Sec. 06: To Keep a Stiff Upper Lip - 04

 医務室は階段を二階ぶん降りたところだった。


 ベッドに寝かされたクロフォードは、きつく目を閉じている。水差しから流し込まれた水と解毒剤らしき注射のおかげで、彼はいくらか発話できるようになっていた。


「誰にやられた?」


 ローマンはベッドのそばの椅子に腰をかけ、そう尋ねる。


 唾を飲み込んでから、クロフォードは口を開いた。


「わからない」


 彼の声はかすれていた。水差しに手を伸ばしたので、ローマンが代わりに取る。上体を起こしてそれに口をつけ、小さく咳払いをして、台詞を続ける。


「思い出そうとすると、頭が……痛むんだ。記憶を……改竄されたらしい」


 頭に手をやり、ため息をついて目を細めた。


 記憶の改竄は、非常に困難な魔術の一種だ。記憶領域は式幹と式核に含まれている上に、クロフォードは魔法使いであって、通常の魔術師よりも構成式が複雑である。


 記憶を改竄するには、自我が不安定な状態の彼の深層意識に潜り込む必要がある。深く潜れば潜るほど、逆に意識を破壊される可能性が高まる。


 そうした危険性を孕むため、魔術師ないしは魔法使いの記憶を改竄する魔術は滅多に行使されない。わざわざ自分から見えている罠に飛び込むような魔術師は、三流だからだ。


「あんたの記憶を? ってことは……虚数魔術か?」


 藍鍾尤は訝しげに眉を上げ、腕を組む。


 魔術師には四つの元素と二つの特性がある。火、水、風、土の四元素と、虚数、量子の二特性である。虚数は主に『触れられないもの』を扱う属性で、影、音、空間といった、物質ではないものに干渉することを得意とする。記憶も、そうだろう。四元素を属性に持つ魔術師には難しい記憶の改竄が、虚数魔術師には容易だったとしても不思議ではない。


「いや……早計だろう。私の記憶は単なるメモリーで、触れても……そう影響はない」


 二つの特性を持つ魔術師は、希少であるとされている。量子属性は特に希少で、世界総人口の0・1パーセントを占めている魔術師人口のうち、さらに両手で数えられるほどしかいないとか。虚数は量子よりは多く確認されているようだが、それでもごくわずかだという。レイが講義で習ったところによれば、千人にも満たないそうだ。


「アドラムに、話は聞いたのか?」


「ああ。同じく記憶を改竄されてて、犯人の顔も覚えてないそうだ」藍鍾尤はレイの手帳を繰りながら言った。「あんたが思い出せないなら、もうお手上げだな」


「鍵は? ドアを蹴破った感じじゃなかった。犯人はどうやって入ってきた?」


「ああ……」


 クロフォードが、質問の主であるレイを見上げる。その様子は普段よりずっとしおらしく、どこかいとけなくも見えた。普段から無駄な言葉は削ぎ落とす男だが、今はその傾向が強くなっているように思える。何かを話すことさえ、負担になるのだろう。


「おそらく……鍵は、壊されていない。認証された波長で、入ってきた」


 話を聞くレイたち三人のあいだに、無言の緊張が走った。


 それは、ありえない。


 体内で生成される魔力は指紋と同じで、一人一人波長が決まっている。完全に一致する波長の魔力は存在せず、それを偽装する方法も、存在しない。魔術師が己を証明するのに最も適したもので、魔術社会では生体認証の一つに数えられている。


 レディ・モルガン号で使われている客室の鍵は、クルーズカードである。しかし魔術師が乗船するこの船では、通常の鍵は意味を持たない。よってクルーズカードには宿泊者の魔力波長が登録されており、そのカード、あるいは船長室のマスターキーによってしか、部屋の扉を開けることはできない。これは窓も同じである。


 つまり——認証された波長とは、クロフォード本人のものを指す。


 だから、ありえないのだ。


「解錠ログかクルーズカードに改竄された形跡は?」ローマンが鋭く問う。


「どちらもありませんでした」


「クロフォード、他に何か覚えてないか?」


「そうだな……顔は思い出せないが、寝ていた私の腹を刺してきたのは覚えている。抵抗したが首に麻酔を打たれて、そのまま」


 彼は首筋に手を当ててそう言った。発見されたとき腹部の傷はほとんど塞がっていたが、シーツを染めていた血の量から察するに、かなり深く刺されたことは間違いないと言える。


 レイは藍鍾尤から受け取った手帳に全てを書きとめた。


「医者が言うには、犯人はあんたの心臓——干渉基盤が狙いだったみたいだ。ソロモン王の加護だっけ? ラッキーだったな」


「……ああ」


 クロフォードは念のためにと包帯が巻かれた自らの胸を撫で、視線を下げる。


 春の事件で知ったことだが、クロフォードは人間ではない。少なくとも、ソロモン王が生きていた紀元前十世紀から生きている。なんでも、人の皮を被り人の真似事をしているとかで——彼が手袋で隠している左手の薬指には、ソロモンの遺品である指環が嵌まっていた。胸にあって、たびたび彼を戒めたり助けたりしているらしい赤い印も、ソロモンに刻まれたもののようだ。加護、祝福、あるいは呪い。


 コンコン、とノックがあった。皆が一斉に振り返る。そこには金髪に赤い眼鏡の女性、すなわちアデライン・ハウエルズが立っていた。


「ミスター・シャーロック」


 彼女は眉を下げ、中に入ってくる。彼を呼ぶ口調と声音だけで、彼女がクロフォードをどう思っているかは明白だった。


「今までごめんなさい。あなたに不便をかけました。どうお詫びしていいか……」


「どうかお気になさらないで、ミズ・ハウエルズ。あの場では、貴女の判断が正しかった」


 しゃがみこみ、クロフォードの手を取る。その表情には謝罪の意思や悔恨が見てとれ、彼女がどれだけ後ろめたく思っているかを示していた。


 クロフォードは彼女の手に手を重ねる。


「厚かましいお願いだけれど……あなたが捜査に復帰してくれたら、とても嬉しいわ」


「ええ、喜んで。私が役に立つのであれば、それが仕事ですから」


「どのくらい安静にしているように言われたの?」


 今日は出港して五日目で、今は昼食の時間である。モナコまでは今日を含めて残り四日。一日か二日で復帰できれば、クロフォードなら犯人を確保するのも不可能ではないだろう——レイはそう考えていた。


「夜には部屋に戻っていいと。明日から、調査を始めます」


「わかりました。あなたの部屋は封鎖されているから、そうね……また一人だと危ないわ。誰か、信頼できる人とツインルームに移ってくれるかしら」


「鍾尤」クロフォードは壁にもたれている同僚を呼んだ。「頼めるか?」


「もちろん。あんた一人守るくらいなら、わけない……はずだ」


「頼もしいな」


 喉の奥で笑い、頭が痛んだのか顔を歪めて息を吐く。ハウエルズは安堵したように微笑し、重ねていた彼の手をぽんぽんと叩いて立ち上がった。


「夜まで、安静にしていてね」


「そうだぞ。医者の言うことはちゃんと聞け」


 医務室を出ていくハウエルズの後を追い、藍鍾尤も部屋を出る。仕事に戻るのだろう。


「鍾尤の言う通りだ。今日は休めよ、明日から忙しくなるんだろ。いいな?」


「わかっている……過保護だ」


「レイも、今日は休んどけ」


「は、はい」


 確かに、ローマンの言う通りだ。明日から忙しくなる。四日——明日から調査を始めるなら三日——で、犯人を推理し、捕まえなければならない。モナコに入港してしまえば、二百六十四人がそれぞれ帰路についてしまう。そうなれば追跡するのも一苦労だ。


 入れ替わりで様子を見に来た医者に頭を下げ、レイは医務室を出た。ローマンは呆れた顔で、まだクロフォードと話していた。

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