2-3話
「……面白い仮説です。ぜひ、その証明をこの目で見せていただきたいものですわ。イリゼ様」
リラの挑戦的な言葉に、イリゼは満面の笑みで応えた。その笑みは、もはやコンサルタントのものではなく、未知の探求に乗り出す冒険者のそれだった。
「お任せください。最高の
彼はそう言うと、アトリエの隅に立てかけてあった移動式の大きな黒板を二人の座るテーブルの横まで運んできた。そして、色とりどりのチョークが収められた木箱をテーブルの上に置く。その意外な道具立てに、リラは興味深そうに目を細めた。これから始まるのが、ただのお喋りではないことを予感させるに十分だった。
「よろしいですか、リラ様」
イリゼは白いチョークを一本手に取り、くるりと彼女の方を向いた。アトリエの柔らかな光が彼の銀髪を照らし、まるで舞台の幕が上がったかのようだ。
「貴女は先程、私の
彼は黒板の中央に、大きくその文字を記した。
リラは腕を組み、その講義の始まりを静かに見守る。
「貴女の専門分野である天文学において、万物は引力によって互いに影響を与え合っている。それは人も同じです。人は、他者に対して常に引力を放ち、また他者の引力に影響されている。その力の正体こそが、人が『魅力』と呼ぶものの正体なのです」
イリゼは黒板に、単純な人の形をした図形を描いた。
「そして、その引力の強さや性質を決定づけるのが、外見、つまりファッションです。私がこれからお話しするのは、その引力を意図的に操作し、最大化するための三つの基本法則です」
彼は第一法則、と指を立てた。
「第一法則は『色彩』。色は、それ自体がエネルギーを持つ光の波長です。人の感情や認識に、無意識レベルで直接作用する。例えば、惑星が太陽の光を反射して特定の色に見えるように、貴女という一つの恒星が、どのような光を放つべきかを見極める必要があります」
彼は色とりどりのチョークを使い、黒板に虹のようなスペクトルを描き出す。
「貴女に似合う色とは、貴女という存在が持つ固有の波長と共鳴し、その輝きを増幅させる色。逆に似合わない色とは、互いの波長が干渉し合い、輝きを打ち消してしまう色なのです。これを特定するのが、パーソナルカラー診断という技術です」
リラの目が、眼鏡の奥で知的な光を放った。
今まで感覚的なものだと思っていた「似合う色」という概念が、物理法則になぞらえて語られる。その視点は、彼女にとって新鮮であり、そして何よりも合理的だった。
「第二法則は『形状』です」
イリゼは続けた。人の図形の周りに、様々な曲線を書き加えていく。
「ドレスのシルエット、つまり形は、人の視線を誘導するための軌道です。夜空を流れる彗星が美しい光の尾を引くように、最適なシルエットは、見る者の視線を貴女の最も美しい部分、例えばその気高い鎖骨や、知的な眼差しへと自然に導き、そして記憶に強く刻み込むのです」
彼はベクトルを示す矢印を書き加え、視線がいかに動くかを幾何学的に示してみせた。
「人の目が、まずどこに注目し、次にどこへ動き、最終的にどのような印象を形成するのか。そのプロセスは、天体の運行と同じく、ある種の法則に支配されているのです。これを特定するのが、骨格診断という技術になります」
「第三法則は『素材』」
イリゼの声が熱を帯びる。
「素材の質感、つまりテクスチャーは、星の光の強さや瞬きと同じ。例えば、光沢のあるシルクは、夜空で最も輝く一等星のように、華やかで絶対的な存在感を放つ。柔らかなカシミヤは、淡く広がる星雲のように、優しく儚げな印象を与える。それぞれが、異なる
黒板は、いつの間にか数式のような図形と、美しい天体のイラストで埋め尽くされていた。
イリゼの姿は、もはや単なるスタイリストではない。
未知の宇宙の法則を解き明かし、それを情熱的に語る若き物理学者のようだった。
リラは、完全に彼の講義に引き込まれていた。
今まで自分が非合理的で、感情的で、無価値だと切り捨ててきたファッションの世界。
それが、自分の愛する学問の世界と地続きの、なんと緻密で、なんと美しい
その事実は、彼女にとって驚きであり、そして歓喜ですらあった。
彼女が膝の上に置いていた学術書が、いつの間にか床に滑り落ちていることにも気づかないほどに。
プレゼンテーションが終わると、アトリエには感動にも似た静寂が流れた。
リラは、まるで優秀な弟子が偉大な師に問うように、目を輝かせながら口を開いた。
「……素晴らしい。素晴らしい仮説です。では、イリゼ様。その『対人引力』を最大化するための最適解は、どのようにして導き出すのですか。変数となる要素は、色彩、形状、素材の三つだけなのでしょうか」
「良い質問です」
イリゼはチョークを置き、満足げに微笑んだ。
「もちろん、変数にはTPO、つまり時間、場所、目的という外的要因も加わります。そして最も重要な変数が、貴女自身の内面、つまり『何を伝えたいか』というコンセプトです。これらの変数全てを考慮し、最適解を導き出すプロセスこそが、私の仕事なのです」
彼はリラに向き直った。
「理論はここまで。ここからは実践、つまり『実験』です。最初の実験として、まずは貴女の固有の波長、パーソナルカラーを特定しましょう」
その言葉に、リラの顔がぱっと輝いた。
氷の仮面は完全に溶け落ち、そこにいたのは知的好奇心に満ち溢れた一人の学者だった。
彼女は前のめりになり、イリゼに迫った。その瞳は、新しい星を発見した天文学者のように爛々と輝いている。
「早く。早くその実験を始めてください。私の仮説が正しければ、そこから導き出される結果は、きっと……きっと、美しいに違いありません」
リラの興奮した声が、静かなアトリエに響いた。氷の仮面は完全に溶け落ち、そこにいたのは知的好奇心に満ち溢れた一人の学者そのもの。そのあまりの変貌ぶりに、イリゼは満足げな笑みを深くした。
「ええ、お任せください。では、実験室へどうぞ」
彼はそう言って、リラを部屋の奥にある大きな姿見の前へと導いた。先程までの黒板とチョークの世界から一転、今度は美しくなるための舞台へと場所が移る。
「まず、実験の精度を上げるために、一つだけお願いがあります。その眼鏡をお外しいただけますか」
その言葉に、リラの動きがぴたりと止まった。
「……正気ですか。視界が不明瞭になるのは、正確な観測を行う上で致命的な欠陥ですが」
「ご心配なく。観測するのは私です。貴女には、貴女自身の肌や瞳が、色によってどう変化するかを、先入観というノイズを排除して感じていただきたいのです」
イリゼの合理的な説明に、リラは渋々ながら頷いた。彼女がゆっくりと眼鏡を外すと、今までレンズの奥に隠されていた、長い睫毛に縁取られた美しい瞳の全貌が明らかになる。その瞳は、雨上がりの空を思わせる、静かで知的なグレイッシュブルーだった。
「では、始めましょう」
イリゼは巨大なクローゼットから、グルナの時にも使った膨大な数の
「これから行うのは、貴女という恒星が持つ固有の光、すなわち『
彼は科学者のように、リラの肌、髪、瞳を順に指し示した。
「貴女の肌は、黄みよりも青みがかった透明感のある肌質。髪の色は、光に透けると灰色がかって見える、柔らかなアッシュブラウン。そして瞳は、今しがた確認した通り、涼しげなグレイッシュブルー。これらのデータから、貴女のパーソナルカラーは『夏』のグループに属するというのが、私の仮説です」
「夏、ですか」
「ええ。夏の陽光を浴びて、少しだけ霞がかったような、柔らかく涼しげな色彩のグループです。今から、この仮説が正しいかどうかを証明します」
証明、という言葉にリラの背筋が伸びた。
イリゼはまず、鮮やかなオレンジや黄緑といった、春の日差しを思わせる黄みの強い色のドレープを手に取った。
「最初に、貴女の固有色とは対極にある色から見ていきましょう」
鮮やかなオレンジの布が、リラの胸元にあてがわれる。
「ご覧ください。この色は、貴女の肌が持つ青みと反発し合い、結果として肌は色を失い、不健康なほど青白く見えてしまう。貴女の持つ繊細な色素が、色の強さに完全に負けている状態です」
リラは鏡を食い入るように見つめた。近眼のため、細部までは見えない。だが、全体の印象が明らかに違うことは彼女にもわかった。顔色が悪く、自分自身が持つ存在感が希薄になっている。
「なるほど。確かに、顔の輪郭が曖昧になり、色だけが不自然に主張しているように観測できます」
次にイリゼは、グルナをあれほど美しく見せた、鮮烈な純色の黒をあてた。
「では、同じ青みのグループでも、こちらはどうでしょう。これは『冬』の色です」
純粋な黒は、しかし、リラに対しては全く違う効果をもたらした。
「……ふむ。確かに、威圧感が増し、繊細さに欠けるように見受けられますね。肌の柔らかさが失われ、冷たく硬い印象が強調されるようです」
「その通りです。この色は、貴女にとっては強すぎる。貴女の持つ上品さを消し去り、ただ厳しいだけの女性に見せてしまうのです」
イリゼは頷くと、ついに本命のドレープを手に取った。
それは、夜明け前のラベンダー畑にかかる霧のように、淡く、優しく、そして涼やかな紫色の布だった。
その布が、彼女の胸元にふわりとかけられた瞬間。
アトリエの空気が変わった。
「……あっ」
リラは、思わず小さな声を上げた。
鏡の中にいるのは、紛れもなく自分だった。だが、今まで見たこともないほど、美しかった。
ラベンダー色は、彼女の肌に溶け込むように調和し、その白磁のような透明感を最大限に引き出していた。頬には自然な血色が生まれ、グレイッシュブルーの瞳は、まるで雨に濡れた紫陽花のように、ミステリアスな深みを増している。
硬質だった輪郭は優しく和らぎ、彼女が本来持っていた知的な気品が、柔らかな女性らしさというヴェールを纏って香り立つようだった。
「これが、貴女の色です」
イリゼの声が、静かに響く。
「この霞がかったようなラベンダー色は、貴女の肌の透明感を最大限に引き出し、瞳のブルーをより深く、ミステリアスに輝かせる。全ての要素が、完璧に調和しているのです」
彼は次に、朝露に濡れた若葉のようなミントグリーン、雨雲の隙間から見える空のようなグレイッシュブルー、そして、貴婦人の頬を思わせる上品なローズピンクのドレープを次々とあてていく。
そのどれもが、魔法のようにリラの美しさを引き立てていった。
リラは、言葉を失っていた。
──これが、私?これが、私の本当の色?
論理では説明できない。ただ、心が震える。
自分が今まで「地味だ」「曖昧だ」と敬遠し、一度も手に取ることのなかった、くすんだ優しい色たち。
それこそが、自分を最も美しく見せる色だったという事実。
自分のことを「堅物で可愛げがない」と規定していたのは、他の誰でもない、自分自身だったのかもしれない。
「証明されましたね」
イリゼが、実験を終えた科学者のように告げた。
「貴女を輝かせるのは、真夏の太陽のような強い光ではない。夏の夜、雲間から地上を照らす月光のような、柔らかく涼しげな光の色。それが、貴女の『
リラは、胸元にかけられたままのラベンダー色のドレープを、名残惜しそうにそっと指で撫でた。その仕草には、彼女自身も気づいていない、優雅な女性らしさが自然と滲み出ていた。
鏡の中の新しい自分に、彼女は完全に魅入られていた。
イリゼはその光景を見逃さず、静かに、そして満足げに微笑んだ。
彼女の心の、最も硬い氷が溶け始めた瞬間だった。
「色という、最初の変数が確定しましたね」
彼は言った。
「次は、この美しい色を乗せるための、最高の数式。つまり、『形』を導き出しましょう」
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