、我々のブランドが。まだ誰も見たことのない、我々のショーが。今、この王都で、最大の話題になっている」


 「我々は、まだ一センたりとも、広告費を使っていない。それなのに、だ。誰もが、固唾を飲んで、我々がこれから何を仕出かすのかを、待っている。……彼らは、我々が壮大に失敗することを、期待している」


 彼の、紫水晶の瞳が、まるで未来でも見通しているかのように、きらめいた。


 「これほど、完璧な舞台設定は、ないでしょう?」


 「偏見が、大きければ大きいほど。懐疑心が、深ければ深いほど」


 「その奇跡が、起こった時、その輝きは、より一層、増すもの」

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