3-4話
あれから数日、アマラントはイリゼの言いつけを忠実に守っていた。
歌の練習は、一切しない。
その代わり、彼女はただ、思い出すことだけに時間を費やした。
下町の広場。旅の吟遊詩人。生まれて初めて心を揺さぶられた、あの素朴な旋律。
父の愛した酒場。労働者たちの喝采。歌が、人と人の心を繋ぐ喜び。
思い出せば思い出すほど、自分がどれほど大切なものを置き忘れてきてしまったのかを、彼女は痛感していた。
約束の日、彼女は再び『アトリエ・サンドリヨン』を訪れた。
その心は、まるで初舞台に臨む新人歌手のように、不安と、そして、ほんの少しの期待で震えていた。
「こんにちは、イリゼ様」
「ええ、お待ちしておりました。アマラント様」
イリゼは、彼女をピアノの前には導かなかった。
彼は、アトリエの中央にある、陽光が差し込む一番明るい場所へと彼女を促す。
「本日は、歌を歌うのではありません」
イリゼは、静かに言った。
「今日は、音で絵を描く練習をします。私が、貴女に色を、景色を、そして感情を提示します。貴女は、それをただ、音に翻訳してくださればいい。
音で、絵を描く。
アマラントは、そのあまりにも突飛なレッスンの内容に、戸惑いを隠せない。
だが、彼女はもう、彼の言葉を疑わなかった。
「では、始めましょう。まずは、目を閉じて」
イリゼの声は、穏やかな催眠術のように、彼女を現実から切り離していく。
「歌うことは、忘れてください。観客も、舞台も、全て忘れるのです。……いいですか。貴女は、今、アマラント・フィオリーニではない。貴女は、月の光です」
「……月の、光?」
「そうです。真夏の夜、静まり返った森に降り注ぐ、銀色の月の光です。貴女は、優しく、冷たく、そしてどこまでも澄み切っている。さあ、その感覚に、声を与えてごらんなさい」
アマラントは、言われた通り、必死にイメージを膨らませた。
月の光。静かな森。
そして、そっと唇を開き、声を発した。
だが、その喉から出たのは、いつもの癖で、力強く、ホールに響き渡らせるための声だった。それは、月の光ではなく、真昼の太陽のような、場違いな響きを持っていた。
「……っ、違うわ」
彼女は、自らその音を打ち消した。
「ええ、違いますね」
イリゼは、優しく指摘した。
「貴女は、まだ『歌おう』としている。声を、外へ、遠くへ届けようとしている。そうではありません。ただ、月の光に『なる』のです。声を、出すのではなく、貴女の内側から、自然にこぼれ落ちるのに任せるのです」
もう一度。
アマラントは、深く、静かに呼吸をした。
イメージする。ひんやりとした夜の空気。木々の葉を滑る、銀色の光。
彼女は、全ての力を抜き、ただ、その光景に身を委ねた。
すると、彼女の唇から、一つの音が、吐息と共にこぼれ落ちた。
それは、か細く、儚げな、高いファルセットだった。
だが、その音色には、今まで彼女が決して出すことのなかった、一点の曇りもない、水晶のような透明感が宿っていた。
それは、弱々しいのではない。
どこまでも、清らかだった。
アマラントは、自らが発したその声に、衝撃を受けていた。
こんな声が、自分の中から生まれるなんて。
彼女の声は、常に情熱を伝えるための、力強い武器だったはずだ。
だが、この音色は違う。
それは、武器ではない。ただ、そこにあるだけで美しい、自然の響きだった。
「素晴らしい。それが、貴女の持つ『青』の色です」
イリゼは、静かに賞賛した。
「では、次の絵を描きましょう。今度は、深い森の中に湧き出る、小さな泉です。その水は、苔むした岩の間を縫うように、囁きながら流れていく。それは、静かで、秘めやかな、生命の音です」
泉の囁き。
アマラントは、そのイメージを音にしようと試みた。
だが、今度は、声が上手く続かない。何度も、ひっくり返ってしまう。
「……できません。どうすれば……」
「音の
息の上に乗せる。
彼女は、イリゼの言葉を頼りに、再び集中した。
そして、生まれたのは、囁き声に似た、柔らかな響きだった。
それは、彼女が今まで忌み嫌ってきた、弱い声。
だが、その声には、今まで彼女が決して表現できなかった、生命の息吹と、優しい潤いが満ちていた。
「最後にもう一つ」
イリゼは、最後の課題を告げた。
「凍てついた湖。厳しい冬が終わり、春の陽光が、その厚い氷に触れる。そして、最初に生まれる、一筋の亀裂。そこからこぼれ落ちる、たった一滴の、水の音。その、始まりの音をください」
それは、最も難しい課題だった。
だが、そのイメージは、アマラントの心に、深く響いた。
凍てついた湖。
それは、まるで今の自分の心のようだったからだ。
彼女は、カウンセリングで感じた、心の氷が溶け始めた、あの瞬間の感覚を思い出した。
そして、全ての意識を集中させ、一つの音を、空間へと放った。
それは、教会の鐘の音のように、澄み切った一つの音だった。
ほとんど無音に近いところから始まり、痛切なほどの美しさをもって膨らみ、そして、名残惜しげに消えていく。
その音の余韻が、アトリエの静寂の中に、長く、長く響き渡っていた。
アマラントは、息を切らしていた。
それは、体力の消耗からではない。自らが成し遂げた、声の発見という奇跡に、魂が震えていたからだ。
彼女は、信じられないというように、イリゼを見つめた。
「今のは……今のは、一体、何なのですか。あれは、わたくしの声では、ありません」
イリゼは、心からの笑みを浮かべた。
「いいえ。あれは、『紅蓮の歌姫』の声ではなかった、というだけです。あれこそが、アマラント・フィオリーニの、本当の声ですよ」
彼は言った。
「今日、貴女は青と、緑と、そして水晶の透明な色を見つけました。思い出してください。赤は、貴女が持つ、無数の色彩の中の、たった一色に過ぎないのです」
イリゼは、その日のレッスンを終わりにすると、アマラントに告げた。
「次にお会いする時までに、これらの新しい色を、どうやって混ぜ合わせるかを考えましょう。それまでは、ただ、聴くのです。風の音を、雨の音を、そして街の喧騒を。世界は、貴女がまだ歌ったことのない、素晴らしい歌で満ち溢れていますよ」
アトリエを後にしたアマラントの心は、晴れやかだった。
彼女は、頂点を極めたスターではない。
全てを失い、そして、無限の可能性を前にした、ただの、一人の生徒に戻っていた。
その事実は、恐ろしくもあったが、それ以上に、どうしようもなく、心を奮い立たせるものだった。
宣告から三日目、四日目と、アマラントは毎日アトリエに通い詰めた。
イリゼとのレッスンは、彼女が今まで経験したどんな厳しい訓練とも違っていた。歌を歌うのではない。ただひたすらに、世界の音に耳を澄まし、自分の内なる色彩を探求する日々。
朝、窓辺で聞こえる小鳥のさえずりは、生命の喜びに満ちた即興の
市場の喧騒は、王都という巨大なオーケストラが奏でる、力強い
自分が今まで、いかに自分の声だけに囚われ、耳を閉ざしていたかを、彼女は思い知った。
そして、宣告から五日目の午後。レッスンを終えた彼女に、イリゼはデザイン画が広げられたテーブルへと、彼女をいざなった。
「アマラント様。貴女は、ご自身の声に眠っていた、新しい色彩を見つけました。本日は、その新しい声を纏うための、最高の器を設計しましょう」
テーブルの上には、様々な生地の
アマラントは、てっきり、彼女の新しい声に合わせた歌のレッスンが始まるのだと思っていた。だが、イリゼの考えていたことは、さらにその先にあった。
「貴女は、もはや『紅蓮の歌姫』、つまり、灼熱の太陽ではありません」
イリゼは、一枚のデザイン画を指し示した。
「貴女の中には、静かな月の光も、森の泉の囁きも、そして、氷を溶かす水の透明な輝きも存在します。貴女の新しいイメージは、それら全ての要素を内包する、深く、神秘的で、そして、多面的な器でなければならないのです」
彼が差し出したデザイン画に描かれていたのは、アマラントが今まで一度も着たことのないような、優雅で、流れるようなシルエットのドレスだった。
彼女を縛り付けていた硬いコルセットはなく、身体のラインを自然に、そして美しく見せるように計算されている。それは、彼女の呼吸と共に、美しく動くであろうことが、絵からでも見て取れた。
「そして、これが、そのドレスの心臓となる生地です」
イリゼは、一枚の大きな布を、テーブルの上に広げた。
その瞬間、アマラントは、息を呑んだ。
それは、深い、深い、ミッドナイトブルーのシルクベルベットだった。
シャンデリアの光をぎらぎらと反射するのではなく、まるで夜の湖面が光を吸い込むように、どこまでも静かで、深遠な輝きを放っている。
その手触りは、驚くほど滑らかで、そして、ひんやりとしていた。
彼は次に、小さな宝石箱を開けてみせた。
中に入っていたのは、ギラギラと輝くダイヤモンドではない。
月の光をそのまま固めたような、柔らかな乳白色の輝きを持つ、小粒の
「これらを、星屑のように胸元に散らします」
そのデザインは、美しい、とアマラントは素直に思った。
だが、同時に、強い不安が彼女の心をよぎった。
かつて彼女が纏った『紅蓮』の衣装とは、あまりにも対極にあったからだ。
燃えるような赤。視線を奪う黄金の刺繍。権威を示す、硬く、構築的なシルエット。
それに比べて、このドレスは、あまりにも静かすぎた。
「……美しい、ですわ」
彼女は、正直な感想を口にした。
「ですが……あまりにも、静かすぎる。こんなドレスで、本当に、わたくしは舞台に立つことができるのでしょうか。観客がわたくしに期待しているのは、情熱と、炎のはずですわ」
『紅蓮の歌姫』の亡霊が、まだ彼女の心の中で、囁いていた。
イリゼは、彼女の不安を見透かしたように、静かに微笑んだ。
「ええ、その通りです。このドレス自体は、静かです。いいえ、はっきり申し上げましょう。このドレスは、『沈黙』しています」
彼は、そのミッドナイトブルーのベルベットを、そっとアマラントの腕にかけた。
ひんやりとした生地の重みが、彼女の肌に伝わる。
「感じてください。このドレスは、まだ、完成していないのです。これは、空っぽの舞台であり、静まり返った
イリゼは、アマラントの瞳を、まっすぐに見つめた。
その瞳は、絶対的な確信に満ちていた。
「このドレスは、初日の夜、貴女が舞台に立ち、そして歌い始めたその瞬間に、初めて完成するのです。最後の、そして、最高の装飾が加えられることによって」
「……最後の、装飾?」
「そうです」
イリゼの声は、静かだが、ホール全体に響き渡るテノールのように、力強かった。
「その装飾とは、貴女の声。貴女が見つけ出した、新しい、多彩な声です。貴女の澄んだファルセットが、このドレスに銀糸の刺繍を施し、貴女の囁くようなピアニッシモが、この胸元に星屑を散りばめる。そして、貴女の歌に宿る魂が、このドレスに、命を吹き込むのです」
彼は、言った。
「アマラント様。貴女の歌声がなければ、これは、ただの美しい布切れに過ぎません。ですが、貴女の歌声と共にある時、このドレスは、伝説になるでしょう」
アマラントは、腕にかけられた、深い青色の生地を見つめた。
そして、イリゼの顔を見た。
やっと、理解した。
これは、自分を隠すための衣装ではない。
これは、自分の歌と共に、物語を紡いでいく、最高のパートナーなのだ。
このドレスは、彼女に「叫べ」とは言わない。
ただ、静かに、そして深く、「歌え」と、語りかけている。
彼女は、そっと、その生地に頬を寄せた。
それは、夜の湖のように、どこまでも優しく、そして、彼女の全てを受け入れてくれるようだった。
彼女の心の中から、『紅蓮の歌姫』の亡霊が、静かに消えていくのが分かった。
そして、その代わりに、新しい歌が生まれようとしていた。
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