5-4話
その翌日からの数日間、工房の空気は静かな、しかし、確かな熱を帯びていた。
ペネロペとイリゼ。
二人は、まるで長年の師弟か、あるいは、共同研究者のように工房にこもり、来るべきエキスポのための準備に没頭していた。
イリゼのレッスンは、まずペネロペ自身を知ることから始まった。
彼は、大きな鏡の前に彼女を立たせると、グルナやリラの時と同じように、彼女の、そして、彼女だけの色と形を見つけ出すための
「ペネロペ様。まずは貴女自身の色を知りましょう」
イリゼは、様々な色の
「貴女の肌の色、その温かみのある象牙色。貴女の髪の豊かな栗色。そしてその大地を思わせる深い茶色の瞳。貴女を構成する色彩は、春のパステルのように淡くはない。冬の宝石のように冷たくもない。貴女の色は秋です」
彼が、深い錆びたような
「実りの秋。豊かな大地。そして夕暮れの空。深く、温かく、そしてどこか懐かしい。それが貴女を、最も美しく見せる色なのです」
次に彼は、彼女の骨格を観察した。
「貴女の身体のラインは華奢すぎず、肉感的すぎない。長年、織機に向き合ってきたことで培われた、まっすぐで、しなやかな軸がある。それは職人としての、貴女の誇りそのものです。その強さを隠す必要はありません。むしろ見せるべきなのです」
そしてイリゼは、彼女に一つの問いを投げかけた。
それは今までの、どの依頼人にもしなかった問いだった。
「ペネロペ様。この工房にある、全ての『光彩織』の中で。どれが最も貴女の物語を語っていますか」
その問いに、ペネロペは初めて自分の仕事を客観的な視点で見つめ直した。
彼女はしばらく、工房に眠る美しい布たちを見渡した後、迷いなく一つの反物を指し示した。
それは彼女が、先月織り上げたばかりの、最新作だった。
夕暮れの空が麦畑に沈んでいく、その一瞬の光景を布に閉じ込めたかのような、深い黄金色と、燃えるような赤銅色のグラデーション。
「……これです」
その声には、確かな自信が宿っていた。
「素晴らしい」
イリゼはその布を、丁重に作業台の上に広げた。
そして彼は、ドレスのデザイン画をその場で描き始めたのだ。
ペネロペの目の前で。
「この布の物語を、最大限に語らせましょう」
彼の木炭が、スケッチブックの上を滑るように走る。
「シルエットは、貴女の職人としての気高さを表現するために、シンプルで直線的に。首元は、詰まったデザインにして、媚びない知性を感じさせます。袖は、作業の邪魔にならないよう細身に。ですが、その袖口にだけ貴女のあの美しい手を引き立てるための、ささやかな刺繍を入れましょう」
彼は、デザイン画を描きながら、ペネロペに意見を求めた。
「この紋様は、ルーク工房に古くから伝わるものですか」
「この部分の織り方を変えれば、もっと光が柔らかくなるのでは?」
それは、一方的なプロデュースではなかった。
二人の芸術家の
◇
数日後。
イリゼのネットワークを駆使し、驚異的な速さで、そのドレスは完成した。
アトリエの大きな鏡の前でペネロペは、緊張した面持ちで、その完成品と向き合っていた。
イリゼが、そのドレスを彼女の肩に、そっとかける。
彼女自身が、その人生をかけて織り上げた光の布が、初めて彼女自身の肌に触れた。
そして、彼女は鏡を見た。
そこに映っていたのは、もはやあの埃まみれの、工房の娘ではなかった。
深く温かい色彩のドレスは、彼女の肌を、まるで内側から発光しているかのように輝かせている。
シンプルで気品のあるシルエットは、彼女の職人としての揺るぎない誇りを際立たせている。
そして何よりも。
そのドレスそのものが、夕暮れの光を宿した、魔法の布が、彼女をまるで神話に登場する、豊穣の女神か、あるいは気高い職人の女王のように見せていた。
彼女がずっとその内に秘めていた美しさが、ただあるべき姿でそこに現れただけ。
だが、それこそが最も美しい奇跡だった。
「これが……わたし……」
その呟きは、喜び、というよりも、深い、深い納得に満ちていた。
──これは、私だ。
これが二百年の歴史を継ぐ、ルーク工房の、魂の姿なのだ。
イリゼは、最後の仕上げを施した。
彼女の、豊かな栗色の髪を、丁寧に梳かし、作業の邪魔にならないよう、しかし優雅さを失わない、一本の三つ編みに結い上げる。
メイクは、ほとんどしない。
ただ、彼女の肌の自然な艶を引き出すだけ。
そして、彼女の情熱的な瞳を強調するだけ。
アクセサリーは何もない。
彼女の、あの美しい『手』こそが、最高のアクセサリーだからだ。
全ての準備が終わった。
イリゼは、一歩後ろに下がり、その完成した最高傑作を見つめた。
「鏡を見てください。ペネロペ様。そこに、何が見えますか」
ペネロペは、鏡の中の自分自身を、まっすぐに見つめ返した。
そこにいたのは、もう自信のない、内気な少女ではない。
二百年の伝統と、未来への希望を、その一身に纏う、誇り高き工房の主の顔だった。
ペネロペは、自分が生まれて初めて美しいとさえ思った、そのドレスを纏っていた。
鏡の中に立つ自分はまだ見慣れない。
だがその姿は、不思議なほど自分自身に、しっくりと馴染んでいた。
彼女は、初めて希望という名の、光に満ちた鎧を手に入れたのだ。
だがその鎧の使い方が、彼女にはまだわからなかった。
「……見違えるようです」
彼女はほとんど囁くように言った。
「ですがイリゼさん。わたしは……何をすればいいのでしょう。エキスポでどう振る舞えば……。わたしは、貴族や商人と話したことなどほとんどありません」
その声には、まだ昔の内気な少女の響きが残っていた。
イリゼは優しく微笑んだ。
「ご安心をペネロペ様。私の仕事はまだ終わっておりません」
彼は言った。
「我々は貴女という魂の『顔』を創り上げました。次はその魂に『舞台』と『声』を与えるのです」
彼はペネロペを作業台へと誘った。
そしてその上に、一枚の大きな設計図を広げる。
それはエキスポに出展するルーク工房の小さなブースのデザイン画だった。
「まず『舞台』です」
イリゼは説明を始めた。
「今までの貴女の工房の出展方法は、商品をただ山積みにするだけだった、と伺いました。それは、街で野菜を売るのと同じ方法です。ですが、我々が売るのは芸術品なのです」
彼が描いたデザイン画は、店のそれではない。
まるで小さな美術館の展示室のようだった。
壁は、光を吸収する深い紺色の布で覆われ、その中央に、たった一枚の『光彩織』が、まるで一枚の絵画のように飾られている。
照明は、上からの一筋のスポットライトだけ。
それは、布が自ら光を放っているかのような、幻想的な効果を生み出すだろう。
そして、そのブースの片隅には、彼女が実際に使っている、小さな携帯用の織機が置かれている。
「我々は商品を、大量に売るのではありません。我々は世界でたった一つの物語を見せるのです。ブースは、その物語に人々を誘うための入り口でなければならない」
次に彼は、一枚の美しく印刷された小さなパンフレットを彼女に見せた。
そこには値段は一切書かれていない。
ただルーク工房の二百年の歴史と『光彩織』の誕生の物語が、詩のような美しい言葉で、綴られているだけだった。
「そしてこれが貴女の『声』です」
イリゼは言った。
「これが貴女の代わりに物語を語ってくれる。ですが最後の最も重要な声は、やはり貴女自身の声なのです」
イリゼはその場でロールプレイングを始めた。
彼はわざと尊大で嫌味な商人になりきってみせる。
「ふむ面白い布だ。それで一メートルの値段はいくらかな。来月までに百反は用意できるのかね」
そのあまりにもリアルな商人の口調に、ペネロペは思わずたじろいだ。
「え……あ、そ、それは……糸の値段が……その納期は……」
彼女の答えはしどろもどろで哀れなほど自信がなかった。
「ストップ」
イリゼはすぐにいつもの穏やかな彼に戻った。
「ペネロペ様。今の貴女は、ただの追い詰められた商人です。それではいけません。貴女は商人ではない。貴女は芸術家なのです。二百年の秘密を守る、誇り高き工房の主なのです。交渉の主導権は、常に貴女が握らなければ」
彼は彼女に新しい台本を授けた。
「もし値段を聞かれたらこうおっしゃいなさい」
彼は優雅に微笑んでみせた。
「『申し訳ありませんが、これはメートル単位でお売りするようなものではございません。これは貴方が、その物語の一部になるためのものです。まずはこの光が、どのようにして生まれるのかそのお話を聞いていただけますか』と」
「商品を売ろうとしないでください。貴女の情熱を『分かち合う』のです。貴女の世界へ、彼らを招待するのです。この工房の二百年の物語に触れることを許された、特別な客として彼らをもてなすのです」
ペネロペは、彼の言葉を一つ一つ胸に刻みつけるように聞いていた。
それは彼女が、今まで最も苦手としてきた、他者とのコミュニケーション。
だが彼の言葉は、それを恐怖ではなく、一つの楽しい物語のように感じさせた。
その日から、二人の最後のレッスンが始まった。
イリゼは、ある時は価格と納期だけを気にする実利的な商人になりきり。
またある時は、その出自と審美眼をひけらかす、傲慢な貴族になりきって、彼女にあらゆる角度から揺さぶりをかけた。
ペネロペは、そのどちらの挑戦にも、誇り高き工房の主として、堂々と、応じてみせた。
最初はぎこちなかった彼女の言葉。
だが練習を重ねるうちにその言葉には、次第に熱と自信と、そして揺るぎない誇りが宿り始めた。
彼女はもはや台本を読んでいるのではない。
自分の魂の言葉で語っていた。
◇
エキスポの前日。
工房は綺麗に片付けられ、ブースの資材が運び出されるのを待っていた。
ペネロペは、イリゼがデザインしたあの光彩織のドレスをその身に纏っていた。
彼女は工房の窓ガラスに映る自分の姿を見つめている。
そこにいたのはもはや内気な職人の娘ではない。
その瞳には、父が、祖父が、そしてその前の全ての職人たちの魂の光が宿っていた。
彼女はもう一人ではなかった。
「準備は整いましたね」
イリゼが静かに声をかけた。
彼女はゆっくりと振り返りそしてはっきりと頷いた。
「さあ行ってらっしゃい。そして世界に見せましょう。本物の光というものを」
彼女は戦いの準備を終えた。
父に、そして世界に、自分たちの魂の価値を証明するための、その全ての準備を。
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