第30話 守くんがいたから

 撮影スタジオを出ると、六月の生暖かい風が、火照った僕の頬を撫でた。

 空は燃えるようなオレンジ色に染まり、僕と透花の影をアスファルトの上に長く、長く伸ばしている。


 帰り道、僕たちはしばらく無言だった。

 僕の頭の中では、星影綺羅さんの言葉が、何度も何度も反響していた。


 ――彼女の足を引っ張るような真似は、しないわよね?


 あの冷たい声、品定めするような視線。

 そのすべてが、僕の自信を根こそぎ奪い、心を凍てつかせる。


 透花が特別な輝きを持つ女性だ、というのは、幼い頃から嫌と言うほど知っている。

 小さな頃から今まで、ずっと彼女は注目の中心にいた。


 誰もが彼女の輝きに惹きつけられて、自然と夢中になってしまう。

 善性、陽気を帯びた、魔性の魅力を持つ女の子だ。


 綺羅さんが言うように、いずれ透花は世界が放っておかないようになるだろう。

 隣を歩く透花が、心配そうに僕の顔を覗き込んできた。


「守くん……大丈夫? 綺羅先生に、何か言われたの?」

「……いや、なんでもない」


 強がって見せたけど、声は自分でも驚くほど弱々しかった。

 透花は僕の数歩先で立ち止まると、くるりと振り返り、僕の前に回り込んだ。


 そして、まっすぐに僕の目を見つめる。

 夕日を背にした彼女の瞳は、真剣な光を宿していた。


「なんでもなくないでしょ。さっきから、ずっと元気ないし。……私のせい? 私が、守くんを巻き込んじゃったから……」

「違う違う! 透花のせいじゃないよ。本当に」


 僕は慌てて首を横に振る。

 彼女にそんな悲しげな顔をさせたいわけじゃないのに……。


「ただ……綺羅先生の言う通りなのかなって。もしかしたら僕は、君の足を引っ張ってるんじゃないかって……。君はダイヤモンドの原石で、僕はその輝きを曇らせてしまう、将来の足かせになってしまうんじゃないかって……そう思うと怖くなったんだ」


 一度口にすると、心の奥底に溜まっていた澱んだ感情が、堰を切ったように溢れ出した。


「体育祭の時もそうだった。僕が迷ってたせいで、君に怪我をさせかけた。無理をさせて、酷いストレスを与えて、不安にさせてしまってたから……」


 そこまで言って、僕はぐっと言葉を飲み込んだ。

 その先を口にするのが、怖かった。


 僕はもしかしたら、透花の側にいないほうが良いのかもしれない。

 でも、でも僕は…………。


 透花は、僕の言葉を黙って聞いていたが、やがて、ふるふると首を横に振った。


「違うよ」


 凛とした、強い声だった。

 僕は思わず、透花の目を見た。

 

 強い眼差し。誰もが惹きつけられる宝石のような瞳が、まっすぐに僕を見ている。

 思わず沈んでしまっていた気持ちが、奮い立たされた。


「全然違う! 今日の撮影で、私が最高の表情ができたのは、守くんがそこにいてくれたからだよ! 守くんが私を見ててくれるって思ったから、私は安心して、一番素直な気持ちになれたの!」


 透花は一歩、僕に近づくと、僕の両手をぎゅっと握りしめた。

 その手は、少しだけ震えている。


「それにさ、綺羅さんはたしかに私のモデルとしての才能を見つけてくれた、恩人。でもさ、あの人は私のモデルとしての顔しかしらないの。普段の私のだらしなさなんて、全然知らないんだよ? それを知ってるのは、お母さんと守くんだけだもん」

「……うん」

「守くんが今まで私を起こしてくれてなかったら寝坊ばっかりしてただろうし、朝から栄養バランスの整った食事も摂れなかっただろうし、自己管理なんてできない。きっと皆の期待に応えようって、無理をして心も体もボロボロになってたと思う。そんな女の子を、綺羅さんはきっとモデルに誘わない。守くんもそう思わない?」

「そうだと思う……。ものすごく仕事に対して求める水準の高い人っぽいから」

「でしょ? だから、そもそもの前提が違うの。守くんがいたからこそ、私はモデルのお仕事を始められたの。守くんのおかげなんだよ?」

「そう……なのかな?」

「そう! 他でもない私が言うんだから、間違いないよ。本人の言うことなんだから、そこは信じて!」


 ビシッと指を突きつけられ、僕は目を丸くした。

 彼女の言葉は、清らかな水のように乾ききった心に染み渡り、光のように僕の絶望の闇を照らしてしまう。


 そっか、僕は邪魔なんかじゃなかったんだ。

 むしろ、透花にとって、必要な存在だったんだ――。


 僕は深く頷いた。

 現金なものだけど、今は全身に力がみなぎって、自信を持って透花と接することができる。


 僕は透花の目を見た。

 透花も僕の目を見ていた。


 視線が結びついて、もう解けないぐらいに強固に絡み合って。


「分かった。じゃあ僕はこれからもずっと透花のお世話をするよ。朝は起こして、準備を一緒にして、ご飯を作って。……あっ、でも、その……抱き枕にされるのは、ちょっと勘弁してほしいけど」

「~~~~~~~~っ!?」


 思い出したくもない記憶が鮮烈にフラッシュバックし、僕は言葉に詰まる。

 一気に心拍数が跳ね上がり、顔から火が出るかと思うほど熱くなった。


「わ、忘れてよ! あれは事故! ノーカン! ノーカンだから!」

「いや、でも……すごく柔らかくて、温かくて、甘い匂いがして……」


 透花が握っていた手をバッと離した。


 動揺のあまり、思わずとんでもないことを話してしまったけど、吐いた言葉は取り消せない。

 透花も顔をみるみるうちに真っ赤にして、両手をぎゅっと握りしめて、ぷるぷると全身を小刻みに震わせた。


「ばか! エッチ! スケベ! 感想言わないでよ!」

「ご、ごめん! でも、透花が悪いんだからな! あんな無防備に抱きついてきたら……」

「だって、守くんの隣だと安心するんだもん……。それに、守くんもまんざらでもなかったくせに!」

「そ、そんなことない!」

「嘘! じゃあなんで一晩中、私の抱き枕になってたのよ! 抜け出したら良いじゃん!」

「それは透花が離してくれなかったからだろ! 両手両足を絡めて抱きしめてたくせに!」

「知らないしらない! 私寝てたもん!」


 なんだか言い合いをしていてものすごく恥ずかしかったけど、夕暮れの下、僕の心は先程までの冷えを失い、ぽかぽかとした、暖かくて柔らかく、幸せな気持ちでいっぱいだった。



 そうか……。僕は透花の隣りにいて良いんだ。

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