大切に──蒲生氏郷
国香
序章
一度でいい、近くで正面から見たいと思った。
藤吉郎はまるで猿のように木に登った。
(しめた、ここからならば、よく見えるぞ)
城の奥御殿の見事な庭。
様々な花が植えられており、侍女が数名いる。皆鋏を手に、咲き初めたばかりの花や蕾を切っていた。きれいな娘達である。だが、それでも彼女達の美貌は霞む。
庭に面した御殿の廊下に、女性が一人、ゆったりと座っていた。その人は目を見張るほど美しい。
こちらに真っ正面に顔を向けている。藤吉郎が拝んでみたかった人に違いなかった。
藤吉郎の主君・織田信長の妹・お市である。美人と名高く、藤吉郎も遠くからならば、何度かほのかには見たこともあった。しかし、高貴な女性に近づけるはずがなく、藤吉郎はお市の姿をちゃんと見たことがない。
有名な美人を一度しっかり見てみたい。そんな好奇心、いや、夢には勝てず、ついついお市の住まいに忍び込んでしまったのだった。
だって、今しかないのだ。お市は間もなく嫁いで行ってしまうかもしれないのだから。
それにしても、藤吉郎は何故木に登ったのか。
人間には、頭上を注意し忘れるという習性がある。そして、どういうわけか、周囲を警戒している時ほど、その傾向が強くなるものだ。
姫君が庭にいるとなれば、侍女達の警戒は最大限のものになるだろう。物陰に隠れたりしたら、まず見つかってしまうに違いない。だが、頭上ならば。お市のごく近くにいても、見つからないに違いない。
だから、藤吉郎は木に登ったのだ。
案の定、侍女達は花を切りながらも、殺気さえ漂わせて地上を見回している。
思い通りだ。藤吉郎はほくそ笑んだ。誰も木の上になぞ眼をやらない。今日の空の雲が、濁りのない白色であることさえ知るまい。
藤吉郎は頭がいい。おそらく織田家中一の頭脳だろう。侍女達なんて、百人寄ったって藤吉郎の知恵には及ぶまい。
(帰るか)
堪能した彼は、見つからないうちに退散しようとした。
その時だった。ひょいと円らな目と合った。
(なっ、なんで……)
ぎょっと見下ろす藤吉郎の目を、きょとんと見上げている。まだ幼い、けれどやたら整った顔立ちの姫だった。
(もしや、冬姫さまか?)
冬姫とは、信長の愛娘だ。
藤吉郎は焦った。とはいえ、相手は子供。藤吉郎は努めて冷静に、人差し指を唇の上に押し当てた。唇は「しいっ!」と言う時の形を作る。
冬姫はただ藤吉郎を見上げているだけである。
藤吉郎はそっと木を下りはじめた。それでもなお、冬姫は不思議そうに見ている。
さすがに侍女が気付いて、
「姫さま、いかがなさいました?」
と問うた。
冬姫は何も言わなかったが、その視線を追った侍女が、藤吉郎を見つけた。
「曲者!」
叫び声に、周囲の侍女達が一斉に鋏を振りかざして向かってきた。藤吉郎はあっという間に木から引きずりおろされ、捕らえられてしまう。
「姫さま、よくお気づきになりましたね」
侍女が感心する横で、何故この姫は上を見たのかと、藤吉郎は首を傾げる。侍女達に睨まれ、羽交い締めにされながら。
藤吉郎はお市の前に突き出された。
藤吉郎のすぐ目の前に、この国一番の美女と言われるお市が座っている。近くで見れば見る程、信じがたいほど美しい。
しかし、お市は藤吉郎を見るなり、顔をしかめた。
「まっ!これは木下秀吉殿!」
不意に、藤吉郎の顔に気付いた侍女の一人が声を上げた。
木下藤吉郎秀吉の顔と人柄はなかなか有名である。他の侍女達も噂の藤吉郎と知って、ぷっと吹き出した。
「捕らえてみたら、木下殿とは。いつも突飛なことをする人だけど、こんな所でいったい何をなさっていたのですか?」
「いやなに。美人が揃いも揃ってしかつめらしい顔をしておる故、和ませて差し上げようとだな」
話しながら、猿の真似をし、おどけて見せた。侍女達は手を打って笑った。
「曲者かと思いましたが、百姓上がりの木下殿でしたわ。お市様も噂に聞いておられましょう?迷い入られたようです。ご心配には及びません」
早くも釈放しようという様子だ。しかし、お市は眉を吊り上げ、嫌悪を露わにしていた。
「百姓が、上に取り入らんと猿の真似か。気に入られるためなら、なりふり構わぬその根性が汚らしい」
お市の声は凛と張り詰めている。
藤吉郎は慌てて庭の土に五体を投げ出した。
しかし。成り上がるためなら、何だってできる。土下座しながら、腹の中で舌を出す。そうでなくて、どうして身を立てられよう。
百姓に生まれた藤吉郎が立身するためには、恥も外聞も捨てなければならなかった。しかし、その根性を汚いと、お市は言うのだ。
確かに汚かろう。しかし、卑しい者の苦労は卑しい者にしかわかりはしない。
お市は藤吉郎の顔を嫌悪し、さらにその手を見て、瞬時に硬直した。
お市のように美しく生まれた者には、この世にこんな姿の者がいるのかと、信じられないのに違いない。お市は藤吉郎の手から顔を背けると、立ち去ってしまった。
その間も藤吉郎はへらへら笑っていた。だが、本当は傷付いた。いかに卑しくとも、心は持っている。いくら醜くとも、男である。
その時だった。庭の蕾の中に佇んで、そっと様子を窺っていた冬姫が、声をかけてくれたのだ。
「百姓からここまで身を立てるなんて、凄いのね」
と、幼女は慰めるのである。
「藤吉郎のその手は──」
冬姫は藤吉郎の指をじっと見つめて、可憐に微笑んだ。
藤吉郎は六指だった。親指が一本余計に付いているのだ。
「その指はきっと、藤吉郎の並外れた才能を表しているのよ」
王となる者には、昔から異形の者がしばしばいるという。
お市が藤吉郎の心の汚さの表れであるとしたその指を、冬姫は恐れもせずに眺めている。
双瞳(重瞳)の者は、常人の二倍、物事が見通せる。六指の者もまた、常人よりも多くの作業を、一度にこなすことができるだろう。
「だから、他の者に真似できない功績の数々を、築けているのね」
それ故に、異形に王者はよくあるのだと、冬姫は言った。
まだこんなに小さいのに。その言い様に驚いた。
人の姿形は、その人の性質をも表すとはよく言う。きっと、お市のような美しい者は、凛と気高いのだろう。藤吉郎のように醜い者は、心醜いのに違いない。
(だが、その醜さが、きっと、いや必ず道を拓く!)
体中に稲妻が走り抜けるようだった。
これまで、なりふり構わず生きてきた。自分の醜い姿すら利用して。それで、心密かに卑屈になって。
だが、卑屈になったのは、人の表面の美しさしか見ていなかったからだ。藤吉郎はこの幼い冬姫に気付かされた。
(この姫さまは、いったいどんなふうに育つんだろう?)
──ずっと見て行きたい──
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます