第36話 一人じゃない厨房
約束の月曜日。
僕はクラスのみんなより一足先に、叔父さんの店『トラットリア・ソーレ』の前に立っていた。
定休日である今日、店の前はいつもと違って静まり返っている。
普段ならランチを楽しむ客の陽気な話し声や、カトラリーの触れ合う音、そして厨房から漏れ聞こえる活気で満ちている。
そんなエントランスも、今は照明が落とされ、ただひっそりと静寂に包まれていた。
なんだか、別の店に来てしまったみたいだ。
通用口の鍵を開けて中に入ると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
誰もいない厨房は、ガランとしていて、やけに広く感じた。
いつもは熱気と喧騒、そして様々な食材の匂いが渾然一体となって僕を迎えてくれるこの場所も、今はステンレスの調理台が冷たく光り、静寂が支配している。
冷蔵庫の静かな駆動音だけが、厨房に鳴り響いていた。
本当に、ここで僕一人で、クラスの皆の料理を作るのか……?
急に、現実感が津波のように押し寄せてきた。
僕はこれまで、多人数を相手に料理をしっかりと作ったことがない。
一品や二品ならともかく、コース料理となると、その作業量はとんでもないものになる。
とにかく時間との勝負だ。
僕は自分の調理服に着替えると、気を引き締めるようにパン、と両手で頬を叩く。
まずは、仕込みをしなくちゃ。
叔父さんが市場から仕入れてくれた、新鮮な野菜や魚介類が、冷蔵庫の中にぎっしりと詰まっている。
今日のメニューは、前菜の盛り合わせ、二種類のパスタ、メインの肉料理、そしてデザート。
叔父さんにも相談して、高校生でも楽しめるように、でも、本格的なイタリアンの味も知ってもらえるように、知恵を絞って考えたコースだ。
定番のピッツァがないのも、僕の手が足りない状況を考えて、取りやめた。
調理台に野菜を並べ、包丁を手に取る。
前菜用の野菜のカットから。これからとんでもない量の作業が始まるんだ。
急がないと。
トトトトト……。
リズミカルな音だけが、静かな厨房に響く。
いつも通りの作業のはずなのに、なぜか今日は、包丁を握る手に力が入らない。
――僕の料理は、本当にみんなを満足させられるんだろうか。
ふと、そんな不安が胸をよぎる。
僕の料理の原点は、いつだって透花だ。
彼女が「美味しい」と笑ってくれる顔が見たくて、その一心で腕を磨いてきた。
彼女の好きな味、好きな食感、その日の体調まで考えて、僕は料理を作ってきた。
でも、今日は違う。
食べるのは、透花だけじゃない。
明るくて人気者の三鷹さんや、物静かな榛葉さん。スポーツ万能の高山くんも、お調子者の先崎くんもいる。
味の好みも、食の経験も、みんなバラバラだ。
僕の、透花のためだけを思って作ってきた料理は、果たして他の人たちの舌にも届くのだろうか……?
『お前の料理は、たった一人のために作る料理だ』
叔父さんの言葉が、頭の中で反響する。
あの時は、それでもいいと、そう覚悟を決めたはずだった。
でも、いざこうして一人で厨房に立つと、足元がぐらつくような、途方もない不安に襲われる。
透花は、クラスのみんなに僕の料理を自慢してくれていた。
「守くんの料理は世界一美味しいんだよ」って。
その言葉が、今は重いプレッシャーとなって僕の肩にのしかかる。
もし、みんなが「なんだ、大したことないじゃん」って思ったら?
僕だけじゃない、僕を信じてくれた透花まで、恥をかかせてしまうことになる。
――怖い。
包丁を握る手が、止まっていた。
僕は自分の不甲斐なさに、ぎゅっと唇を噛み締める。
学校での僕は、どこにでもいる平凡な生徒だ。
透花の隣にいる、ただの幼馴染。
学校のアイドルの、たまたま小さな頃から一緒にいた幸運なやつ。
でも、この厨房に立っている時だけは、違う自分でいられると思っていた。
料理が、僕の唯一の武器であり、自信だった。
その自信が、今、揺らいでいる。
僕の料理は、本当に、みんなを幸せにできるのか?
「……弱気になって、どうするんだ」
僕は自分を叱咤するように、呟いた。
そして、目を閉じて、思い浮かべる。
僕のパスタを頬張って、「おいひい!」と幸せそうに目を細める透花の顔。
僕の作ったパンケーキを前に、「お店みたい!」と目を輝かせる透花の顔。
そうだ。
僕の料理は、いつだって、誰かを笑顔にするためにあった。
最初は、透花一人だったかもしれない。
でも、これからは、もっとたくさんの人を。
透花が僕を信じてくれている。
クラスのみんなが、僕の料理を楽しみにしてくれている。
――――その期待に、応えたい。
ううん、応えるんだ。
僕はもう一度、包丁を強く握り直した。
迷いは、まだ胸の奥にくすぶっている。
でも、今はただ、目の前の食材と向き合おう。
僕にできる、最高の料理を作る。
みんなの「美味しい」という喜びのために。
トトトトトトト……ッ!
再び厨房に響き始めた包丁の音は、さっきまでとは比べ物にならないくらい、力強く、そして迷いがなかった。
――ガチャリ。
不意に、背後で通用口のドアが開く音がした。
振り返ると、そこには見慣れた二つの顔があった。
「よお、守。ずいぶん早いじゃないか」
「あ、守くん、おはよー。手伝いに来たよー」
呆れたような、でもどこか誇らしげな笑みを浮かべる叔父さんと、その隣でふんわりと笑う美咲さん。
二人は、僕と同じように調理服に着替えていた。
「叔父さん……美咲さんまで……! どうして……?」
「どうして、じゃねえよ。いくらお前が腕がいいからって、一人で作らせるわけねえだろ。無茶にも程がある」
「私も、駆さんから話を聞いて、いてもたってもいられなくって。守くんの晴れ舞台だもん、手伝わせてよ」
叔父さんがニヤリと笑い、美咲さんが優しく微笑む。
その言葉に、僕の胸の奥から、じわりと温かいものが込み上げてきた。
一人じゃない。
僕の挑戦を、支えてくれる人たちがいる。
さっきまで僕を支配していた途方もない不安が、すうっと霧のように晴れていくのを感じた。
「……ありがとうございます!」
僕が深く頭を下げると、叔父さんは「おう」と短く応え、パン、と手を叩いた。
その音一つで、静まり返っていた厨房の空気が一変する。
「よし、感傷に浸ってる暇はねえぞ! 美咲は前菜とデザートの仕込みを頼む! 守、お前はメインの肉の下準備だ! 俺はパスタソースと全体の指揮を執る! やるぞ!」
「はいっ!」
「はーい、お任せください!」
叔父さんの号令一下、僕たちはそれぞれの持ち場につく。
さっきまであれほど広く、冷たく感じられた厨房が、一瞬にして活気と熱気を取り戻した。
リズミカルに食材を刻む音、鍋が火にかかる音、そして的確な指示を飛ばす叔父さんの声。
いつもの『トラットリア・ソーレ』の光景が、そこにはあった。
一人じゃない。
この心強さがあれば、僕はきっと、最高の料理を作れる。
僕はもう一度、包丁を強く握り直した。
その手にはもう、迷いも不安もなかった。
最高の仲間と共に、最高の舞台で、最高の料理を振る舞う。
クラスの皆のために。
そして何より、誰よりも誇らしげに笑ってくれるであろう、たった一人の、僕のお姫様のために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます