5-2話

 イリゼ・ファーベルは、父の挑戦状を胸に、王都の古い職人街へと足を踏み入れていた。

 華やかな貴族街や、活気に満ちた商業地区とはまるで違う空気が、そこには流れている。

 石畳は磨り減り、建物は古く煤けている。だが、その一つ一つには、長年、その場所で真摯な仕事が続けられてきた証である、静かな誇りが宿っていた。


 道行く人々の服装は質素だが、仕立てが良く、長年大切に着られていることがわかる。

 ここには、メルシエ商会が支配する、大量生産、大量消費の世界とは、全く別の時間が流れていた。


​ やがて彼は、目的の場所である『ルーク工房』の前にたどり着く。

 それは、今にも崩れそうなほど古びた、二階建ての木造の建物だった。

 『光彩織』と記された看板の文字は、雨風にさらされ、ほとんど消えかかっている。

 だが、その入り口の扉だけは、毎日、丁寧に磨き上げられているのか、温かい木の色を保っていた。

 それがこの工房に残された、最後のプライドのように、イリゼには思えた。


​ 彼が、その扉をノックし、中へと入った瞬間。

 彼は、二つの全く相反する印象に、同時に、心を奪われた。


​ 一つは、寂寥感せきりょうかん


 工房の中は、薄暗く、ひんやりとしていた。空気は、埃と、古い木と、そして染料の独特な匂いが混じり合い、どこか忘れ去られた場所の香りがした。

 壁際には、使い古された道具たちが、静かに並べられている。

 それは、明らかに衰退し、終わりを待つだけの空間だった。


​ もう一つは、圧倒的なまでの、美しさだった。


 その薄暗い工房の、あちこちに。

 作りかけの織物の反物が、まるで宝物のように置かれていたのだ。


 『光彩織ルミナス・ブロケード』。


 その布は、内側に光源を持っているかのように、自ら、淡い、柔らかな光を放っていた。


 あるものは、月光のように青白く。

 あるものは、夕焼けのように赤く。

 あるものは、森の木漏れ日のように緑に。


 その、魔法のような光景は、この寂れた工房が、かつては奇跡を生み出す場所であったことを、雄弁に物語っていた。


​ イリゼが、その神秘的な光に、しばし見とれていると、工房の奥、巨大な織機の影から、一人の少女が姿を現した。


​ 彼女が、ペネロペ・ルークだった。


 イリゼは、一瞬、言葉を失った。

 あれほど、美しい織物を生み出す人間が、これほどまでに、自分自身の美しさに、無頓着でいられるものだろうか。

​ 彼女が着ていたのは、色褪せた寸胴の作業着スモック

 あちこちに、染料のシミがついている。

 長く、豊かな栗色の髪は、無造作に、一本に結ばれているだけ。

 その顔には、煤の汚れが、かすかに残っていた。

 だが、その、全ての無頓着さをもってしても、隠しきれないものが、彼女にはあった。


 それは、彼女の瞳の輝きだった。


 その瞳はまるで、追い詰められた森の獣のように、鋭く、誇り高く、そして、決して他者の侵入を許さないという、強い意志の光に満ちていた。


​ 「……何か、ご用でしょうか」


 その声は、低く、そして硬かった。


 「もし、何かを売りに来たのでしたら、お引き取りを。うちは何も買いません」


​ 「いいえ、違います」


 イリゼは、静かに、そして、丁寧に応じた。


 「私は、イリゼ・ファーベルと申します。ルーク工房のご当主様と父との間で話がついております。来たるべき、王都エキスポに向けて、貴女様のお手伝いをさせていただくために、参りました」


​ ファーベル。

 そして父。

 その二つの言葉を聞いた瞬間、ペネロペの瞳の光が、険しさを増した。

 彼女の全身から、あからさまな敵意が放たれる。


​ 「ファーベル……。あの、メルシエ商会の……」


 その声は、侮蔑に満ちていた。


 「父が、何を血迷ったのかは知りません。ですがお引き取りください。私たちの仕事は、貴方たちのような、魂のない、安物ばかりを売りさばく商売人たちに、見せるものではありません。ましてや、その汚れた手で触れられるなど、我慢がなりません」


​ 彼女は、イリゼをスタイリストとしてではなく、自分たちの世界を破壊しに来た、侵略者として見ていた。


 その、あまりにもまっすぐな、そして、痛々しいほどの職人のプライド。


 イリゼはその言葉に、少しも気分を害さなかった。

 むしろその気高さに、深い敬意さえ感じていた。

​ 彼は、彼女の言葉には答えなかった。

 その代わり、彼はゆっくりと工房の中に置かれていた、一枚の『光彩織』へと歩み寄った。


 それはまるで、夜明けの空をそのまま布に写し取ったかのような、美しいグラデーションを描いていた。

 彼は、その布に触れない。

 ただ、その内側から発光する、神秘的な輝きを、うっとりと、見つめた。


​ 「……素晴らしい」


 その声は、心の底からの、偽りのない感嘆だった。


 「この光の揺らぎ……。これは、ただの光の反射ではない。糸そのものが、まるで呼吸をしているかのように、光を、自ら生み出している……。これはもはや、失われた技術ロスト・テクノロジー。いいえ……これは、魔法、そのものだ」


​ 彼はゆっくりと、ペネロペの方へと、振り返った。

 その紫水晶の瞳には、商売人の打算の色はない。

 ただ一つの、本物の芸術を前にした人間の、純粋な感動と、尊敬の色だけが浮かんでいた。


​ 「これほど美しいものを生み出すことができるなんて。……貴女は、本当に素晴らしい芸術家なのですね。ペネロペ・ルーク様」


​ その言葉に。

 その自分の仕事を、心の底から理解してくれた、その真摯な眼差しに。

 ペネロペの、鉄壁の敵意の鎧が、ほんの少しだけ揺らいだのを、イリゼは見逃さなかった。


 イリゼが放った、心からの賞賛の言葉。

 それは、ペネロペの張り詰めていた敵意の鎧に、ほんの小さな、しかし、確かな亀裂を入れた。

 彼女は、驚きと、困惑が入り混じった表情で、目の前の場違いなほど優雅な青年を見つめている。

 この男は、父が寄越した、ただの商売人ではないのかもしれない。


​ イリゼは、そのわずかな心の隙間を見逃さなかった。

 彼は、攻勢に出るのではなく、むしろ、一歩引いて、再び彼女に敬意に満ちた視線を向けた。


 「素晴らしい貴女の仕事に、私はすっかり魅了されてしまいました。差し支えなければ、もっとお話を聞かせてはいただけませんか。この『光彩織』の物語を」


​ 彼は、豪華な椅子も、気の利いたテーブルもない、この工房のありのままの姿を受け入れた。

 そして、埃をかぶった作業台の上の、乱雑に置かれた道具を、そっと片付けると、そこに、腰を下ろすよう、彼女に目で促した。


 ペネロペは、しばらくためらった後、無言で彼の向かいにある、古い木のスツールに腰を下ろした。

 それは、彼女の生まれて初めてのカウンセリングの始まりだった。


​ 「まず、お伺いしたい」


 イリゼは、静かに切り出した。


 「この類まれなる織物は、一体、どのような方を想定して作られているのですか。つまり、貴女の理想のお客様とはどのような方です?」


​ その、あまりにも商業的な質問。

 それは、ペネロペの心に、再び小さな棘を突き立てた。

 彼女の表情が、一瞬にして硬くなる。

 そして、その口から放たれたのは、彼女の、職人としての、誇りに満ちた、魂の叫びだった。


​ 「お客様など、考えたこともありません」


 その声は震えていた。怒りではない。揺るぎない、信念の震えだった。


 「わたしはただ、この工房に満ちる、糸の声を聞き、長年、父と祖父が対話を続けてきた、この織機と心を通わせる。そして、この場所で生まれるべくして、生まれる物語をこの手で形にしているだけです」


​ 語り始めると、彼女の内気な殻はどこかへ消え去っていた。

 その瞳は、燃えるような、情熱の光に満ちている。


 「この『光彩織』の一筋一筋には、ルーク工房の二百年の歴史が、父が、祖父が、その前の代の者たちが、流した汗と、涙と、そして喜びの全てが宿っているのです。これは、ただの布ではない。私たちの魂そのものなのです」


​ イリゼは、そのあまりにも純粋で、あまりにも気高い、芸術家の告白を、ただ黙って聞いていた。

 そして、彼女が荒い息をつきながら言葉を終えると、深く、深く頷いた。


​ 「素晴らしい。その『魂』こそが、貴女の工房の最大の価値です。疑いようもありません」


 その全面的な肯定の言葉にペネロペは、少しだけ意表を突かれたような顔をした。

 だが、イリゼはその穏やかな表情のまま、静かに、しかし鋭く続けた。


​ 「ですが、ペネロペ様。そのあまりにも尊い魂は、今この工房の外にいる、誰かに届いていますか?」


 「……え?」


 「それはまるで、声を失った歌姫と同じです」


 彼の言葉が、ペネロペの胸に、突き刺さる。


 「どれほど美しい魂を、その内に秘めていても、それを世界に伝えるための『声』がなければ、その魂は、誰にも知られることなく、この工房の中で、静かに、消えていくだけなのですよ」


​ 声。

 その言葉が、ペネロペの、最後の心の壁を刺激した。

 彼女の顔に、侮蔑の色が浮かぶ。


​ 「声、ですって?貴方たち、商売人が言う『声』とは、どうせ安っぽい宣伝文句や、中身のない流行のことでしょう!」


 彼女は、立ち上がった。その瞳は、怒りに燃えている。


 「私たちの魂を、そんな陳腐なものに落とし込めと、そうおっしゃるのですか。父は貴方に、私たちの魂を『売れ』と、そう命じたのですか!」


​ その、痛切な叫びに、イリゼは、静かに、立ち上がった。

 その表情から、穏やかな笑みは、消えていた。

 代わりにそこにあったのは、プロフェッショナルとしての、揺るぎない矜持だった。


​ 「言葉をお慎みください。ペネロペ様」


 その声は、静かだが、鋼のように強かった。


 「私は、貴女の魂を売れなどとは、一言も言っていない。むしろ、その全くの逆です」


​ 「私が創り出すのは、魂のための『器』であり、魂を輝かせるための『舞台』です。貴女の工房が持つ、その素晴らしい物語を、それを、まだ理解できない人々へ、正しく伝えるための翻訳機トランスレーターなのです」


​ 彼は工房の中を、ゆっくりと、見渡した。

 埃の中で、それでも健気に光を放ち続ける、美しい織物たちを。

 そして彼は、最後の、そして最も残酷な真実を、彼女に告げた。


​ 「よくお聞きください。誰にも、届かない魂は、存在しないのと同じなのです」


​ 「この美しい光が、このまま、この工房の埃の中で、誰にも愛されることなく、静かに消えていってしまっても。……貴女は本当に、それでいいのですか?」


​ その言葉は、まるで鋭い剣のように、ペネロペの心の最も柔らかい場所を貫いた。


 彼女は、何も言い返せなかった。

 ただ、自分の工房に眠る、愛しい光の布たちを、そして、その上で静かに踊る、埃の粒子を、呆然と見つめていることしかできなかった。

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