第19話 彼を奪い返すために──《姉妹》は動き出す(前編)

王都・ヴァルステッド邸・姉妹の私室──


外は穏やかな夜。鐘の音が微かに響く静けさの中、

この部屋だけは、まるで異質な空気を纏っていた。


そこにいたのは、ラル=クローディアという男を知り尽くし、

そして誰よりも深く、歪んだかたちで愛する──二人の姉妹。


「“彼を軍に戻すため”なんて、建前よ。あの4人も……同じ。

ラルを守る? 支える? 馬鹿げてるわ」


クロエ=ヴァルステッドは窓辺に立ち、夜の帳を見つめながら冷然と言い放った。

その横顔には、かつて戦場を制してきた冷静沈着な指揮官の面影があったが──

その瞳には、それ以上に色濃い“執着”の光があった。


「……軍も、あの4人も。誰一人として、ラルの“すべて”を理解していない。

彼の信念、覚悟、痛み、罪……そして、あの“微笑み”の意味すら分かっていない」


「ラル先輩はさぁ……優しすぎるんだよねぇ」


ルナ=ヴァルステッドはベッドに寝転がりながら、くるくると枕を抱いて回す。


「誰にも怒らないし、嫌わないし、全部“自分で背負おう”ってする。

だから、勘違いされちゃうの。“この人は利用しても怒らない”って」


その声から甘さが消え、冷えた鋭さがにじみ出た。


「でもね──そんなラル先輩を“好きだ”って言う人間が、この世に何人いても……

ラル先輩自身のすべてを、“壊れるまで受け止められる”のは、私とお姉ちゃんだけなの」


「同意見よ」


クロエは即答する。

その口調には、自信というより、確信があった。


「戦場のラル、作戦指揮中のラル、負傷者を抱えるラル、命令に背いたラル……

誰よりも近くで、それを見てきたのは私たち。

“仲間”でも“恋人”でもない、もっと深いところで、彼を理解している」


その手が、ゆっくりと棚の小箱を開く。

中には、かつてラルが所属していた部隊章と、古びた通信端末。


「……彼が戻る場所は、あの屋敷でも、軍でもない」


「うん。“わたしたちの中”だよね」


ルナの瞳が細まり、言葉に熱を帯びる。


「ねえ、お姉ちゃん。ラル先輩のこと、他の誰にも見せたくないよ。

外に出したくない。触れさせたくない。

だったらもう──」


「閉じ込めるしかないわ」


クロエが静かに言い切る。


「軍が手を伸ばす前に。あの4人が甘やかす前に。

私たちが、ラルを“完全に”取り戻す」


「……でもさ」


ルナが急に静かになり、体を起こした。

その表情に、わずかな悔しさと後悔の色が浮かぶ。


「任務に出てる間に……ラル先輩が、軍を抜けちゃった時……

あの時、すっごく……震えたんだよね。世界がぐらって崩れた感じ」


「……私もよ」


クロエは目を伏せ、拳を握る。


「だから、もう二度と手放さない。

ラル先輩を、“自由にさせる”っていうのが、いちばん危険なんだよ」


「ええ。あの人は、“自分を捧げる”ことに慣れすぎてる。

……私たちが、奪いきるしかない」


そこまで言ってから、クロエは一度、言葉を切った。


「……指揮官失格ね」

ぽつりと呟いて、静かに笑う。


「冷静を装っていたけれど、あの時──あの子たちの隣にラルが立った瞬間、背筋が冷えたの。

まるで、彼が“帰る場所”を決めたようで……あの笑顔が、誰かのものになったみたいで──悔しかった」


「お姉ちゃん……」


ルナの声がやわらかくなる。

そして、ほんの少しだけ、嫉妬の混ざった瞳で姉を見上げた。


「私も、ずっと震えてたよ。ラル先輩がどこにいて、誰といて、何を話してるのか──考えるだけで、気が狂いそうだったもん」


クロエは、ルナの言葉に何も言わず、ただ小さくうなずいた。


──その時。


ルナが枕を抱いたまま、ぽつりと呟いた。


「……ねえ、お姉ちゃん。最近、ラル先輩に“無遠慮に近づいた”奴、いたよね?」


クロエの眉が僅かに動く。


「……ガルザ将軍のことね」


「うん。あいつ、ラル先輩を“評価”するとか言って、平気な顔で近づいてた。

何それって思わない? 誰目線? 何様?」


「彼は、自分の地位を“免罪符”にしているだけよ。

でも──ラルに触れた時点で、もう見逃す理由はない」


ルナが起き上がり、ベッドの縁に腰かける。


「じゃあ、明日……“忠告”しに行こうか?」


「いいえ。今夜。

軍本部の応接室なら、人目も少ない。ちょうどいいわ」


ルナの唇がゆっくりと吊り上がる。


「ふふ……じゃあ決まり♪

ラル先輩を値踏みした視線の代償、しっかり払ってもらわなきゃね──」


♢ ♢ ♢


王都・軍本部・別館 応接室──


ガルザ将軍は、書類を机に投げ出したまま背もたれにふんぞり返っていた。

この時間帯、会議の予定はなかったはずだ。

なのに、突如現れた“ヴァルステッド家の姉妹”に呼び出され、応接室で一人待たされている。


「……まったく、貴族ってのは気取った真似を……」


重い扉が音もなく開いた。


「お待たせぇ、将軍♡」


先に入ってきたのは、ルナ=ヴァルステッド。

足を組み、ソファにふわりと座ると、すぐに甘く微笑んだ。

だが、その微笑の奥に宿るのは、無垢さではない。圧倒的な“敵意”──いや、“独占欲”の具現。


続いて、クロエ=ヴァルステッドが静かに扉を閉じる。

その手の動きすらも、どこか冷たく無機質だった。


向かいに立つガルザ将軍は、目の前の姉妹を見下ろすように言う。


「で? お前たちが俺に話があるって、わざわざこの部屋に呼び出した理由は何だ。

……作戦会議でも、戦略でもなさそうだが」


「違うわ。もっと大事な話」


クロエが立ち上がる。

完璧に整えられた軍服の襟を、ぴんと指で直しながら、その瞳だけが氷のように光っていた。


「“わたしたちのラル”に、勝手に触れた件についてよ」


「……は?」


ガルザの眉が動いた。


「勘違いするな。俺はただ、少しだけ話をしただけだ。戦力評価のために、距離を──」


「“近づいた”のよね?」


ルナが言葉を挟む。

甘い声。でも、手に持った紅茶のカップが、カチンと音を立てた。


「勝手に話しかけて、ラル先輩の顔を覗き込んで、性格を測って、“動かせるかも”って思ったんでしょ?

──きもちわるいなぁ」


「……っ」


「彼は、おもちゃじゃない」


クロエの声が、びくりとガルザの背を打つ。


「貴方が手を出していい相手ではない。理解できないのなら──今ここで、その手を“落として”あげる」


「お前ら、何を……!」


「ねえ、将軍♪」


ルナがふわりと立ち上がり、机を回り込んでガルザの側にぴたりと寄る。


「ラル先輩ね、“あの時”……すっごく困った顔してたんだよ?

“どうしてこんな人が軍の上層部なんだ”って、目で全部、物語ってた。……可哀想だったなぁ、ほんと」


「……っ」


「わたしたちのラル先輩を、“気まぐれで値踏み”したその視線、ほんと、虫酸が走るの。

……ねぇ、ひとつだけ教えて?」


ルナの瞳が、射抜くように光った。


「ラル先輩の“何”を知ってるの?

戦歴? 性格? 癖? 傷の数? 言葉の裏にある“沈黙”の意味……

──全部、知らないくせに」


「……それは──」


「触れるなって、言ってるの」


クロエが、低く言い放った。


「私たちは、ラル=クローディアの“すべて”を知ってる。

戦場で、病室で、廊下で、屋上で……どんな時の彼も、どんな想いも、

どんな“孤独”も、どんな“優しさ”も──全部、見てきたの」


「なのに、貴方みたいな人が、“何かを測るために”近づく? 軽々しく触れる?

……冗談じゃないわ。何様のつもり?」


ルナが、紅茶のカップをガルザの足元に落とす。

粉々に砕けた磁器の音とともに、熱い空気が部屋を満たしていく。


──その音に、ガルザの反射神経が遅れて反応した。

だが立ち上がろうとした膝に、妙な力が入らない。

背中を汗が伝い、喉が渇く。


「……な、何なんだ……お前たち、気でも狂ったのか……!」


声は、怒鳴りではなく、震えだった。


「ヴァルステッド家の姉妹も……あの、ラルの周りに集まってるあの女たちも……

お前ら、全員……どこか“おかしい”んだよ……っ!」


クロエもルナも、無表情のまま黙って見下ろしていた。

その沈黙が、何よりも恐ろしかった。


「軍の中で“英雄”として名が通ってる男に、なぜあそこまで執着できる……?

あいつの何がそんなに……ッ!」


まるで、理解できないものに対する本能的な恐怖。

理屈では処理できない熱量。

ガルザの中の「軍人」としての自負が、ポキリと音を立てて崩れた。


「……っ、ふざけるな……俺は……正当に“評価”しようとしただけだ……!」


「……評価?」


クロエの瞳が細まる。


「──その言葉が、いちばん気に入らない」


「評価されるような存在じゃないの。ラル先輩は、“捧げられるもの”なの」


ルナの声が、ねっとりと落ちてくる。


「本当はね、ここに呼んだのも、“壊すため”だったんだよ」


「でも、ラル先輩が言ったの。“誰かを傷つけてまで、守らなくていい”って」


「……でも、それっておかしくない?」


ルナが、少し泣きそうな声で笑う。


「ラル先輩が“何もしない”って言うから、私たちが我慢しなきゃいけないの?

誰かがあの人を踏みにじって、わたしたちが──“許す”の?」


「……違うわ」


クロエが一歩、前に出る。


「私たちが彼を守る。彼が守るのを“諦めてしまった部分”まで、全部。

だから──ガルザ将軍、忠告しておくわ」


「“次にラルに触れたら──”」


ルナが、人差し指を口元に立てながら、優しく微笑んだ。


「──ぜ〜んぶ、奪っちゃうから。あなたのこと」


「地位も、役職も、言葉も、未来も──全部ね」


ガルザが言葉を失ったまま、ただ立ち尽くす。

気づけば全身から冷や汗が噴き出し、口が開かない。


クロエとルナは、同時に踵を返す。


「“警告”は終わりよ。あとは、貴方がどう生きるかだけ」


「……でも、ラル先輩の顔を“思い出した時”が、あなたの最期ってことだけ、覚えててね♡」


扉が静かに閉まった。


後に残ったのは、ガルザの震える息遣いと、砕けたカップの破片だけ。


──彼女たちは、“誰よりもラルを愛している”。

それは、決して綺麗な感情じゃない。

けれど、誰にも抗えないほど強く、深く、そして……破滅的だった。

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