第33話 僕たちは勉強ができない

 どうしよう。

 何か言わないと。でも、何を言えばいい?


 謝るべきか?

 でも、何に対して?

 煽ってきた透花が悪いんだ。いや、それに乗せられた僕が悪いのか。


 思考がまとまらないまま、僕はただ、顔を覆って動かない透花を見下ろすことしかできない。

 彼女の白い首筋や、タンクトップから覗く華奢な鎖骨が、やけに目に付く。


 もう一度、彼女に触れたい。

 さっきみたいに、乱暴にじゃなくて、優しく。


 そんな衝動が、僕の胸の奥から湧き上がってくる。

 ダメだ、これ以上は本当にまずい。


 僕がなけなしの理性を振り絞って、彼女から離れようとした、まさにその瞬間だった。


 ――ガチャリ。


 階下で、玄関のドアが開く音が、やけにはっきりと聞こえた。


「ただいまー。透花、いるー? あら? 守くんも来てるのね」


 それは、聞き慣れた、透花のお母さん――詩乃さんの声だった。

 玄関に靴があるのだから、僕が訪問しているのはすぐに分かることだ。


 僕たちは家族ぐるみで付き合っているから、本来ならば別になんの問題もない。

 自分の娘がベッドで押し倒されているような状況でもなければ……。


「「―――っ!?」」


 僕と透花は、同時にびくりと体を跳ねさせる。

 現実に引き戻された僕たちは、顔を見合わせ、そして一瞬でパニックに陥った。


「や、やばい! お母さん、帰ってきた! どうしよう、守くん!」

「な、なんで今日に限ってこんな早く……!? いつもなら夜勤明けで、もっと遅いはずなのに!」

「僕が知るわけないだろ! とにかく離れて、早く!」


 僕が慌てて透花から飛びのくと、彼女もガバッと体を起こす。

 慌てて椅子に座って、勉強会を続けているポーズを取った。


 心臓はバクバクだし、顔は真っ赤だし、透花の髪の毛は押し倒されたせいで少し乱れていた。


 タンタンタン、と軽やかな足音が階段を上ってくる。

 まずい、まずい、まずい!


 僕たちはアイコンタクトだけで互いの絶望的な状況を確認し、必死に平静を装う。

 僕は教科書の意味不明な数式を睨みつけ、透花はノートに意味のない線を引いた。


「あら、勉強中だったの? お邪魔だったかしら」

「こ、こんばんは、詩乃さん、お邪魔してまーす!」


 ひょこり、とドアから顔を覗かせたのは、白衣ではなく私服姿の詩乃さんだった。

 その目は、看護師長として多くの人間を見てきたであろう、全てを見透かすような鋭さを持っている。


 詩乃さんは、僕たちの姿を上から下までじろりと眺めると、にこり、と完璧な笑みを浮かべた。

 でも、その目は少しも笑っていない。


「……ずいぶん、熱心な『勉強会』みたいね?」


 その言葉に、僕と透花の肩がびくりと跳ねる。

 心臓がバクバクしてて、全身からダラダラと汗が流れた。


「お、お母さん! お、おかえりなさい! 今日は早かったんだね!」

「ええ、急なシフト変更でね。それより透花、あなた髪もボサボサだし、顔も真っ赤よ。守くんも。二人して、そんなに難しい問題と格闘してたの?」


 詩乃さんの視線が、僕が透花を押し倒した拍子に少しだけ乱れたベッドに向けられる。

 僕たちの罪悪感は頂点に達した。


「「私が守くん教えてあげててぼくがとうかにおしえてて!」」

「数学の、超、難、問……があ、って……」

「古典の、助動詞の、活用が……ややこし、く、て……」


 しまった。

 咄嗟に出た言い訳が、見事に食い違った。


 詩乃さんの眉がぴくりと上がる。

 その完璧な笑顔に、うっすらと亀裂が入ったのが見えた。


「へえ? 数学と古典、どっちなのかしら? それに、守くんが透花に教えるの? それとも、透花が守くんに?」

「「ぼ、僕まもるくん透花わたしに数学を!」」


 今度はハモった。ハモってしまった。

 最悪の形で。


 僕が数学を透花に教える……?

 そんなの出来るわけない。


「……そう。守くん、いつの間にそんなに数学が得意になったの? 美沙さんは、あなたの数学の成績のこと、いつも心配してたけど?」

「そ、それは、その……最近、急に開眼したというか! 数学の神が降りてきたというか!」

「神様ねえ……。じゃあ、その神様は、女の子をベッドに押し倒して勉強を教えるのが好きなのかしら? 一体何の数式を教えてあげるのかな?」


 直球。あまりにも鋭すぎる、ド直球。

 僕と透花は「ひっ」と短い悲鳴を上げて、完全に凍り付いた。


「お、押し倒すなんて、そんな、滅相もございません! これは、その、消しゴムがベッドの下に落ちて、それを拾おうとしたら、たまたま、偶然、不可抗力で!」

「そうそう! 私が拾おうとしたら、守くんも同時に拾おうとして、頭と頭がゴッツンコしちゃって! それでバランスを崩して、ベッドに倒れ込んじゃっただけで!」


 透花が必死にフォローを入れるが、それは火に油を注ぐだけだった。


「あらあら、大変だったのね。頭は大丈夫・・・・・? ……でも、それにしては、二人ともずいぶん汗をかいてるみたいだけど。冷房、温度を下げましょうか?」

「だ、大丈夫です! むしろ、勉強に熱中しすぎて、頭が熱くなっちゃって! ね、守くん!」

「そ、そうです! 知恵熱ってやつですかね! あは、あはは……」


 もうダメだ。

 何を言っても墓穴を掘るだけだ。

 僕の乾いた笑い声が、静まり返った部屋に虚しく響く。


 詩乃さんは、はぁ、と深いため息をつくと、呆れたように、でもどこか楽しそうに僕たちを見つめた。


「……まあ、いいわ」


 その一言は、降伏勧告のようでもあり、慈悲深い許しのようでもあった。


「ただし、守くん」

「は、はいっ!」

「うちの娘は、あなたがいないと本当に何もできないんだから。手を出すならちゃんと、最後まで責任、取ってあげなさいよ?」

「せ、責任……」


 そう言って悪戯っぽく笑う詩乃さんの顔は、僕の知っている透花の笑顔と、驚くほどよく似ていた。

 言うことだけ言って、「あー疲れたー」と部屋を出ていく詩乃さんに、もう僕は何も言えず、見送るしかなかった。

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