第5話 再生による崩壊

 ツムギは、ただ無我夢中で走った。

 どのくらい走り続けたのか、どこをどう通ったのか、全く覚えていない。

 気づけば、彼女は病院とは全く違う街の、巨大なターミナル駅の前に一人、呆然と立ち尽くしていた。

 新宿。空には特徴的な都庁のシルエットが浮かび、夕暮れの光が摩天楼のガラスに反射してきらめいている。足元では、帰路につく人々の忙しない流れが、彼女を何度も押し退けていく。


(家に、帰れない……)


 自宅は、あの少女――カナデに知られてしまった。きっと、もう普通には戻れない。


(警察も、信じられない……)


 もし、あの少女の話が本当なら? 警察に駆け込んでも、話を聞いてもらえないどころか、もっと厄介なことになるかもしれない。

 裸足のまま、ボロボロの姿で雑踏の中心に佇むツムギ。行き交う人々は奇異の目を向けるが、誰も助けてはくれない。彼女は、この人口1000万を超える巨大都市の真ん中で、完全に孤立していた。


 その彼女を嘲笑うかのように、街が再びその表情を変えた。


 ウウウウウウゥゥゥゥ―――――ンンン。


 空気を震わす、不快な警報音。新宿駅前の巨大なクロスビジョンが、渋谷の時と同じように、突如として砂嵐模様に切り替わる。そして、深紅色のウロボロスの紋章が、巨大なスクリーンいっぱいに映し出された。

 渋谷の時とは違う。今回は、無差別な破壊ではない。


 ガシャン! ガシャン!

 駅の出入り口や、大通りを封鎖するように、地面から分厚い金属製のシャッターが次々とせり上がってくる。周囲を走っていた自動運転車は一斉に機能を停止し、無秩序なバリケードを形成した。

 祝祭のようだった街は、一瞬にして巨大な“檻”へと姿を変えた。


「な、なんだ!?」

「テロか!」


 閉じ込められた人々がパニックに陥る中、空から複数の影が落ちてくる。大型のカーゴドローンから投下されたのは、人間ではない。黒光りする装甲に、単眼の赤い光学センサーを持つ、無慈悲な形状の戦闘アンドロイドの群れだった。

 彼らは着地の衝撃をものともせず、即座に隊列を組むと、合成音声で冷たく告げた。


『エリアを封鎖した。これより処分対象の捜索を開始する』


 処分対象――その言葉が、ツムギの心臓を氷の矢のように貫いた。

 間違いない。この悪夢は、私を追ってきたんだ。


「いやあああ!」


 ツムギは悲鳴を上げ、人々の流れに逆らうようにして、近くにあった地下街へと続く階段へと駆け込んだ。コンクリートの壁に身を寄せ、息を殺す。

 地上では、アンドロイドたちが赤いセンサーを光らせながら、逃げ惑う人々の顔を一人、また一人とスキャンしていく。

 網は、確実に狭まっていた。

 もう、どこにも逃げ場所はない。絶望が、ツムギの心を黒く塗りつぶしていった。


 ツムギは地下街へと続く階段のコンクリートの壁に身を寄せ、ただ小さく震えることしかできなかった。冷たい壁の感触だけが、かろうじてここが現実であることを伝えてくる。

 地上から聞こえてくるのは、断末魔のような悲鳴と、金属的な破壊音。


 彼女が隠れている階段の入り口から、地獄が見えた。

 戦闘アンドロイドたちは、もはや捜索などしていなかった。封鎖されたエリアからの脱出を試みる民間人を見つけては、容赦なく鎮圧用の電磁パルス弾を撃ち込み、抵抗する者には実弾を撃ち込むことさえ躊躇しない。自動運転の車が玩具のように吹き飛ばされ、ファッションビルのショーウィンドウが粉々に砕け散る。


(これが……カナデさんの言っていた、戦い……)


 あの病院で語られた、非現実的な物語。それが今、目の前で繰り広げられている。人ではない何かが街を破壊し、人がゴミのように死んでいく。そして、その全ての元凶は、ここに隠れている自分なのだ。

 ツムギは絶望と共に、しかしどうすることもできず、その光景をただ観測していた。


 その時だった。一体のアンドロイドが、規則的な索敵パターンから外れ、ツムギが隠れる階段の暗闇へと、その赤い単眼を向けた。

 ツムギの心臓が、大きく跳ねる。

 見つかった。

 アンドロイドは機械的な足音を立て、一歩、また一歩と、ツムギのいる場所へと近づいてくる。ツムギは息を止め、金縛りにあったように動けない。

 アンドロイドが階段の真上に立ち、ツムギの姿を完全に捉える。その腕に装着された銃口が、青白い光を帯び始めた。

 ――死ぬ。


 その瞬間。


 キィィン、と空気を引き裂く甲高い飛翔音が響き、次の刹那、アンドロイドの頭部が火花と砕けた部品のシャワーを撒き散らして爆散した。

 頭部を失った機体は、数秒間けいれんするように立ち尽くし、やがて糸が切れた人形のように、大きな金属音を立てて階段を転がり落ちてきた。


 何が起きたのか理解できず、呆然とするツムギ。

 答えは、遥か彼方にあった。

 ここから1キロ以上離れた、超高層都庁ビルの屋上。降り始めた冷たい雨に濡れながら、一人の少女が巨大な対物ライフル「カカオ70」を構え、微動だにせずに横たわっていた。

 黒羽シズク。コードネーム、チョコレート。

 彼女はカナデとは別に、ツムギの逃走パターンとウロボロスの戦力投入地点を予測し、とっくにこの完璧な狙撃ポイントに布陣していたのだ。

 スコープ越しに、冷静な瞳が次のターゲットを捉える。


 引き金を引く。遠く離れた新宿の街角で、また一体のアンドロイドが爆散する。

 シズク対テロリスト部隊。鋼鉄の狙撃手による、一方的な蹂躙が始まった。


 遥か彼方から飛来する死の弾丸。それに呼応するように、地上では鋼鉄のアンドロイドが次々と爆散していく。

 一人の少女が、あの機械の軍勢を相手に、たった一人で渡り合っている。

 ツムギは恐怖に震えながらも、そのありえない光景にわずかな希望を見出しかけていた。あの人も、病院にいたカナデという少女も、自分を助けようとしてくれているのかもしれない、と。


 だが、その淡い期待は、数の暴力によって無慈悲に打ち砕かれる。

 シズクの狙撃は正確無比だが、敵のアンドロイドは二十体以上もいる。一体を破壊しても、すぐに別の機体がその穴を埋め、隊列を組み直して前線を押し上げてくるのだ。


 やがて、シズクの狙撃を警戒してか、一体のアンドロイドが車両の影に隠れながら、ツムギが潜む階段の方へと照準を合わせた。直接の射線が通らないと判断したのだろう、その肩部のハッチが開き、小型のグレネードランチャーが姿を現す。


「……!」


 ツムギがそれに気づいた時には、もう遅かった。

 跳弾して飛来した黒い塊が、階段の入り口付近のアスファルトに、カツン、と乾いた音を立てて転がる。

 ツムギの思考が、完全に停止した。


 次の瞬間、世界から音が消え、閃光が全てを白く塗りつぶした。


 凄まじい衝撃波が、ツムギの華奢な身体を紙屑のように吹き飛ばす。踊り場の硬いコンクリートの壁に全身を叩きつけられ、肺から全ての空気が絞り出された。

 一瞬の無音の後、耳の奥でキーンという甲高い金属音が鳴り響く。何が起きたのか分からないまま、ずり落ちるように床に崩れた。


 そして、遅れてやってきた灼熱の痛みが、彼女の意識を覚醒させる。

 背中と、左足。火箸を突き立てられたかのような、激しい痛み。


「あ……ぅ……」


 呻き声を漏らし、恐る恐る自分の足を見る。制服のスカートは無残に引き裂かれ、太腿には鈍く光る金属の破片が深々と突き刺さっていた。

 そこから溢れ出したおびただしい量の血が、あっという間にコンクリートの床に黒い水たまりを作っていく。


 血の気が引き、指先の感覚がなくなっていく。視界が、急速にぼやけていった。

(あ……しぬ……んだ……)

 死ぬ。その事実を、ツムギは静かに受け入れようとしていた。


 だが、彼女の身体は、それを頑なに拒絶した。

 瓦礫の下で経験した、あの忌まわしい感覚が蘇る。傷口の奥深くから、生命の営みとはかけ離れた、乾いた熱が発生したのだ。

傷が、熱く脈打っている。


「ぁ……あ……」


 声にならない呻きが漏れる。ツムギは、信じがたい光景を目の当たりにした。太腿に突き刺さっていた金属の破片が、まるで異物を拒絶する身体の働きのように、じわり、じわりと、内側から押し出されてくる。

 そして、破片が抜け落ちた穴を埋めるように、引き裂かれた皮膚と筋肉が、異様な組織で覆われていく。それは血の通った肉ではない。水分を失い、脆く焼き固められたビスケット生地のような、ざらついた質感の組織だった。

 その組織は、見る間に傷口全体を覆い尽くし、裂け目を繋ぎ合わせ、おびただしい出血を完全に止めてしまった。


 灼熱の痛みは、嘘のように消えていた。

 だが、それと入れ替わるように、もっと根源的で、冷たい感情がツムギの心を支配する。

 自らの身体の中で、自分の意思と無関係に起きている現象への――どうしようもない恐怖と、嫌悪感が。


(あ……ああ……)


 ツムギは、完全に塞がった自らの足を見た。さっきまで死ぬほどの傷を負っていたとは信じられない、滑らかな肌。

 病院の屋上で会った、あの桜色の髪の少女の言葉が、頭の中で木霊する。


 ―――あなたと同じような体質の人たちを知ってるの。


 カナデは、正しかった。

 自分は、普通じゃない。

 傷が、勝手に治る。血が、勝手に止まる。死ぬことさえ許されない。

 この呪われた身体。


 ツムギは震える手で自らの顔を覆った。

 もう、言い逃れはできない。


 私は、人間じゃない。

 ――怪物だ。


 遠くで続く銃声も、街の悲鳴も、もう彼女の耳には届いていなかった。

 ツムギの世界はたった今、その内側から完全に崩壊した。


 その時だった。


「間に合えぇぇぇっ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る