第二幕 『革命のファッションショー』
プロローグ
エキスポから数ヶ月。
季節は移ろいでいた。
王都には、秋の、高く澄み切った空が広がっている。
路地裏の『アトリエ・サンドリヨン』は、その姿を大きく変えていた。
いや、アトリエそのものは何も変わっていない。
相変わらず、そこには、静かで、洗練された、美の空間が広がっているだけだ。
変わったのは、その、アトリエを取り巻く世界の側だった。
扉を開けると、まず、客人を迎えるのは新しく雇われた、身なりの良い若い女性支配人だ。
彼女が管理する、分厚い革張りの予約台帳には、王都の名だたる貴族家の紋章が、数ヶ月先まで、びっしりと、並んでいる。
テーブルの上に無造作に置かれた、郵便物の山。
その一つ一つが、高価な羊皮紙に、優雅なインクで、依頼の言葉を綴った、貴婦人たちからの熱烈なラブレターだ。
窓辺には、ダリウスが感謝のしるしとして贈った、あの、小さな勿忘草が、青々とした葉を茂らせ、元気に育っている。
イリゼ・ファーベルの『魔法』は、もはや、秘密の噂話ではない。
王都の社交界において、誰もが無視できない、一つの、確かなブランドとなっていた。
その日もイリゼは、依頼人のカウンセリングを行っていた。
クライアントは、最近夫を亡くし、社交界での自らの立場に不安を抱いている、若い子爵夫人。
「……夫亡き今、わたくしのような、地味な女が、あの華やかな場所で、どう、振る舞えば良いのか……」
イリゼは、彼女の、その震える声に、優しく耳を傾ける。
そして彼の紫水晶の瞳は、彼女の、その不安の奥にある、本質を、正確に見抜いていた。
(……なるほど。彼女が、失ったのは、夫という、庇護者だけではない。自分自身の、女性としての、自信そのものだ。彼女に必要なのは、夫の威光を借りるための、喪服のようなドレスではない。彼女自身の足で、再び立ち上がるための、新しい始まりのドレスだ)
彼はいつものように、的確な分析と優しい言葉で、彼女の固く閉ざされた心の扉を、ゆっくりと、開いていく。
それは彼にとって、もはや手慣れた作業ですらあった。
彼女を救うことはできる。
この、金色の鳥籠の中で怯えている、一羽の小鳥に、再びさえずるための勇気を与えることはできる。
──だが
イリゼの心の中に、最近ずっと、一つの、小さな物足りなさが、影のようにあった。
◇
カウンセリングが終わり、希望に満ちた顔で帰っていく子爵夫人を見送った後。
イリゼは一人、静かになったアトリエで、その物足りなさの正体に向き合っていた。
彼は、窓の外、夕暮れに染まる王都の街並みを眺めた。
大通りを、豪華な馬車が走り抜けていく。
窓から見える、貴族の令嬢は相変わらず流行遅れの過剰な装飾のドレスを着て、自分を殺している。
道端では、花を売る快活な少女が、その、くすんだ服では隠しきれない、太陽のような笑顔を浮かべている。
彼女は、自分がどれほど美しいのか、その、百万分の一も気づいていない。
彼女は、ショーウィンドウに飾られた高価なドレスを、羨望の眼差しで見つめている。
あの輝きは、自分のような者には、決して手の届かない、星の世界のものだと信じ込んでいる。
イリゼの胸に、静かな痛みが走った。
──私は、グルナ様を、リラ様を、アマラント様を導いた。何人かの、星が墜落するのを防いだ。だが、夜空そのものを変えることはできていない
──私の想いは、この小さなアトリエの、壁の中に閉じ込められている。それは、この路地裏までたどり着くことのできた、一部の幸運な人間だけが、享受できる贅沢品に過ぎない
──これは革命などではない。これは、ただの、小さく、そして、美しい、反乱の連続だ。……これでは、足りない
彼の視線が、机の上に置かれた、一つのファイルへと落ちた。
それは、メルシエ商会の紋章が入った分厚い革張りの契約書。
父、ギデオン・ファーベルとの業務提携の証。
それは彼が、父との戦いに勝利した証だった。
だが同時に、それは、彼が今背負っている、新しい、そして巨大な責任の象徴でもあった。
この提携は彼に、今までとは比較にならないほどの資金と、影響力を与えている。
──その力を、ただ金儲けのために使うのか?
──いや違う。
イリゼの中で、この数ヶ月ずっと燻り続けていた、一つの、途方もないアイデアの種が、今、ついに、はっきりと、その芽を出した。
──もしも…
彼の紫水晶の瞳が、今まで誰も見たことのない、危険なほどの輝きを放った。
──もしも彼らに、見せることができたなら。一人、一人にではなく。王都の、全ての人間に、一度に見せることができたなら
──もしも、このアトリエの『魔法』を、この小さな部屋から解き放ち、王都で最も大きな舞台の上で、披露することができたなら
──もしも、美しさが、貴族だけの独占物ではないと証明できたなら。
──もしも、あの花売りの少女が、どんな姫君よりも輝けると証明できたなら。
──もしも、私がたった一人のシンデレラのためではなく、この街にいる、全てのシンデレラたちのために、舞踏会を開くことができたなら
イリゼは、そっと拳を握りしめた。
物足りなさの正体が分かった。
彼の、今、本当の戦うべき相手は、目の前の一人の依頼人の悩みではない。
この王都全体を覆っている、美に対する、古い、古い、常識という名の、巨大な怪物なのだ。
彼の顔に、笑みが浮かんだ。
それは、穏やかなコンサルタントの笑みではない。
これから途方もない革命を始めようとする、若き革命家の、不遜で、そして美しい笑みだった。
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