第19話 17. 賢者オズワルド ― 封印の理由
オズワルドは生まれながらにして「異質」だった。
魔族の血を色濃く受け継いだ彼の容貌は、美しさを備えていながらも人には到底受け入れられないものだった。
白磁のような肌に走る黒の紋様、金属を溶かしたような瞳。
それは、彼が静かに微笑むだけで人間たちを震え上がらせるに十分な「異形」だった。
だが、彼自身は争いを好まなかった。
幼いころから膨大な知識を吸い込み、魔族の記録や人間の古文書を研究し、戦うよりも理解することに心を傾けた。
「なぜ人と魔は争うのか」
「なぜ同じ命であるのに互いを滅ぼそうとするのか」
彼はその問いに答えを求め続けた。
やがて青年となったオズワルドは、人間の学者たちとも密かに交流を持つようになった。
彼の知識は双方の歴史を照らし出し、時には戦の火種を鎮める役割さえ果たした。
「彼がいれば調停の道も見えるかもしれない」
そう囁く者もいた。
しかし、その声はすぐに恐怖にかき消された。
***
オズワルドは膨大な知識の中から、かつて大魔王が残した禁術の断片を見つけた。
それは「世界の均衡を崩すかもしれない」危険な知識。
彼自身は決して使おうとは思わなかった。
むしろ「これは二度と繰り返されるべきではない」と封印の研究を進めていた。
だが、人間にとっても魔族にとっても、彼が「知っている」という事実そのものが脅威だった。
人間は言った。
「魔族の賢者が大魔王の知識を握っている。いずれ復活を目論むに違いない」
魔族は言った。
「人間に膝を屈している。いずれ裏切って我らを売るだろう」
双方にとって、彼は「危険すぎる常識人」だった。
善悪ではなく、理性が恐れられたのだ。
***
ある夜、彼は人間と魔族の双方から呼び出され、密談の席に連れて行かれた。
そこには勇者と魔王の代理人が並んで座っていた。
敵同士のはずの二つの陣営が、唯一手を取り合ったのは「オズワルドを排除する」という一点だった。
「君の存在は均衡を乱す」
「知識を持ちすぎている」
「双方にとって危険すぎる」
オズワルドは静かに答えた。
「私はただ、争いを終わらせたいだけだ」
だが、その声は届かなかった。
彼の理性も理想も、恐怖の前では意味をなさなかった。
***
彼は強大な魔術師たちによって捕らえられ、千年に及ぶ封印を施された。
大地に刻まれた烙印の中へと閉じ込められ、知識も言葉もすべて封じられた。
「いずれこの封印を解く者が現れるだろう」
その最後の言葉だけが虚空に響いた。
それは呪いではなく、希望でもなく、ただ理性の延長にある予測だった。
彼にとって、争いは必ず循環するもの。
再び誰かが血を流し、恐怖と誤解の中で自分を呼び覚ますだろう。
そして皮肉にも、その「誰か」とは、最も卑劣で臆病で下劣な人間――リュシアンだった。
***
オズワルドが封印された理由は、彼が邪悪だったからではない。
むしろその逆だ。
「常識的すぎる理性」と「危険すぎる知識」 が、人間と魔族双方にとって不都合だった。
だから彼は孤独に、長い封印の闇の中で待ち続けることになったのだ。
やがて臆病で卑劣な一人の青年が、思いがけずその封印を解く日を迎えるとも知らずに。
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封印は深い闇だった。
オズワルドの肉体は石に縛られ、魔力は結晶の檻に閉じ込められた。
呼吸も脈動もなく、ただ意識だけが数百年を越えて漂い続けた。
その中で、彼は世界を見ていた。
目を通してではなく、大地に刻まれた烙印の揺らぎを通して。
戦争が起き、血が流れ、王朝が滅び、再び築かれる。
人も魔も、何度も同じ愚を繰り返していた。
「やはり争いは循環する……」
彼の理性はそのたびに冷たい結論を下した。
だが心の奥底では、小さな期待を手放せなかった。
――いつか、この烙印を継ぐ者が現れ、均衡を取り戻すかもしれない。
しかし烙印は応えなかった。
勇敢な魂にも、知恵ある者にも、誠実な祈りにも。
誰ひとりとして、封印を解く者は現れなかった。
やがて彼は知った。
この烙印は「強き者」を求めているのではない。
むしろその逆――最も弱き魂 にしか応えないよう造られているのだ、と。
それは呪いのような条件だった。
彼自身が力を使えぬようにするための、恐怖と猜疑が生み出した歪んだ仕掛け。
「知恵を発揮させないために、最も卑劣で、最も臆病な者に選ばせる……」
その皮肉に気づいたとき、オズワルドは深い絶望を覚えた。
***
百年が過ぎ、二百年が過ぎた。
人間の帝国は栄えては崩れ、魔族の王も世代を重ねては滅びた。
そのたびに彼は、理性の眼で観察を続けた。
戦場で血を流す勇者がいた。だが彼は選ばれなかった。
民のために尽くす王がいた。だが彼も選ばれなかった。
誰よりも強く、誰よりも正しい者たちが、次々に大地に散っていった。
「なぜだ……なぜ選ばれぬ……」
その問いに、烙印は冷たく沈黙を返すばかりだった。
やがて、オズワルドの中にはかすかな諦めが芽生えていた。
もしかすれば、このまま誰も現れず、永遠に闇の中に留まるのかもしれない――。
***
だがその日、ついに烙印は揺らいだ。
泥に塗れ、涎を垂らし、涙で顔をぐしゃぐしゃにした一人の若者が、崖の上で他人を振り落とした。
「俺だけが生き残るんだ!」
高笑いと共に吐き出されたその言葉に、烙印は共鳴した。
オズワルドは愕然とした。
「まさか……こんな……」
烙印が選んだのは、勇者でも賢者でもなかった。
最も卑劣で、最も臆病で、最も下劣な魂――リュシアン。
彼の足元にまとわりつく血と小便の匂いすら、烙印は求めていた。
「最弱こそが器となる」
かつて彼が見抜いた呪いは、今まさに現実となっていた。
***
封印の内から、オズワルドはその姿を見ていた。
リュシアンは涙を流しながら村人に取りすがり、声を震わせて叫んでいた。
「俺は……助けられなかったんだ!」
その演技に村人は同情し、誰も彼を責めなかった。
オズワルドは、吐き気を覚えるほどの失望を胸に抱いた。
――なぜこの男が。
――なぜ最も卑劣な魂が選ばれるのか。
だが同時に、彼は静かな理性で理解した。
「これが、私を恐れた者たちの残した罠か……」
千年前、人間と魔族が唯一手を取り合って仕掛けた封印。
それが今、最も醜悪な形で実を結んでいる。
彼の封印は破られた。
長い闇から解き放たれた瞬間、目の前にいたのは、臆病で卑劣な青年リュシアン。
オズワルドは初めて、己の理性を裏切るほどの感情を覚えた。
それは失望。
そして、絶望だった。
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