第21話 21. 銅像の影
少年は十歳になったばかりだった。
彼の生きる世界に、戦の影はどこにもなかった。
村の朝は鳥のさえずりで始まり、広場には笑い声が絶えなかった。
隣村の子どもたちが遊びに来ても、誰も疑わずに一緒に走り回る。
かつて人と人が憎み合ったなど、少年には想像すらできなかった。
収穫祭の日、村の大人たちは果物やパンを惜しげもなく並べた。
「腹いっぱい食べなさい」
そう言われ、少年は何度も皿を手にした。
母はその姿を微笑んで見守り、父は「よく育ったな」と誇らしげに頷いた。
冬になれば、学校で文字を学んだ。
教師は子どもたちにだけでなく、字を知らぬ大人たちにも教えた。
「未来は剣でなく言葉にある」
少年はその言葉を信じ、拙い字で仲間の名前を書き、嬉しそうに笑った。
***
ある日、教師は物語を語った。
「むかしむかし、大戦争の時代があった」
子どもたちは目を丸くした。
「だが五人の聖人が現れたのだ」
教師の声に、少年も胸を高鳴らせた。
「勇者リュシアンは人と魔を調停し、争いを終わらせた」
「聖女セラフィナは貧しき者に慈悲を与えた」
「聖騎士ローランは神の盾となり、弱きを守った」
「姫イリスは誇りをもって魔族を導いた」
「賢者オズワルドは千年の知をもって人々を照らした」
教室は歓声に包まれた。
少年も声を張り上げて「勇者さま! 聖女さま!」と叫んだ。
その目には疑いなど一片もなかった。
***
やがて少年は父に連れられて帝都を訪れた。
大聖堂の広場に足を踏み入れると、そこには五人の銅像が並んでいた。
聖女セラフィナの像は微笑みを湛え、
聖騎士ローランは剣を掲げ、
姫イリスは気高く立ち、
賢者オズワルドは巻物を掲げていた。
そして中央に、勇者リュシアンの像があった。
誇らしげに胸を張り、遠い未来を見つめるその姿。
広場に集った人々は花を捧げ、祈りを捧げていた。
少年もまた胸を高鳴らせた。
「これが、平和をつくった勇者さま……」
父は肩に手を置き、言った。
「見ろ、あれが我らを救った英雄だ。お前も強く、立派に育て」
少年は力強く頷いた。
心の中は誇りと憧れでいっぱいだった。
***
だがその瞬間、風が吹き、銅像の影が伸びた。
影が勇者の口元を歪ませたように見えた。
にやり、と。
人を突き落とす卑怯な笑みのように。
少年は思わず息を呑んだ。
だが次の瞬間、父が笑いかけ、祭の太鼓が鳴り響いた。
人々の歓声に包まれ、違和感はかき消された。
少年は再び広場を走り回った。
笑い声と歌声が空に舞い上がる。
そこには愛と平和しかなかった。
ただ――銅像の影だけが、静かに歪んだ笑みを残していた。
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