隣の部屋のエルフが留年してた
林堂燿
エルフってタバコ吸っていいの?
引っ越しの際の隣人への挨拶ほど緊張することはない。いわゆる「隣人ガチャ」を外したら終わりだからだ。隣の部屋に異常者が住んでいたら新生活は一瞬で台無しになってしまう。ましてや大学入学を機に一人暮らしを始める僕のような大学生にとっては、大学生活そのものを左右する問題になりかねない。
頼むからヤンキーとかが出てきませんように、と願いながら、饅頭の小包を片手に隣室のインターホンを鳴らす。
やや時間が空いて「はい」と気怠げな声が返ってきた。かなりハスキーだけれど、女性の声だ。僕はひとまず隣人が怖い男の人とかでなかったことに安堵して、小さく咳払いをした。
「あっ、すみません。今日から隣に引っ越して来ました、山田と言います。ご挨拶に伺いました」
緊張で上擦った僕の声に、隣人は「あー」と気の抜けた返事をして、それから室内でばたばたと何かが倒れるような音がした。
「いま開けますんで」
その言葉の後、今度はペットボトルを踏みつけるような特徴的な音が響いて、それからようやくドアが開いた。
「すんません、わざわざどうも」
その人はエルフだった。白く透き通るような肌、銀色の絹のような長髪、すらりと長い肢体。中指を立てたイラストがデカデカとプリントされている黒のTシャツが気にかかったが、僕の頭の中はそんなことよりも「エルフって実在したんだ」という感想でいっぱいになってしまった。
数秒呆けたのち、僕は慌てて饅頭の包みを突き出した。
「あっ! これ、ほんの気持ちですが、お近づきの印に!」
エルフの女性は無表情というか、冷めているような目つきでしばらく饅頭を見つめ、そして口を開いた。
「あー……セタメンとかでもいいか?」
「え?」
何を言われたのかわからず僕が間抜けな声をあげると、彼女は饅頭を受け取ってしげしげと眺め、それから僕にまた返した。
「そのー、お近づきの印?ってやつ。セタメンとかに変えてもらうことってできるか?」
引っ越しの挨拶の際の贈答品のチェンジを希望する人間がいるということを想定だにしていなかった僕の脳みそは、瞬時に思考を停止する。
「えーと……セ、セタメンとは?」
「お前らのが詳しいだろ。セブンスターメンソールだよ。黒い箱のやつ。タバコ」
「た、タバコの方が饅頭よりいいってこと? ですか?」
「うん。マンジューよりタバコの方が好きだから、もらえるならタバコの方が嬉しい」
こういうのは好きとかじゃないだろ、という言葉を飲み込んで、どうにか返答を探す。
「いやあ……僕未成年なんで、タバコは買えないです……」
「あ、そうなの? じゃあお金でもいいぞ。五百六十円」
いいわけねえだろという言葉が喉元まで出かかって、必死に口元を抑える。落ち着け、僕。相手は異世界人だ。僕らの礼儀作法に疎いのは仕方のないことなのだ。
「いや、お金もなくて……僕まだバイトとかしてないので……」
口ごもりながら僕が言うと、エルフは「あ、そうなん」とあっさりと引き下がった。
「んじゃ饅頭はドワーフにでも売って金にするかな。あいつら土ばっか食ってる舌バカだし」
そういうことは思っても言わない方がいいのではないだろうか、と、思っていることを必死に堰き止めながら僕は思った。エルフといえば気高く美しい種族というイメージだが、このエルフはいささか非常識で礼節に疎いところあがあるみたいだ。美しくはあるのだけれど。
「えーと、じゃあ山田? だっけ。お近づきの印にー、そうだな。えー……私の部屋でも掃除していくか?」
「いや、え?」
拒否する間もなく腕を掴まれ、部屋に連れ込まれる。入った途端に懐かしい臭いがした。父の書斎と同じ臭い、壁に染みついたタバコの臭いだ。それにプラスして、なにか食品の腐ったような臭いも混ざっている。一瞬、下水道に迷い込んだのかと思った。
「うぉえ!」
反射的にえずくと、エルフは非難の意を込めた視線を僕に向けてくる。
「女性の部屋にあがってその反応は失礼なんじゃないか?」
「いや、すみませ……おぇ!」
引っ越しの挨拶を他人に売りつけて換金する方が非常識だろと思った矢先に、鼻腔に腐敗臭が侵入して来て再度嗚咽する。なんだか頭痛もしてきた。ここは毒ガスの出ている鉱山かなんかか?
ゴミだらけで足の踏み場もない廊下をどうにか踏破しリビングへ入ると、そこは案外片付いていた。いや、廊下と比べればというだけで、カップラーメンを食べた後の容器や、タバコの吸い殻が飲み口から飛び出ている酎ハイの空き缶などが散らばっている惨憺たる有様ではあったのだが。
「ぐぇ……ここを僕に掃除しろと……?」
「うん」
エルフを見やると、平気そうな顔で床に散らばったゴミを蹴飛ばして座る場所を作っている。エルフの整った顔立ちとその行為があまりにミスマッチで、頭痛が増してきた気がする。
「なんでそんなことしなきゃならないんですか」
「え? 人間は掃除好きだろ。なんかみんなでゴミ拾いとかしてるし。いつも綺麗な部屋住んでるし」
「それは掃除好きなんじゃなくて綺麗好きなんです! 手段じゃなくて目的が好きなの!」
「おい、難しい言葉を使うな。私は異世界人だぞ」
「そんな日本語ペラペラなんだからわかるでしょ!」
僕の反撃にエルフは肩を竦め、やれやれと言った面持ちで床に座る。床というか段ボールのゴミの上にだが。
「お前あれか? 新入生か?」
「え? ああ、まあそうですけど……」
「私も一年だが、お前より一年早く入学してるから私の方が先輩だな。先輩の言うことは聞くものなんじゃないか?」
「それ留年してるってことでしょ。自慢げに言うことじゃないですよ」
「留年は関係ねえだろ! とにかく私の方が早く入学したんだから、お前は私の言いつけに従って掃除をしろ!」
「どんだけ掃除させたいんですか、自分で散らかしたんだから自分でしたらいいじゃないですか」
「それができたら苦労はしねーよ!」
ぎゃあぎゃあと言い合っているうちに、エルフの方は体力が切れたのか息が荒くなっていき、僕は体調が悪くなっていき、お互い黒ずんだ床にへたり込んだ。
「ちょっと一回……あの、外に出ませんか?」
「嫌だ。外は敵が多いからタバコを買うとき以外は出ない」
「僕にとってはこの部屋の空気が敵なんですよ。タバコ代あげますから出ましょうよ」
「チッ……しょうがねえな」
なんでそっちが譲歩したみたいな感じ出してるんだと思いはしたが、そんなことを口に出す余裕も無くなっていたので、僕は這いずるようにして部屋を出た。
「すぅーーー……あー、生き返る……。エルフさん、マジで部屋片付けてくださいよ。隣の僕の部屋にも影響あるんですから」
僕が小言を言うと、エルフはドアノブに鍵を差し込んで破壊する勢いでガチャガチャと回しながら淡々と返す。
「越してきたやつが悪い。あと私のことは先輩と呼べ。あと早くタバコ代寄越せ」
「なんですかその態度は!」
「お前こそ後輩のくせになんだその態度は!」
掴みかかってきたエルフの細腕に引き倒され、アパートの外付けの通路で青空を仰ぎながら思った。隣人ガチャはとりあえずハズレたとみていい。僕のキャンパスライフの先行きはかなり不安かもしれない。
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