第19話 霧滲みの橋
黒羽シズクは、部屋の中央にあるアンティークのローテーブルに、小型のデバイスを置く。
デバイスから放たれた光が、空中に精巧なプラハ市街の立体地図をホログラムとして投影した。ハイテクな光の粒子が、古い木製の家具の上で静かに瞬いている。
シズクは、ホログラムに浮かび上がったカレル橋の模型を、指先で拡大する。
「これより、作戦概要を説明する。目的は、ウロボロスの幹部――コードネーム『レイヴン』が、今夜、カレル橋中央で受け取るデータチップの確保だ」
彼女は、地図上のアイコンを動かしながら、各員の役割を簡潔に、しかし有無を言わさぬ口調で告げていく。
「私はここ。旧市街側の時計塔に潜伏し、全体の指揮と狙撃援護を担当する」
時計塔のモデルが、赤く点滅した。
「マカロン。お前は観光客を装い、ターゲットに最も近いポイントP3で待機。取引の瞬間、私の合図で対象を確保しろ。お前が、この作戦の刃だ」
カナデのアイコンが、橋の中央付近に表示される。
「ビスケット。お前はマカロンの後方、ポイントP5に。役割は、周囲の警戒と、万が一の際の民間人保護、及び離脱経路の確保。『クラムル・ガード』は、そのためにあると思え」
ツムギのアイコンが、カナデを援護する位置に灯る。
最後に、シズクの鋭い視線が、カナデの腕に抱きついたままのふわりに向けられた。
「ゼリー。お前は中央の聖ネポムツキー像の根本で待機。敵の増援や、我々の手に負えない例外に備えるための保険だ。だが、マカロンによる直接の許可なく、いかなる戦闘行動も禁じる。これは、絶対命令だ」
シズクの冷静な説明が終わると、部屋に再び沈黙が落ちた。
ふわりは、シズクの方を見向きもせず、カナデの顔を見上げて、こてん、と首をかしげた。
「カナデの命令なら、いいよ」
ただそれだけを呟くと、満足そうに、カナデの服の袖をぎゅっと掴んで離さない。
ツムギは、自分に与えられた「民間人の保護」という、重い役割を反芻し、乾いた喉をごくりと鳴らした。
ブリーフィングが終わり、チームはそれぞれ変装を済ませ、別々のルートでカレル橋へと向かう。アパルトマンの重い木製の扉を開けると、黄昏時のプラハの空気が、ひやりと彼女たちの肌を撫でた。
◇
石畳の路地は、夕立に濡れてしっとりと黒光りしている。道の両脇に並ぶ歴史ある建物からは、温かいオレンジ色の光が漏れ、どこからか、哀愁を帯びたヴァイオリンの音色が聞こえてくる。鼻をくすぐるのは、焼き菓子のシナモンが焦げる甘い香り。
その美しい異国の街並みを、少女たちはそれぞれの思いを胸に歩いていく。
カナデは、流行のトレンチコートを羽織り、快活な旅行者を完璧に演じていた。時 折、珍しい建物を指さしては、隣を歩く白雪ふわりに何かを話しかけている。
そして、そのふわり。彼女は、与えられた役割を演じることさえしない。純白のゴシックロリタドレスのまま、まるで観光名所へ散歩に行くかのように、嬉しそうにカナデの手を固く引いて歩いている。その姿は、あまりにも周囲から浮いているが、それ故に奇妙なほど街の幻想的な雰囲気に溶け込んでいた。
ツムギは、そんな二人の数歩後ろを、大きなマフラーで顔の半分を隠しながら、足早についていく。彼女の目には、プラハの美しい街並みなど、ほとんど映っていない。雑踏は、敵が潜む障害物にしか見えず、古い建物の深い影は、不気味な口を開けているように感じられた。
すでにシズクの姿はどこにもない。彼女は、ブリーフィングが終わると同時に、まるで街の影に溶けるかのように、音もなく消えていた。
やがて、カレル橋の袂にたどり着く。カナデは、ツムギにだけ聞こえるように、そっと囁いた。
「大丈夫。シズクが、全部見ててくれるから」
その言葉に小さく頷くと、ツムギは一人、橋へと向かう人の波に紛れていった。
これから始まる任務の、重い緊張感とは裏腹に、プラハの夜は、どこまでも美しかった。
ヴルタヴァ川から立ち上る湿った霧が、ガス灯の光を柔らかく滲ませている。ツムギは、橋の上を行き交う大勢の観光客の流れに身を任せながら、指定されたポイントへとたどり着いた。
周囲からは、様々な言語の楽しげな会話や、ストリートミュージシャンの奏でるアコーディオンの音色が聞こえてくる。あまりにも平和なその光景が、逆にツムギの緊張を煽った。
彼女は、寒さを紛らわすふりをして、ホットワインを売る小さな屋台で一杯のカップを受け取ると、その温かさでかじかんだ指先を暖めながら、そっと周囲をうかがう。
視線の先、橋の欄干には、カナデが寄りかかっていた。彼女は、高性能カメラを手に、霧の向こうに浮かび上がるプラハ城の夜景にレンズを向けている。その姿は、どこからどう見ても、一人旅を楽しむ快活な観光客にしか見えない。
だがツムギには分かっていた。あのカメラのシャッターが切られるたびに、高性能スキャナが、橋の上の人間たちの生体データや通信記録を、密かに収集しているのだということを。
そして、さらにその奥。
橋の中央に立つ、有名な聖ネポムツキー像の台座に、白雪ふわりはちょこんと腰掛けていた。
純白のドレスをまとった彼女は、まるで本当に石でできた人形のように、微動だにしない。その異様なほど完璧な静寂は、かえって人々の目を引いていた。物珍しそうに遠巻きに眺める者、芸術的な大道芸人だと思って、カメラを向ける観光客もちらほらといる。
盤上の駒は、全て配置についた。
ツムギが、ごくりと息を呑んだ、その時だった。
『全ユニット、配置完了』
耳元の、骨伝導式の極小通信機から、黒羽シズクの冷静な声だけが、クリアに響いてきた。時計塔の頂点、闇に潜む狙撃手の声だ。
『――作戦を開始する』
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