第11話 一撃の現実
ツムギの心がゆっくりと麻痺していく。
その一部始終を、VRシミュレーション室に隣接した、薄暗いモニタリングルームから、二つの影が見つめていた。
部屋を支配しているのは、壁一面に広がる巨大なホログラフィック・スクリーン。
そこには、シミュレーション内のビスケットの主観映像、彼女の心拍数や脳波を示す無数のグラフ、そして、白い部屋で何度も倒れ、何度も立ち上がる少女を映す客観映像が、無慈悲に映し出されている。
「……もう、やめてください」
最初に沈黙を破ったのは、カナデだった。
彼女は、スクリーンの中で虚ろな目をしたツムギから視線を外し、隣の司令官席に座るチグサを、食ってかかるような勢いで見つめた。
「司令!これでは彼女が壊れてしまいます!ただの訓練ではありません、これは拷問です!」
カナデの声には、抑えきれない怒りと、ツムギの痛みと共鳴するかのような、悲痛な響きが混じっていた。
だが、チグサはスクリーンから一切目を離さない。その横顔は、まるで美しい氷の彫刻のように、何の感情も浮かべていなかった。
「感傷か、マカロン」
やがて返ってきたのは、温度というものを全く感じさせない平坦な声だった。
「お前がこれまで戦場で垂れ流してきた寿命の大半は、その不必要な感傷のせいだぞ」
その言葉は、鋭利な刃物となってカナデの心を抉った。
「彼女に必要なのは、慰めや同情ではない。死なないための技術と、痛みに慣れるための精神だ。お前のように、感情のままに命を削る出来損ないにしないために、私は今、彼女を教育している」
チグサは、そこで初めて、その氷のような灰色の瞳をカナデへと向けた。
「黙って見ていろ。それが、お前の任務だ」
有無を言わさぬその言葉に、カナデは唇を噛み締め、悔しさに俯くことしかできなかった。スクリーンの中では、また一体のアンドロイドが、心を失ったツムギへと、その銃口を向けていた。
もう、何十回目になるだろうか。
ツムギの心は、完全に無感覚な沼の底に沈んでいた。目の前のアンドロイドが銃を構える。また、あの痛みが来る。また、殺される。それを、ただ待つだけ。
アンドロイドの銃口が青白く発光し、 仮想の死の瞬間が迫る。
その、刹那だった。
ツムギの中で、何かが、ぷつりと音を立てて切れた。
それは、ただひたすらに、これ以上痛めつけられたくないという、魂の奥底からの、原始的な叫びだった。
「―――やめて」
呟きは、ほとんど音にならなかった。
「やめてぇぇぇぇぇっ!」
絶叫と共に、ツムギは目を固く閉じ、床に転がっていた訓練用のライフルを、やみくもに拾い上げて引き金を引いた。
重い銃が、ガクガクと腕の中で暴れる。狙いなど定めていない。
痛みの根源を拒絶したい一心で、彼女は弾丸の代わりに電子信号を乱射した。
その、偶然の弾幕の一発が。
奇跡的に、アンドロイドの頭部にある、単眼の赤い光学センサーを正確に捉えていた。
パシュン、という軽い音と共に、アンドロイドのセンサーがデジタルノイズの火花を散らして砕け散る。巨体は、動きを止めたまま硬直し、やがて、シミュレーション空間に合成音声が響き渡った。
『ターゲットを無力化』
モニタリングルームで、カナデが「あっ」と息を呑む。チグサの灰色の瞳が、初めて興味深そうに、わずかに細められた。
だが、ツムギに勝利を噛み締める暇はなかった。シナリオ通り、すぐそばに潜んでいたもう一体のアンドロイドが、即座に彼女の腕を撃ち抜く。
「きゃあっ!」
凄まじい電撃が走り、ツムギはライフルを取り落として腕を押さえた。
もちろん、現実の腕に傷はない。だが、新宿での記憶と、繰り返された訓練による激痛が、彼女の脳に焼き付いた呪いを呼び覚ます。
ツムギは、存在しないはずの傷口に、あの乾いた熱が発生するのを、確かに感じていた。
皮膚の下で、ざらついたビスケット生地のような組織が形成され、傷を塞いでいく。幻の再生。現実ではない。だが、その感覚だけは、どこまでもリアルだった。
『目的、一部達成。生存本能、起動を確認。訓練プログラム、フェーズ1を終了』
無機質な合成音声が訓練の終わりを告げると、新宿の喧騒は嘘のように消え去り、世界は再び、ただ真っ白な壁へと戻った。
ツムギは、床に座り込んだまま、呆然と自らの手を見つめていた。幻の痛みが走った腕、そして、引き金を引いた指。これが、これからの自分の現実。
その時、ゴウンという重い音と共に、シミュレーション室の扉が開いた。
「ツムギちゃん!」
駆け込んできたのは、心配そうな顔をしたカナデだった。彼女はツムギの隣に膝をつき、その肩をそっと支える。
「大丈夫!? しっかりして!」
その声も、今のツムギにはどこか遠くに聞こえた。
その瞬間だった。
ピピッ、という鋭い電子音と共に、基地のメイン回線に優先通信が入る。モニタリングルームの巨大なスクリーンが自動で起動し、二人の少女の顔を映し出した。
片方は、凛とした顔立ちに、黒髪をポニーテールに結い上げた、武人のような少女。背景から、輸送機の中のようだ。
『こちらコンペイトウ。欧州でのウロボロス幹部の確保、完了した。これより帰投する』
もう片方の映像は、少し乱れていた。雪のようなプラチナブロンドの髪を持つ、人形のように整った顔立ちのツムギより幼く見える少女。だが、その頬には黒いオイルか血のようなものが付着している。
彼女は、コンペイトウの報告などまるで聞いていない様子で、スクリーンの隅に映り込んだ映像――カナデに支えられ、ぐったりとしているツムギの姿――を、血のように赤い瞳でじっと見つめていた。
やがて、その人形のような顔に、無邪気な笑みが浮かぶ。
幼い子供のような、甘く、しかしどこか歪んだ声が、スピーカーから響き渡った。
「カナデ。新しいおもちゃ、もう壊れちゃったの?」
おもちゃ。
その残酷な言葉が、兵器として生まれ変わり、疲れから意識が薄くなりつつあるビスケットの耳に虚しく響いていた。
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