第38話 不協和音

 日本アルプスの雪深い山中。ウロボロス基地『パンデモニウム』周辺。

 時刻は深夜。


 世界は、白と黒の二色だけで構成されていた。

 どこまでも続く深い雪の白と、月明かりに照らされた、凍てついた木々や岩の黒。

 ゴーッ、と獣の咆哮のような吹雪が吹き荒れ、少女たちの体温を容赦なく奪っていく。空気は刃物のように冷たく、息を吸い込むたびに肺が凍りつくかのようだった。

 辺りに響くのは、木々が凍てつきパキリと軋む音と、吹き荒れる風の音だけ。


 その極寒の銀世界に六つの影があった。

 二つのチームはそれぞれ、周囲の雪に完全に溶け込む、白を基調とした雪上ステルス戦闘服に身を包み、最終潜入ポイントへと到着していた。ゴーグルとフェイスマスクでその表情をうかがい知ることはできない。


 響カナデたちが最後の装備確認を終えると、二つのチームは、無言のまま互いに視線を交わした。

 その視線が交差した瞬間、カナデと剣崎リンの間に、見えない激しい火花が散る。

 互いのやり方、互いの信念、その全てを懸けた戦いが、今始まろうとしていた。


 リンが妹のリナにだけかすかに頷く。カナデもまた、自らのチームに視線だけで合図を送った。

 そして、二つのチームは、それぞれ正面ゲートと南側シャフトへと、闇に溶けるかのように、姿を吹雪の中へと消した。

 数秒後、そこには降り積もる雪にすぐに掻き消されていく、真新しい足跡だけが残されていた。


 ◇


 基地の正面ゲートへと向かったリンとリナは、まるで吹雪そのものに溶け込むかのように、雪を踏む音さえ立てずに、目標へと接近していた。

 彼女たちの目の前に広がるのは、鉄壁の警備網。

 雪の中に無数に埋め込まれた感圧式のモーションディテクター、吹雪の中でも侵入者を正確に捉える赤外線センサー、そして、獲物を見つめる獣のように静かに佇む、複数の自動迎撃タレット。


 だが、その完璧な布陣も、二人の前では無意味だった。


 まず、動いたのは妹のリナ。彼女は、氷上の妖精が舞うように、音もなく雪の上を滑る。そして、雪の中に隠されたモーションディテクターの、髪の毛のように細い光ファイバーケーブルを、抜き放った小太刀の一閃で、寸分の狂いもなく切断した。

 警備システムに、コンマ一秒にも満たないラグが生まれる。

 その一瞬を、姉のリンは見逃さない。

 彼女は、システムの死角を突き、吹雪に紛れて警備兵の背後に回り込むと、抜き放った大太刀の峰で、その首筋を正確無比に音もなく打ち抜いた。

 雪の中に静かに崩れ落ちる人影。


 その完璧な戦果は、遠く離れたBチームの戦術モニターにも、緑色のテキストとしてリアルタイムで表示された。


【Aチーム:エリアA1の警備網を無力化】


 黒羽シズクは、データパッドに表示されたそのテキストを無表情のまま一瞥した。

 そして、目の前の錆びついた鉄のハッチへとその視線を戻す。

 コンペイトウの、完璧でスマートな戦果。

 それとは対照的に、Bチームの進軍は困難を極めていた。


 彼女たちが進むのは、何十年も前に廃棄された古いメンテナンスシャフト。

 カナデと協力して、凍り付いた重いハッチをこじ開けた先は、錆と氷に覆われた、大人一人がやっと通れるほどの、狭く暗い鉄の胎内だった。

 かび臭い淀んだ空気。壁や天井からは、絶えず氷の溶けた冷たい水滴が滴り落ちてくる。


 先頭を行くシズクが、手にしたセンサーで旧式のトラップの有無を慎重に確認し、カナデが、それに続く。

 その後ろで、小鳥遊ツムギは、必死に二人の後を追っていた。

 このどこまでも続くかのような閉鎖的な空間。

 壁が、天井が、自分に迫ってくるような圧迫感。それは、渋谷で瓦礫の闇に埋まった時のトラウマを、容赦なく刺激した。


(大丈夫、大丈夫……)


 彼女は、何度も、心の中でそう繰り返す。荒くなりそうな呼吸を必死に整え、ただ、前を行くカナデの背中だけを見つめていた。


 そしてその最後尾を、白雪ふわりが、退屈そうに、しかし猫のように静かな足取りでついてきていた。

 この息が詰まるような暗闇も、張り詰めた緊張感も、彼女にとっては、何の興味も惹かれない、ただの退屈な移動時間でしかないようだった。


 錆び付いた梯子を一段ずつ慎重に降り、凍てついた通路を、息を殺しながら進むBチーム。

 そのあまりにも遅い進軍の最中、無機質な電子音と共に、Aチームからの新たな戦果報告が、ディスプレイに表示される。


【Aチーム:第2警備区画を突破】


 その緑色のテキストを、ツムギはすぐ前のカナデの肩越しに見てしまった。

 自分たちが、まだこの古いシャフトから抜け出せずにいる間に、彼女たちはもう第二警備区画を……?

 そして息つく間もなく、次の報告が届く。


【Aチーム:中央エレベ-ターの制御を掌握】


 無駄がなく、あまりにも速い。完璧なAチームの戦果。

 それを見るたびに、ツムギの心は、会議の後に剣崎リナに囁かれた、あの言葉に苛まれていく。


『Bチームは大変そうですね』


 あの時の、天使のような笑顔。それは、同情や気遣いなどではなかった。

 まるで、最初から、こうなることが分かっていたかのような。

 自分たちの、この泥臭い無力さを嘲笑うかのような声が、ツムギの頭の中に何度も響いていた。

 焦りと劣等感が、冷たい鉄のように彼女の心をじわじわと蝕んでいく。


 そんなツムギの心の揺らぎを知ってか知らずか、Bチームは、このルートで最も危険な障害ポイントへとたどり着いた。

 通路が途中で大きく崩落している。瓦礫の山を乗り越えた先は、むき出しになった高圧電流ケーブルが、火花を散らしながら蛇のように垂れ下がっていた。


「うわ……」

 ツムギが息を呑む。だが、カナデはその危険な光景を前に、怯むどころか、逆に、にっと、不敵な笑みを浮かべた。


「ここは危ないから、私が先に行くね!みんなはここで待ってて!」


 仲間を守るため自らがリスクを負おうとする、いつもの彼女の自己犠牲的な行動。

 普段のツムギであれば、その勇敢さに感謝と尊敬を覚えたはずだった。

 だが、今の彼女の耳には、その言葉は、無謀な、非効率な響きに聞こえてしまった。

 リナのあの天使のような笑顔と、毒のような言葉が脳裏をよぎる。


 ―――カナデ先輩って、優しいけど、ちょっと危なっかしいところがあるから。

 ―――あなたが盾になって、しっかり支えてあげないと、ですね。


 カナデが一歩踏み出そうとした、その時だった。


「ま、待ってください、カナデ先輩!」


 ツムギがこれまでにはなかった鋭い声で、彼女を制止した。


「それは、あまりに危険です!シズクさん、もっと安全な方法は……!」


 リナに植え付けられた毒――「カナデ先輩は、危なっかしい」。

 その言葉が、ツムギの口から、無意識のうちに、仲間への不信として初めて形になった瞬間だった。

 カナデは驚いたように大きく目を見開いて、ツムギの顔を見る。

 黒羽シズクはそのやり取りを、無言のまま鋭い視線で見つめていた。

 狭く暗い通路の中、チームの間に、微妙な不協和音が重く響き始めた。

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