第11話 クッキーはほろ苦かった
それから、透花は紅茶を淹れにキッチンに向かった。
気恥ずかしそうにしていたから、しばらく落ち着く時間も必要だろう。
とはいえ、不安もある。
透花にキッチンを任せて大丈夫かなあ……。
部屋の中にペットボトルがあったように、普段の透花は、自分の飲み物も自分で淹れていないのだ。
悪い予感が的中したようで、すぐにガチャン! と何かを倒す音と、透花の短い悲鳴が聞こえてきた。
「きゃっ!?」
「大丈夫か!?」
「あー、も~、サイアク……」
慌てて一階に降り、キッチンへ駆けつけると、視線の先には、床に座り込んでしまった透花がいた。
どうやら紅茶に入れようとしたミルクを取りそこねて、こぼしてしまったらしい。
白い液体が床に広がり、彼女の足元を濡らしている。
「ほんっと、私ってどうしてこんなにも、家の事
それだけじゃない。
透花の顔にも、着ていたTシャツにも、ショートパンツにもミルクが飛び散っていた。
濡れたシャツが、透花の豊満な胸のラインにぴったりと張り付き、その形をありありと浮かび上がらせている。
布地が透けて、下に着ている淡い色のブラジャーがうっすらと見えていた。
鎖骨の窪みに溜まったミルクが、一筋の雫となって、豊かな谷間へとゆっくりと流れ落ちていく。
その光景は、あまりにも扇情的で、僕は思わず息を呑んだ。
「大丈夫、透花!? ケガはない?」
「う、うん……ごめん、びっくりしただけ……」
透花は顔を真っ赤にして、濡れたシャツを気まずそうに手で隠す。
その仕草が、かえって僕の視線を彼女の胸元へと引き寄せてしまう。
そして、そんな自分の反射的な反応に気付いた。
「……っ、ごめん」
「ううん、ミスしちゃった私が悪いから」
僕は慌てて目を逸らし、乱暴にキッチンペーパーを千切って手に取った。
心臓が、さっきよりもずっと速く、大きく脈打っているのが分かった。
キッチンペーパーを手渡し、テーブルに置かれていた布巾を手に取る。
透花は慌ただしくペーパーで体を拭った。
「ここは僕が掃除しておくよ。透花は着替えてきて」
「ご、ごめんね、すぐに着替えてくるね……!」
「ゆっくりでいいから、落ち着いて」
透花はそう言うと、慌てて階段を駆け上がっていく。
また今度は転んだりしないだろうな。
僕は布巾で飛び散ったミルクを拭き取り始めた。
だけど、頭の中はさっきの光景でいっぱいだった。
濡れたシャツに張り付いた、豊満な胸のライン。
透けて見えた淡い色のブラジャー。
そして、鎖骨から谷間へと流れていった、一筋のミルクの雫……。
……ダメだ、忘れろ、忘れるんだ!
ぶんぶんと頭を振って雑念を追い払おうとするが、一度焼き付いた光景は、そう簡単には消えてくれない。
むしろ忘れようと思うと、かえって記憶が蘇ってしまう。
いつも身近にいて、そこにいるのが当たり前の存在で、まるで兄妹のように考えていたんだけど。
あんな……。
あんなに大人っぽい女の子になってたんだな。
「僕って最低だ……」
透花とはそういう関係じゃないのに。
顔が熱くて、火傷しそうだったのが、余計にいまは心を滅入らせた。
掃除を終えて、紅茶と砂糖、ミルクポーションをトレイに載せて、階段を上る。
気持ちを切り替えようと、深呼吸をして落ち着かせる。
一応部屋に入る前にノックをすると、すでに着替えを済ませていたのか、入室の許可が出た。
「本当にケガはない?」
「うん、大丈夫。心配かけてゴメンね」
「いや、大丈夫なら良いんだ」
部屋に入ると、透花はすでに着替えを済ませていた。
今度は、薄いピンク色のタンクトップに、白いショートパンツという、とてもシンプルなコーディネートだった。
タンクトップは、さっきのTシャツよりも薄手で、透花の鎖骨や肩のラインが美しく浮かび上がっている。
ショートパンツは膝上まであり、こちらはさっきよりも露出は控えめ。
髪は軽く結び直され、さっきの慌てた様子はすっかり消えていた。
それでも、頬にはまだ少し赤みが残っていて、恥じらいが残っているのが分かり、少し気まずい。
「着替え、早かったね」
「うん、すぐに済ませたよ。……さっきは、ごめんね」
「いいよ、気にしないで」
透花は少し照れくさそうに微笑み、僕の前に座った。
今度は、さっきのようなハプニングは起こらないだろう。
すぐに勉強を再開しよう、という雰囲気ではなくなってしまった。
休憩用に持ち込んでいたおやつを出すことにする。
「紅茶、淹れてくれてありがとう。ほら、おやつ。これでも食べて元気出して」
「わ! クッキー! やった!」
「トラットリア・ソーレのやつ。僕も仕込みを手伝ったんだ」
「おおっ、守くんもバイト先で頑張ってるんだねえ」
「まだまだ下働きばっかりだけどね」
さっきまでの落ち込みが嘘のように、透花の顔がパッと輝く。
あるいは、意識的に元気にしようとしているだろう。
僕は紅茶を二つのカップに注ぎ、リュックからクッキーの入ったタッパーを取り出して、皿に並べた。
トラットリア・ソーレでは、
特に食後のドルチェは最高に美味しく、バターたっぷりのクッキーはサクサクとした食感と、口の中ですぐにとろける絶妙な焼き加減で、すごく美味しい。
この前のバイトでは大量の小麦粉と砂糖とバターとを運んでいた。
次の日に全身の筋肉痛でひどい目にあったけど、そのかいがある美味しさだと思う。
「んー、美味しい! このサクサク感とバターの香り、最高!」
「それは良かった。僕の苦労もちょっとは報われるってものさ」
美味しそうにクッキーを頬張る透花を見ていると、僕まで嬉しくなる。
「守くんは、このままシェフを目指すの?」
「どうだろう。まだ分からないかな……」
トラットリア・ソーデで修行を続ければ、間違いなく腕は磨けるだろう。
だけど、本当にそれが自分の進みたい道なのか、と言われれば、まだ確信は持てていない。
別の仕事の道もあるんじゃないか。
あるいは、イタリア料理ではないのではないか。
父の跡を継ぐという方向性もある。
それとも、透花の側にずっといて、彼女を支える?
そういう迷いがまだ残っていた。
僕の料理の原点は、いつだって透花だ。
彼女に「美味しい」と笑ってもらいたい。その一心で、包丁を握り、フライパンを振ってきた。
叔父さんの店で腕を認められるのも、先輩に褒められるのも、もちろん嬉しい。
でも、心のどこかで、それは全部「透花を喜ばせるためのスキル」の延長線上にあるように感じてしまう。
もし、透花がいなかったら?
僕は、ここまで料理に夢中になっていただろうか。
学校では平凡で、特に秀でたところもない僕が、唯一輝ける場所。
それが、ポンコツな彼女の世話を焼いている時だ。
彼女にとって、僕は「唯一無二の存在」でいられる。
だから、透花の「専属シェフになってくれないかなあ」という言葉は、麻薬みたいに甘く、僕の心を痺れさせた。
世界で一番嬉しい言葉かもしれない。
でも、結局のところ、僕は透花に喜んでもらえるなら、何でも良かったんじゃないか、という迷いが捨てきれない。
もし、僕が料理以外の道を選んだら。
透花との今の関係は、きっと変わってしまう。
彼女の隣にいる理由を、僕は失ってしまうかもしれない。
それが、怖い。
僕にとって透花の世話は、生きがいだ。
でも、僕たちの関係が一生続くとは限らない。
今までの一七年ぐらい、ずっと僕たちは隣同士で生きていくことができた。
この幸運はいつまで続くのだろう。
「……守くん?」
「ううん、なんでもない。さあ、勉強を頑張ろう!」
そう思うと、甘いはずのクッキーが、どこかほろ苦く感じた。
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