MELLOW=GUARDIANS―メロウ・ガーディアンズ―

風街こ未

序 東京の吐血

第1話 血飛沫の再生

 2045年。東南アジア某国、夜の港湾地区。

 叩きつけるようなスコールが、錆びついたコンテナとひび割れたアスファルトを無慈悲に濡らしていた。湿り気を帯びた熱気が、潮の香りと得体の知れない生ゴミの腐臭をない交ぜにして鼻をつく。

 やかましいカエルの鳴き声に混じって、断続的に響くのは乾いた発砲音。

 赤や青のけばけばしいネオンサインが降りしきる雨のカーテンに滲み、まるで悪夢のような色彩でこの無法地帯を照らし出していた。


 その混沌の只中を、桜色の閃光が舞っていた。


「こっちだよ!」


 声は、嵐の中でも鈴が鳴るように、凛と響く。

 少女のコードネームは、マカロン。本名、響カナデ。

 雨に濡れた桜色の髪を風になびかせ、彼女はまるで踊るように戦場を駆けていた。その手には、鈍い銀色に輝く特殊合金製トンファー『デュアル・ヴァリエ』。

 武装した兵士たちが放つ弾丸をトンファーを高速で回転させて弾き、受け流し、時にはその勢いを利用して敵陣の懐深くへと切り込んでいく。


 彼女の戦闘服は、白を基調とした軽装甲のボディスーツに、ふわりとしたスカートアーマーが組み合わさったもの。硝煙と泥に汚れながらも、その姿は闇の中で一際鮮やかに映る。


「らぁっ!」


 短い呼気と共に、トンファーが唸りを上げて兵士の金属義肢を打ち砕く。火花が散り、巨体がバランスを崩して崩れ落ちる。だが、その隙を別の兵士が見逃さない。


「……しまっ!」


 カナデの反応より速く、アサルトライフルの銃口が火を噴き、放たれた弾丸が彼女の華奢な肩を、そして脇腹を正確に抉った。


「いっ……たぁ……!」


 常人ならば絶命しかねない傷の激痛に、一瞬だけ可憐な顔を歪めるが、すぐに唇を噛み締めて敵を睨み据える。その場に崩れ落ちることはない。

 信じがたい光景が、その傷口で繰り広げられる。


(大丈夫……まだ、やれる……!)


 撃ち抜かれた箇所から鮮血が噴き出すのも束の間、まるで生命を得たかのように、淡いピンク色の組織が泡立ち、盛り上がってくるのだ。

 それはまるで、オーブンの中で膨らむ焼きたてのマカロンのよう。数秒後には、弾痕は跡形もなく消え、滑らかな肌が元通りになっていた。


 だが、その奇跡には代償が伴う。


 再生が完了した瞬間、彼女の白い左手首に埋め込まれたデバイスの液晶が冷たく点滅した。そこに刻まれたデジタル数字がカウントダウンしていく。


【24y 11m 17d 08:33:12】

【24y 11m 17d 08:33:11】

【...30】

【...29】


 一瞬だけ、その数字を見つめる瞳に悲しげな色がよぎるが、それもすぐに闘志の炎に掻き消された。


「……これくらい、平気。シズクの邪魔はさせない!」


 そう小さく呟くと、彼女は再びトンファーを強く握りしめ、前を見据えた。


 自らの寿命がリアルタイムで削れていく感覚。その事実を背負いながら、彼女は再び笑みさえ浮かべてみせた。

 敵の注意を一身に引きつけ、仲間のための射線を作り出す。その戦い方は、無防備で、刹那的で、美しかった。


 ◇


 その献身的なまでの陽動を、硝煙と鉄の匂いが立ち込める戦場から遥か上空、約800メートル離れた港湾クレーンの頂点から見下ろす瞳があった。


 狙撃手、チョコレート。本名、黒羽シズク。


 彼女は降りしきるスコールに身じろぎもせず、鋼鉄の骨組みにその身を溶け込ませていた。濡れ羽色の艶やかなストレートロングヘアが、雨に打たれて頬に張り付いている。

 その黒曜石のように鋭い瞳は、大型の対物ライフル『カカオ70』の高性能スコープに吸い込まれるように固定されていた。

 彼女の戦闘服は、黒を基調とした身体のラインにぴったりとフィットするタクティカルスーツ。あらゆる動きを阻害せず、かつ光学迷彩の機能も備えたそれは、闇夜の雨の中で彼女の存在を完璧に消し去っていた。


 スコープのレンズが捉えるのは、まるで嵐の中の蝶のように舞う、桜色のパートナーの姿。そして、その蝶に群がろうとする無粋な害虫たち。


 シズクの指は、寸分の遊びもなく引き金に添えられている。だが、彼女が狙うのは敵の命ではない。

 カナデに照準を合わせた兵士が引き金を引こうとする、その0.1秒前。乾いた、それでいて重い発砲音が夜の闇に響き渡る。

 シズクが放った一弾は、兵士の側頭部に取り付けられたヘッドセットだけを綺麗に撃ち抜いた。突然の衝撃と通信の途絶に、兵士は一瞬動きを止める。その隙が、カナデにとっての絶好の反撃チャンスとなる。


 敵の目と耳を潰し、連携を断ち、戦力を無力化する。それが彼女のスタイル。

 一切の感情を排し、戦場という名のチェス盤で、最も効率的な一手を淡々と打ち続ける。


 しかし、スコープ越しに見えるカナデの無謀な戦い方に、シズクの眉間にわずかな皺が寄る。また、被弾した。また、寿命を削った。


『カナデ、右翼コンテナ後方に増援3。熱源感知』


 彼女の声は、雨音に混じってもクリアに届く戦術通信回線を通じて、カナデの耳元に響く。その声色には一切の感情が乗っていない。まるで機械が事実を読み上げるかのように、冷静で、冷徹。


『あと、これ以上無駄な被弾は許さない。寿命の無駄遣いだ』


 それはパートナーを案ずる言葉ではあったが、同時に非効率な戦闘行動を咎める厳格な響きを持っていた。


『了解』


 マカロンは通信に短く応えると、シズクが示したコンテナの影へと疾走する。そこには、この区画を支配するリーダーが鎮座していた。

 並の兵士とは明らかに違う、二足歩行戦車と見紛うほどの巨躯。その全身は鈍色の強化装甲で覆われ、油圧シリンダーが動くたびに不気味な駆動音を立てる。


「見つけたぞ、ネズミが……!」


 巨漢の右腕が変形し、ガトリング砲の銃身が回転を始める。カナデは即座にトンファーを交差させて構えるが、放たれた弾丸の豪雨はあまりにも暴力的だった。コンテナの鉄板が紙のように引き裂かれ、火花が滝のように散る。


「くっ……!」


 回避しきれない一撃が、カナデの左腕を肩から吹き飛ばした。戦闘服の袖が千切れ飛び、鮮血と共に宙を舞う。

 激痛が全身を駆け巡り、思わずアスファルトに膝をつく。

 巨漢のサイボーグは、勝利を確信してゆっくりと歩み寄ってきた。


 だが、カナデは怯むことなく、顔を上げた。雨と血に濡れた顔で、彼女はにっと笑ってみせる。


「へへ……!」


 失われた左腕の断面から、ピンク色の再生組織が爆発的に溢れ出した。それはもはや修復ではない、創造だ。骨が、筋繊維が、神経が、そして滑らかな皮膚が、わずか数秒のうちに形作られていく。

 その絶大な代償として、彼女のライフクロックは恐ろしい速度で数字を削り取っていく。年、月、日の単位が目まぐるしく回転し、ぼやけた残像を描く。


 自らの腕が再生される光景に、巨漢のサイボーグが一瞬、理解を超えた現象を前に動きを止めた。

 ――その一瞬こそが、シズクが待ち続けた、唯一の隙。


 夜の闇を切り裂き、一筋の光条が走る。

 シズクが放った徹甲弾は、寸分の狂いもなく雨のカーテンを突き抜け、サイボーグの胸部装甲、その一点に吸い込まれた。

 内部で動力炉が貫かれ、巨漢は断末魔の叫びを上げる間もなく、内側から爆発四散した。


 戦闘が終わり、機械油の焼ける匂いと硝煙が雨に流されていく。

 後に残されたのは、静寂と降りしきる雨音だけだった。

 張り詰めていた糸が切れたように、カナデは消耗しきってその場に膝をついた。

 乱れる呼吸を整えようとする彼女の傍らに、音もなく影が降り立つ。クレーンから舞い降りたチョコレートだった。


「……また無茶をしたな。残り時間、2年短縮か」


 その声には、わずかな呆れと、それ以上の何か――見守る者にしか分からない、静かな痛みが含まれていた。


「えへへ……でも死ななかったから、オールオッケーだよ」


 そう言って顔を上げたカナデの笑顔は、降りしきる雨と、遠くで滲むネオンの光の中で、あまりにも儚く見えた。

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