2章エピローグ

王宮の夜会から、数日が過ぎた。

 『アトリエ・サンドリヨン』には、窓から差し込む午後の光が、穏やかな縞模様を床に描いている。イリゼは、新しいデザインのラフスケッチを眺めていたが、ふと顔を上げ、静かな空間に耳を澄ませた。


 予感がしたのだ。

 まるで、精密な実験の結果報告を待つ研究者のように。

​ やがて、店の扉が控えめにノックされる。


 「どうぞ」


 イリゼが声をかけると、扉はゆっくりと開かれ、リラ・ド・カリスフォートが姿を現した。


​ その瞬間、イリゼは思わず目を見張った。

 彼女が纏っていたのは、夜会で着た星図のドレスではない。彼女の肌の透明感を引き立てる、上品なスレートブルーの日用のドレス《デイドレス》。過剰な装飾は何もないが、その上質な生地と、彼女の骨格に完璧に調和したシルエットは、彼女がもはや自分の美しさの法則を、完全に理解していることを示していた。


 銀縁の眼鏡は、知的な瞳を飾り、その口元には、以前の彼が計算式で教えたものとは違う、自然で穏やかな微笑みが浮かんでいる。

 もはや、彼女の周りに氷の壁は存在しなかった。


​ 「こんにちは、イリゼ様。実験結果の報告に参りました」


 リラは、少し楽しそうな響きを声に乗せて言った。

 彼女は、以前のように警戒することなく、慣れた様子でテーブルの椅子に腰を下ろす。イリゼが差し出したハーブティーにも、自然に口をつけた。


​ 「結論から申し上げます。貴方の立てた『対人引力の法則』に関する仮説は、完全に証明されました」


 彼女は、まるで学会で論文を発表するかのように、しかし、その表情は喜びに輝いていた。


 「夜会では、私の専門分野に関心を持つ、多数の有力な方々との有意義な対話が可能となりました。提示した成功の基準値KPIは、予測を大幅に上回る結果です」


​ 彼女は、その夜の出来事を淡々と、しかし、その言葉の端々からは隠しきれない高揚感を滲ませながら語った。

 そして、最も重要な報告を、彼女は少しだけ間を置いて切り出した。


 「フェルディナンド公爵からは、今朝、手紙が届きました」


 「ほう」


 「……婚姻の話ではありません」


 リラはそう言うと、心から嬉しそうに微笑んだ。


 「わたくしの論文の続きを、ぜひ読みたい、と。そして、彼の書斎で、古代天文学の未来について、ぜひ議論を交わしたい、と。……招待されたのです」


​ それは、リラにとって、どんな婚姻の申し込みよりも価値のある誘いだった。

 彼女の知性が、この国で最も優れた知性に認められ、求められた瞬間。

 家のための義務は、彼女が誰も予想しなかった、最高の形で果たされたのだ。

​ 一通りの報告を終え、リラはテーブルの上に、ずしりと重い革袋を置いた。


 「これは、契約の対価です。お納めください」


 イリゼが頷くと、彼女は続けた。その瞳は、真摯な光で満ちていた。


 「ですが、私がこのアトリエで得た本当の成果は、これではありません。貴方は、わたくしの世界そのものを、拡張してくださいました」


​ 彼女は、自分の胸にそっと手を当てた。


 「知性は、孤立の原因ではなく、人と繋がるための架け橋になり得るのだと、証明してくださった。この発見の価値は、どんな金銭でも測ることはできません」


 彼女は立ち上がり、イリゼに深く、美しいお辞儀をした。


 「そして、もう一つ。わたくしは、新しい学問に目覚めました」


 「と、言いますと?」


 「ファッションです」


 リラは、悪戯っぽく笑った。それは、イリゼが初めて見る、彼女のチャーミングな表情だった。


 「ファッションとは、自己の最も優れた特性を、他者に誤解なく伝達するための、最も効率的な非言語コミュニケーションなのですね。実に……実に、興味深い学問ですわ」


​ 彼女は、もうファッションを軽蔑していない。

 自分の研究対象と同じ、知的な探求の対象として、その奥深さに魅了されていた。


​ 「また、新たな仮説が生まれましたら、ご相談に伺いますわ。教授プロフェッサー


 彼女はそんな言葉を残し、風のように軽やかな足取りでアトリエを去っていった。

 その背中は、もはや書斎に閉じこもる孤独な学者ではない。

 世界という広大な研究室に、胸を張って歩み出していく、一人の輝ける恒星だった。


​ 一人残されたイリゼは、革袋の重みを確かめると、静かに窓の外を見つめた。

 グルナの時は、閉ざされた美しさを解放し、内なる強さを引き出した。

 リラの時は、内なる知性を可視化し、世界の見え方を変えた。

 一人一人、命題パズルは違い、そして、その解も違う。


 ──なんと面白い仕事だろうか。


​ 彼は、空になったティーカップを片付けながら、次なる難問の訪れを、静かに、そして楽しみに待つのだった。

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