忘れられた島で、僕は創造主になる

酸欠ペン工場

第1章 理不尽な世界の終焉と始まり

無機質な打鍵音だけがオフィスに響く。蛍光灯が照らすのは、色彩を失ったセピア色の世界。一条蓮の瞳は、モニターに映る数字の羅列をただ無感情に追っていた。「また同じ一日が始まる。昨日と変わらぬ今日、そして明日も…」そんな虚無感が、彼の思考を鈍色の霧のように覆っていく。


「一条君、この資料、昼までに。頼むよ」上司の声は温度を持たない、まるで合成音声のようだ。

「…はい、承知しました」蓮は顔も上げずに応じる。そこにあるのは感謝も期待もない、単なる作業指示。社会という巨大な機械を動かす、無数の歯車の一つ。それが自分なのだと、彼はとうに諦めていた。


「俺は、何のために生きてるんだろう」深夜の帰路、満員電車の窓ガラスに映る顔に問いかける。そこにいたのは、瞳から生気が失われた、疲弊しきった男の姿。抱いていたはずの夢や希望は、とうの昔に無機質なビルの森に食い尽くされてしまった。魂が削れていく音だけが、やけに鮮明に聞こえていた。


横断歩道で足を止める。アスファルトを叩く雨音が、思考の隙間を埋めていく。「もう、どうでもいい…」そんな投げやりな呟きが漏れた、まさにその瞬間。鼓膜を突き破るようなクラクションの音。視界の端で、強烈なヘッドライトの光が迫るのを感じた。思考が真っ白に染まり、驚きも、恐怖も、痛みさえも感じる暇はなかった。


―――次の瞬間、世界は純白の光に塗りつぶされた。


音も匂いも温度もない、ただ無垢な『白』だけが存在する空間。世界から完全に切り離されたかのように、彼の意識は穏やかな光の中を漂う。重力という概念からも解き放たれ、身体の輪郭さえ曖昧になっていく。前世で絡みついたしがらみも、心の傷も、全てがこの白に溶けて消えていくようだった。


どれほどの時間が流れたのか。ふと、全身が温かい感覚に包まれていることに気づく。頬を優しく撫でる風。遠くから聞こえる、心地よいリズムを刻む波の音。「ここは…?」覚醒していく意識の中、瞼の裏に眩しい光を感じる。彼はゆっくりと、その重い瞼を持ち上げた。


「うわっ…!」思わず声が漏れた。目に飛び込んできたのは、あまりにも鮮烈な『青』。どこまでも続く、吸い込まれそうなほどに澄み切った蒼穹。そして眼下には、太陽の光を浴びてエメラルドグリーンに煌めく広大な海が広がっていた。「なんだ、ここは…夢でも見てるのか…?」混乱しながらも、彼はゆっくりと上半身を起こした。


手のひらに伝わる、ふわりとした柔らかな感触。見れば、そこは絹のようにきめ細かい白砂の浜辺だった。指の隙間から、サラサラと音を立てて砂がこぼれ落ちていく。「怪我、してない…?それに、体が温かい…」最後に感じたはずの衝撃は何一つ残っていない。それどころか、今まで感じたことのないほどの活力が、身体の芯から湧き上がってくるのだった。


「本当に、生きてるのか…?」おそるおそる立ち上がると、足元で透き通った波が優しく踊っている。彼は一歩、また一歩と水際に歩み寄り、その冷たい感触を確かめた。「冷たいっ!これは、夢じゃない…!」そのあまりにリアルな刺激に、彼の心は歓喜に打ち震えた。色彩を失った世界しか知らなかった彼にとって、この鮮やかすぎる現実は衝撃そのものだった。


「空気が…こんなに美味しいなんて…!」彼は大きく息を吸い込んだ。甘い潮の香りと、背後に広がる森が放つ植物の青い匂い。生命力に満ちた空気が、乾いた肺を隅々まで潤していく。澱んだオフィスの空気とはまるで違う、澄み切った大気の味。彼はまるで子供のように、何度も何度も深呼吸を繰り返した。


「すごい…何もかもが、輝いて見える…!」見渡す限り、人工物はどこにもない。ただ、雄大で美しい自然があるだけだ。空には見たこともない極彩色の鳥たちが自由に舞い、森の奥からは様々な生命の息吹が聞こえてくる。「そうだ。ここには、あの息苦しい世界にはなかった『自由』があるんだ」蓮の胸に、熱い感情が込み上げてきた。


「最高だ…!最高じゃないか…!」彼は両手を大きく広げ、空に向かって叫んだ。理不尽な命令も、終わりのない残業も、人を人とも思わない満員電車もここにはない。「死んだはずなのに、こんな場所に来れるなんてな」そのあまりに皮肉な運命に、彼は思わず笑ってしまった。それは心の底から湧き出た、本当に久しぶりの笑顔だった。


ふと、自身の服装が変わっていることに気づく。着古したスーツではなく、麻でできたような簡素なチュニックとズボンを身につけていた。「まるでファンタジーの世界だな」彼は苦笑しつつも、その非現実的な変化を受け入れる。もはや、常識で測れる状況でないことは明らかだったからだ。


「さて、これからどうしようか」彼は砂浜に腰を下ろし、冷静に思考を巡らせる。ここは無人島と見て間違いないだろう。水と食料の確保、そして安全な寝床の設営が急務だ。「サバイバル生活か。大変だろうけど…不思議と、絶望感は全くないな」むしろ、これから始まる新しい生活への期待に、胸が高鳴っていた。


「そうか。ここでは、俺が世界のルールなんだ」蓮の瞳に、力強い光が灯る。「誰かに決められた歯車じゃない。自分の頭で考え、自分の手で道を切り拓く」その事実は、彼の心を解き放ち、軽くした。無力感に苛まれていた前世とは違う、確かな手応えが彼を包み込んでいた。


「何も無いというのなら、創ればいい」彼は立ち上がり、目の前に広がる手付かずの楽園を見つめた。「家も、道具も、食料も…全部、この手で創り出してやる」その言葉は、彼の魂からの誓いだった。前世で押し殺していた「理想の世界をゼロから創造したい」という渇望が、今、現実になろうとしていた。


「まずは、この島の探索から始めよう」彼は緑深い森へと、迷いなく歩き出した。どんな危険が潜んでいるか分からない。それでも、彼の足取りは驚くほどに軽やかだった。「どんな困難が待ち受けていても、今の俺ならきっと大丈夫だ」根拠のない自信が、彼の全身に満ち溢れていく。


「理不尽な世界の終わりが、俺の世界の始まりだったとはな」彼は心から楽しそうに呟いた。太陽の光を浴びて輝く木々の葉も、生命を謳歌する鳥たちの歌声も、全てが彼の門出を祝福しているかのようだった。彼はもう、社会の歯車ではない。この忘れられた島で、唯一無二の創造主となるのだ。


「よし、行こう!」彼は力強く、新たな世界へと第一歩を踏み出した。その先には、無限の可能性を秘めた未来が広がっている。「見てろよ。俺だけの理想郷を、必ずこの手で創り上げてみせる!」絶望の果てに掴んだ希望と興奮が、彼の心を赤々と燃え上がらせていた。


色彩を失った世界で一条蓮は死んだ。そして今、この忘れられた島『アルカディア』で、創造主『レン』としての新たな生が産声を上げる。これから始まるであろう彼の伝説は、こうして静かにその幕を開けたのであった。

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