第3話:新島の決意1 ~対等の代償~
傘に弾かれる雨音が大きくなる。
冷たい雨が薄汚い街を打つ。
老人の首に手をかける尾長。
その緊迫を前に、矢筈が口を開いた。
「ん~だんまりですか……どうやら状況がお分かりでない様子」
今一度、矢筈は尾長に視線を送る。
視線に含まれる意図を読み取った尾長が老人の首を絞める。
「ぐぅあ……あぁぁ!」
「爺さんッ! おい、やめろ! その手を放せ!」
「お二人はどういう関係でしょう……先ほど家族と、このご老人は口に出していましたが……」
「その人はこんな俺を、唯一気にかけてくれた大事な人だ。この五年間の絶望を生き延びられたのは爺さんのおかげだ。……もういいだろッ! 爺さんを放せ!」
矢筈が手を胸元の高さまであげると、老人の首を絞める尾長の力が緩む。
矢筈はそのまま懐に手を伸ばし、折り畳み式のナイフを取り出すとそれを下投げで新島に渡した。
「他人に放せと乞うのではなく、ご自分の力でこのご老人を救い出してみてはいかがでしょう? そのナイフを使っていいですよ」
視線はそのままに、新島は雨に打たれる折り畳み式ナイフを拾い上げ右手に握り、刃を出す。
持ち方は順手。構えはない。ただ手に持って先端を相手に向けるだけ。
しかし、新島はその場から動かない。
「……? ただ棒立ちしているだけでは何の意味もありませんよ。何かしてくれないと私も退屈ですから。……五秒。そう、五秒だけ猶予をあげますので、それまでにアクションを起こしてください。それでも動かなかったら……とみなまで言う必要はありませんね」
矢筈が腕を伸ばし、掌を見せつける。
「ごぉ」
新島はナイフを握る手首をグネグネと意味もなく回す。
「よぉん」
親指の腹をナイフの背に合わせ力が入りやすいよう持ち方を変える。
「さぁん」
口から吸いだした空気が肺に送り込まれる感覚を全身で感じる。
「にぃ――!」
矢筈は腕を下ろしカウントを止めて、「なるほど」と一言。
彼が瞳に収めていた十五歳の少年は、ナイフを自分の首に強くあてがって自身に満ちた表情で笑みを浮かべていた。
顔には怯えも不安もない。刃は確実に頸動脈を捉えられる位置にあり、虎視眈々と迫っていた。
新島自身が頸動脈を切れば絶命に至るという知識を持っているわけではない。
ただ、昔見た映画の主人公が敵の首を切り裂いて殺していたシーンを思い出しただけ。
「考えましたねぇ。でも、それは悪手ですよ。君には自分で命を絶つほどの覚悟はないですから」
「……試してみるか? 覚悟があるかどうか」
新島は親指に力を入れる。
冷たい刃先が首筋にじんわりと沈み、心臓の鼓動に合わせたかのように刃が深部を目指してゆっくりと、そして確実に進行する。
金属が肉を押し割り、ヌプ、という鈍い感覚が手に伝わった瞬間――
「尾長、その人を解放してあげてください」
「……主」
「尾長、二度も言わせないでください」
「はい、主」
無造作に解放された老人は、喉元をさすり、むせかえった呼吸を整えると新島のもとへ急ぎ足で向かう。
新島は、解放された老人を見てナイフを下ろし、その場で膝をつく。それでも視線は矢筈を捉え続ける。
一方の矢筈は顎髭をいじり、終始何かしらの汚れが流れる濡れたアスファルトを見続ける。
(あの鋭い眼差し……見たことがありますね。戦場で幾度も見てきた目。敵と自分の優劣を気にせずに突っ込んでくる飢えた獣の目と似ています。これは説得に骨が折れそうです。ならば、尾長に無理やり――いえ、それでは意味がありませんね。我々の目的はあくまでスカウトなのですから……となると、やはりここは真実を話すのが得策か……フフッ)
矢筈は二度の小さな頷きをしたあと満足した笑顔を見せると、陰鬱な雨模様を打ち消すほどの大笑いを薄汚い街に響かせた。
「素晴らしいッ! やはり君は私たちが求めていた最後のピースなのかもしれません。あぁ、そうだ。ご老人、新島君――手荒なマネをしてすみませんでした」
喜びを顔面いっぱいで表現したかと思えば、今度は突然二人の前で深々と頭を下げて、謝罪の言葉を並べ始めた。
「……いったいどういう風の吹き回しだ、さっきまで爺さんを使って脅していた奴がいきなり謝罪なんて」
矢筈が姿勢を正すと雨が落ち着き始め、傘に弾かれる音が小さくなる。
「簡単な話です。君にはそんな小細工をしても意味がない。仮に力ずくで連れて行っても君が協力的でない限り同じく意味をなしません。君と私は対等でなくてはなりません」
「対等……だと……ッ」
「えぇ、対等に、ね」
この言葉は、社会に捨てられた新島にとって新鮮で刺激的な言葉だった。
かつて生きてきた街で受けた理不尽なまでの社会追放。
戸籍を失い、人間であるのに人間として扱われない状況。
誰からも相手にされないことから訪れる自暴自棄。
対等という人間に与えられるはずの尊厳はここにはなかった。
ようやく辿り着いたこの技巧白夜街の汚点でもそれは変わらなかった。
金を稼ぐために働き口を探そうにも、底辺層、ましてや戸籍なしなんて誰も雇わない。
口にできるのは、中流と上流階級の人間たちの残飯。
それすら贅沢と言える日も多かった。
ゴミ箱にあったのは腐敗した食材、虫やネズミといったライバルたち。
それらを焼いて口に運ぶたび、自分の存在すら腐っていく気がした
決して触れてはいけない呪いのように人間は、社会は、彼を忌避した。近づけば、煩わしいと睨みつけられ、距離を取られ、話しかけてもそこに存在しない者として扱われる。
誰も彼を気に留めない 助けない 顧みない
――それが現実だった
「お前らが……お前らが俺をこうしたんだろ!!!! なにが対等だッ! 対等だって言うなら、なんであの時、何も……何もしてくれなかったんだ!」
「あなたの怒りはもっともです。しかし、今は怒りを納めて私の話を聞いて下さい」
「はぁ? ……ふざけんな……ッ! 誰が、お前の話なんか……ッ!」
「ノーフェイス!!」
喉の奥から発せられる裏返った声。
狐の顔はこれまでの他者を嘲け、笑うものから口を真一文字に結び、眉間に皺を寄せた真剣な顔に変化した。
新島は、矢筈が言い放ったその単語の意味を知らなかった。
しかし、単語から読み取れる意味がとある人間との共通点をリンクさせた。
あの日、ショッピングモールにいた顔のない人間。
背中に出来た大の字の火傷が思い出したように痛み始めた。
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