家族旅行中に事故したら、転生してしまった件。~家族旅行で無能判定からの逆転?魔王城?そんなの聞いてないよ~

ナイトン

プロローグ 平凡だけど幸せな日々

兵庫県・明石。海風がすっと抜ける住宅街の一角に、俺――佐伯涼介の家はある。


その朝も、布団の胸元には白い柴犬が丸くなって眠っていた。

エレン。十年来の相棒で、俺たちの“最初の家族”だ。

「……おはよう、エレン」

声をかけると、ぱちりと片目を開き、鼻先を胸に押しつけてくる。ここが自分の場所だと言わんばかりに、軽い体でぐい、と寄ってくる。少し冷たい鼻面と、やわらかい体温が、心拍と同じテンポで返ってきた。

「涼介ばっかり、ずるいなぁ」

背後で恵子が笑った。寝癖を耳にかけながら、ブランケットを肩に寄せる。

「エレン、パパだけじゃなくて、私や卓也のところでも寝なさいよ」

「ぼくも! ぼくもいっしょがいいー!」

三歳の卓也が布団の端から手を伸ばす。小さな指が空を掻き、ふにゃっと潰れた枕に沈んだ。

けれどエレンは完全無視で、さらに体を寄せて小さく喉を鳴らす。

「しょうがない。ここは“特等席”だからな」

そう言うと、恵子は目を細め、卓也はぷうっと頬を膨らませてから、結局みんなで笑った。こんなふうに笑うたび、胸の奥で、遠くの景色がそっと開く。


――夏の商店街の角。ガラスの向こうで、まだ小さな白い体がじっとこちらを見ていた。

「可愛い……連れて帰ろう。涼介と一緒に育てたい。――家族になる練習」

恵子が指先をガラスに当てて、目だけで笑う。その真っ直ぐな言い方に背中を押され、名札に“エレン”と刻んだ。

抱き上げた体は驚くほど軽くて、胸元に潜り込むのがやけに上手かった。特等席は、その日から決まった。


朝食を済ませ、コーヒーの湯気が細く立ちのぼる。トーストの欠片を拾い食いする卓也を、エレンが鼻先でつつく。

「だめだよ、エレンのはこっち」

恵子は餌皿を床に置き、さりげなく卓也の口元を拭う。白衣の袖口からのぞく手は、いつも人の呼吸を整え、不安をほどく。家でも、病院でも、手つきは同じだ。

「今日、午後は往診?」

「うん。午前は外来。午後は訪問。夕方には帰れると思う」

「じゃあ晩は早めに食べて、三人で散歩だな」

「さんぽ!」

卓也が椅子から身を乗り出す。

エレンはそれを聞いて、尻尾で床をぱたぱたと叩いた。


大学を出た俺は、地元の総合不動産会社に就職した。最初は設計部。朝いちばんにCADを立ち上げ、梁の位置をミリ単位で追い、断熱の連続性を切らさないように線をつなぐ。

「梁はここで荷重が逃げる。耐力壁の位置、一本ずらして」

「この押入れの角、冷橋になるぞ。断熱、段差を減らせ」

短い指示の意味を体に落とし込みながら、図面の骨格は少しずつ精度を持ちはじめる。

紙の上の線が、いつか本当に人の暮らす空間になる――その事実に、何度も小さく震えた。

ほどなく、現場監理も任された。

ヘルメットの縁から汗が落ち、測量のピンに糸を張り、基礎に墨を打つ。型枠に触れる指先のかすかな振動で、硬化の気配が分かるようになる。

上棟の日、クレーンが梁を吊り上げ、職人の掛け声が空に抜けた。

現場には現場の論理がある。工程を崩さない段取り、天気の読み、材料の癖。図面では見えない木の結び目、鉄の鳴り、風の抜け方――それらは、身体で覚えるしかなかった。

数年して、営業に回った。設計と現場を知っている人間が、机上の説明で迷わないからだ。

「この土地だと建ぺい率はこう。容積率はこの上限。南面の採光はここを抜けば午後も暗くならない。軒の出を三尺とれば、夏の直射をうまくはずせます」

相手の表情がほどけていく瞬間が、好きだった。数字や条文が、人の暮らしの安心に変わるとき、言葉の重さがひとつ定着する。

図面の理屈と現場の音――その両方の手触りが、静かに積もっていく。いつか、この蓄えが別のかたちで必要になる気がした。ぼんやりと、けれど確かに。


恵子は六年制の医大を出て、内科医になった。外来で声を落とすとき、往診で靴を脱ぐとき、手洗いの水音を止めて患者の言葉を待つとき――彼女の仕草は、景色を静かに整える。


思い出すのは、冬の堤防の夜だ。風が頬を切るほど冷たくて、ポケットの小箱が手の中で少し滑った。

「良い日も悪い日も、同じ歩幅で越えていきたい。俺と結婚してください」

小箱を開くと、街灯の下で小さな蒼が静かに揺れた。海の色。彼女が好きだと言っていた色だ。

「……はい」

薬指に収まると、凪いだ水面みたいに光が震えた。あの夜の蒼は、季節を越えて灯り続け、いまも家の呼吸のように揺れている。


そんな日常は、ある日ふっとほつれた。玄関まで駆け寄る足音が、聞こえない。

「……エレン?」

呼んでも尻尾を振らない。

リビングの隅で小さく丸まる背中は、抱き上げて驚くほど軽かった。呼吸は浅く、体に熱がこもっている。

「恵子」

白衣を脱いだ内科医の手つきで、恵子は耳を当て、胸に掌を置いた。

「……呼吸音が粗い。心臓に負担がかかってる」

いつものやわらかな声のまま、目だけが迷いを切っている。その目を合図に、俺はキーを掴み、エレンを胸に抱えたまま玄関を出た。


夜の街を抜け、光の浮く看板へ。動物病院のドアを開けると、白い灯りが目に沁みた。

診察台の上で、聴診器が小さく動く。数分が長く引き伸ばされて、やがて獣医は静かに言った。

「――僧帽弁閉鎖不全症です。すぐに入院を」

難しい病名より先に、恵子の指先が鼓動のリズムを探している事実が胸に刺さる。彼女は、ここでも同じ温度で呼吸を整えようとしていた。


入院の日々が始まった。酸素室のガラスが、呼気でうっすら曇る。

「えれん、がんばってね」

卓也の小さな手がガラスに触れると、エレンの尻尾が一度だけ揺れた。たったそれだけの合図が、どうしようもなく嬉しい。看護師が目頭を押さえ、恵子が小さく息をつく。

帰り道、車のドアポケットで空の首輪が触れ合う音がした。金具の乾いた音が、胸の奥の景色をいくつも連れてくる。散歩のコース、信号待ちで座り込んだときの背中の重み、海沿いで風に耳が返る瞬間――十年分の小さな絵が、音に引かれるように立ち上がった。

よく晴れた日の病院帰り、堤防の上を歩くと、遠くの海が薄い銀紙みたいにきらついた。

卓也は手すりの間から顔を出し、「ひかってる!」と叫ぶ。恵子は笑って、その肩を守るように手を置いた。


「パパ、みて!」

卓也はタオルをマントみたいにして胸を張った。端には亀の小さなワッペン。

ヒーローの真似をして、足を開き、息を吸って吐く。

「ハァァァッ!」

無邪気な掛け声に合わせて、家の呼吸が一拍そろう。

それから彼は、おもちゃの杖を握り、言葉を言わずに手首をくるりと返した。両手の指先をちょん、と合わせる、テレビで見た忍者の“印”の真似。

「……合図?」

俺が問うと、卓也は得意げにうなずいた。

「ことばなしでも、つうじるやつ!」

もう一度、指を合わせる。見ているうちに、俺と恵子の呼吸も、その一拍に引き寄せられた。

家族だけの小さな約束みたいなものが、いつの間にかできあがっていた。


良い日と、苦しい日が行き来した。「今日は調子がいい」と言われる日には、胸がふっと軽くなる。次の診察で「心雑音が強い」と聞くと、同じ分だけ沈む。

最期の夜、面会の時間ぎりぎりに駆け込むと、エレンは細い呼吸を繰り返しながら、俺たちが覗きこむと瞳をかすかに開いた。

「……ありがとう」と言ったように鼻を鳴らし、眠るみたいに旅立っていった。

静まった家で、卓也はリードを抱くようにして眠り、恵子は台所でコップを磨きながら、何も言わずにしばらく水の音を聞いていた。

(……このままじゃ、いけない)

言葉にならない言葉が、胸の奥で形になっていく。


「旅行に行こう」

夕食の箸を置いて、俺は言った。「気持ちを切り替えよう。京都の一休寺に」

結婚前、何度も歩いた赤いもみじ。境内に風が通る音が好きだった。そこに行けば、呼吸が整う気がした。

「……うん。いいね」

恵子が笑う。頬の筋肉がゆっくり戻る。

「しゃしんいっぱい!」

卓也が両手を上げる。

「約束だ。赤いもみじの下で、三人で」


その夕方、塀の上で白い猫がこちらを見て、「にゃ」と短く鳴いた。目が合った気がして、卓也が小さく手を振る。猫は尻尾を一度だけ揺らし、屋根の向こうへ消える。

前の晩、卓也が「まほうのショーしよう!」と言い出し、紙ナプキンでフリルの腰巻きをこしらえた。

「パパも! ママも! ふりふり!」

観念して腰に巻くと、卓也は満足げに杖を振り、また言葉なしの合図を作る。笑いが、少しだけ戻った。

台所の戸棚の陰で、同じ白い猫がふたたび顔を出し、静かにこちらを見ていたことに、そのときの俺たちは気づかなかった。

洗い桶の水面が、窓の風に合わせて小さく揺れ、タイルに映る光が薄く踊っていた。


数日後の朝。赤いプリウスに荷物を積み込み、チャイルドシートのベルトをもう一度確かめる。

潮の匂いが、ほんの薄さで窓から差し込む。積み忘れのないよう、いつもより声に出して指差しをする。

「忘れ物ない?」

「よし。飲み物、絵本、カメラ、タオル……お菓子」

「おかし!」

「ほどほどにな」

ハンドルの先で、恵子の薬指の蒼が小さく光る。光は呼吸みたいに揺れて、目の奥の緊張をほどく。

「パパ、しゃしんいっぱいとろ!」

「撮ろう。今日は“にこにこの日”だ」

バックミラー越しの笑顔に、肩の力が抜ける。

出発前に、卓也が忍者ポーズをつくり、両手の指先をちいさくちょんと合わせた。

「いくよ!」

たったそれだけで、車内の空気がすっと揃う。言葉のいらない起動の合図。

玄関わきの電柱の陰で、白い猫がこちらを見て、また「にゃ」と鳴いた。合図に応えるみたいに、一度だけ尻尾を振る。


国道に出る。朝の光が、中央分離帯の植え込みに斑点をつくる。ロータリーを抜けると潮の風が少し強くなり、フロントガラスをすべる。

「この先、少し混むかな」

「時間あるし、のんびり行こう」

「はーい!」

やわらかな会話に紛れて、胸の奥の歯車が、わずかに噛み合わない感覚を残した。ほんの一瞬、息が浅くなる。

「涼介?」

「大丈夫。手前で休むよ」

深く吸って、時間を少しだけゆるめる。距離の計算が半歩遅れてついてくるのが、自分でも分かる。

信号待ちで、卓也が窓の外を指さした。

「パパ、あのくも、亀みたい!」

「ほんとだ。甲羅がでっかい」

「かめはね、つよいんだよ」

「そうだな。のろいけど、負けない」

みんなで笑う。笑い終わる直前、胸の奥で、歯車がもう一度だけ空回りした。ほんのわずかな違和感。それでも、ハンドルの感触はいつもどおりで、道はまっすぐ延びている。


次の交差点で、左折の合図を出す。ウインカーの規則的な音が、脈とずれて聞こえた。ミラーの中で、恵子の左手の蒼がふっと揺れる。

「着いたら、最初にどこ行く?」

「お寺の山門。もみじが残っていたら、一本でもいいから」

「しゃしん!」

「うん、しゃしん」

互いの声が重なって、車内にやわらかい層をつくる。

その刹那、胸の奥の歯車がもう一段、空を切った。


次の瞬間、銀色の面が思ったより早く大きくなった。

ハンドルを切る。ブレーキを踏む。空気が押し返す。

視界の端で、恵子の左手の蒼が、ひとつだけ強く光った——ドンッ。


世界が横向きになり、光が細かく砕けて散っていく。

指先から、エレンの首輪の感触がするりとこぼれ落ちる。

暗い。けれど、冷たくはない。

耳の奥で、鈴がひとつ鳴った気がした。

遠く、潮の匂いが薄まり、別の空気が胸に入れ替わる。呼吸は浅いのに、どこか懐かしい。

ハンドルの皮の匂いも、ウインカーの音も消えて、静けさだけが広がる。


……静かだ。

海の匂いと、蒼い石の光だけが、心の底でゆっくり揺れている。

その揺れに体を預けながら、俺は目を閉じた。



次に目を開けた先は、見知らぬ世界だった。

カーテン越しの光がやわらかい。

ふわりと抱き上げられる。腕は細いのに、不思議なくらい安心する温度だった。


「……おはよう」

女性の声は、耳たぶをくすぐるくらいの小ささで、言葉の端に微笑みが乗っている。

額に指がそっと触れて、呼吸のリズムを合わせるみたいに胸に小さな円を描く。

「大丈夫。ゆっくりね」

「いい顔だ」

男性の声が近づき、肩越しにのぞき込む。包み直す手つきも、おだやかだ。

天蓋の縁には淡い青の刺繍が一列。光を受けて、水面みたいにひそかに揺れる。

女性はその青を見て、目尻をやさしく下げた。

「きれいね。あなたが好きになったら、覚えておくわ」

差し出された大きな人差し指を、反射みたいに握る。脈のあたたかさが手のひらに移って、胸の奥が静かになる。

女性は頬を寄せ、髪の香りだけで子守歌みたいに空気がやわらぐ。

両手の指先が、勝手にちょんと触れ合った。

誰も気づかない小さな合図に、二人の気配がそっと「よし」と笑った気がして、まぶたが自然に落ちる。

青い刺繍の線が滲み、ゆっくり遠のいていった。



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