Re:回

「そういえば先日の事故、すごかったわね」

「ええ。Kさんは引き上げられた残骸の見学ツアーに行かれたって。ほら、駅前の代理店が計画した」

「確かチラシが郵便受けに入っていたのだっけ」

「羨ましいわ。うちは旦那が何を言っても連れて行ってくれなくて」

「あなたが行けば妊活に障るでしょう」

「行けずにストレスをためる方が、有害だわ」

「でも、あそこのお水は――」

「信仰が――」


 ヒオは道具と話題がものすごい勢いで人々の間をじゅんぐりに巡って行くのを横目で見ながら、ひとり、繕い物の内職をしていた。満十二歳から五十五歳の女性は、婦女子会に参加しなければならない。ヒオは先日十二歳になった。晴れ着で庭に出て縁起物のかたい餅をかじるのは、顎の弱いヒオには苦行だった。祖母が写真屋を呼んできて、一族全員で写真を撮った。ガラス板に焼きうつされたな自分を見たせいで、胃から餅が逆流して、再び喉に詰まりそうだった。

 ふと、記憶のせいだけでなく喉が痛んだ。外を見るともうまっしろだ。最近はよく灰が降る。ヒオは「早引けします」と言って、コートとマスクを着けて会館を出た。背後で黄色いごくろうさまが飛び交っている。誰もヒオが疲れているとは思っていない。

 病院は、会館からバスで一本のところにある。受付で保険証を出すと、看護婦はきつい顔をして、問診票と共に「琺瑯を手でこすらないでくださいね」という言葉をよこした。怒られるいわれもなくヒオが戸惑っていると、看護婦は気が付いたようで、急に申し訳なさそうな顔をつくり「みなさん、こすりたがるんです」と言い訳した。「きっと、先日の渦潮――の影響ですね。うちの院長ったらケチなんだから――」


 待合室で座っていれば、いつか番号が回ってくる。ヒオはソファに身体をあずけて、院内に流れているラジオをぼんやり聴いた。待合室は寒く、しらじらとしていた。ここも灰の影響を受けているらしい。マフラーを持ってくればよかったと少し後悔する。ラジオは、やはりどこも政治と経済と戦争の話題だ。看護婦が苛立たし気にザッピングするから、「月末の総理大臣選」と「創世期以来のデフレ」と「誤射された長距離弾道ミサイル」がマーブル模様になっている。カラフルな話題が飛び散った壁を、清掃業者がため息とともにこすっている。はやくいつものチャンネルにならないかな、と思う。ヒオの耳に慣れた、いつもの番組が聴きたい。しかしなかなかチャンネルは回ってこず、その代わりに看護婦による回転はますます速くなった。待合室中に焦げ臭いにおいが漂い始める。ヒオの番が来た。診察は、おなじみの院長。


「こんにちは」

「こんにちは」

「ところで回転椅子の具合はどうですか。先日、あぶらを刺したんですよ」

「ええ、すごくいい感じです。勝手に回るほど」

「よかった。ではどうしてこちらへ?」

「ええ、喉が――」

「院長、受付のGが」

「Ⅲ度熱傷で」

「またザッピングなのよ」

「おやおや」

「新人だからって調子乗ってやがんのよ」

「そうよ、そうよ」


 院長は突然診察室に飛び込んできてキイキイ喋る看護婦たちに「あとで弔おうね」と優しく言い、「すみませんね」とヒオに向き直った。「Gは今月五回目なんです。おかげでみんなピリピリしている――」


「それは、やっぱり灰の影響ですか?」

「いいえ、彼女の資質の話で――問診票は書いていただけましたか」

「ええ、埋めたと思います」


 ヒオは問診票をバインダーごと院長に渡した。院長は眼鏡をはずしてしげしげ問診票をながめ、「なんのこっちゃ」と呟いた。


「では、いくつか質問します」

「はい」

「要するにあなたはガスの元栓を絞めたがっている?」

「もちろん、そうなればいいですけど――」


 ヒオは少し言いよどんだ。灰は、降るたびに母の顔が見えなくなるから嫌いだけれど、じゃあ止めてしまいたいかと言われるとそういうわけでもない。ヒオは、灰の降らない世界を知らなかった。


「そうなればいいですけど、でも、世界はそんなに単純明快な構造をしていないと思います」

「そうかね」

「はい。つまり、ユキウサギは食欲のままに果樹をむさぼり、狩人に居場所を教える。世界はウサギではないのだから、そんな馬脚の表し方はしないと思います。そもそも世界は白くあるものではない――強いて言うなら大地――茶色――」

「ふむ、では世界は嘶く――もしくは、すでに?」

「わかりません。でも理性的であるはずです」

「うむ、うむ。わかった」


 院長は長い髭をこすって大きな声を出した。ヒオは、自分の話が長すぎたんだわと反省した。男性に髭を生やさせるような話をしてはいけない、と、婦人会の部屋に貼ってあるのを思い出す。まったく周りを見ていなかったということを実感させられた。


「では、カレンダーを見てください」


 院長は髭をこする勢いを緩めず、そのまま「ずるっ」と、毛の全部を抜いた。ヒオを安心させてくれたらしかった。ヒオはほっと肩の力を抜いて、院長の指すカレンダーを見つめる。印象派の絵画が印刷された、つるつるしたカレンダーだ。電光に反射して日付も曜日も見えない。ヒオが身体を揺らしてなんとかカレンダーの全体を認識しようと努めれば、絵画の女がカレンダーの角度を変えてくれた。「これなら見やすいかしら、お嬢さん。このオヂサン、気が利かないでしょう」


「ありがとうございます」

「いいのよ。大丈夫、このオヂサンは気が利かないけれど、薬はよく効かせてくれるわ」

「ええ、そのとおり。つまり、これを見ている限り、世界は貴女が望むままに、理性的であるでしょう」

「はい」

「瞬きをすると、それは中間値などなく、すっかり堕落してしまうのでご注意くださいね」

「わかりました」

「お願いしましたよ、救世主」

「どちらへ」

「私はGのところへ」

「どうして」

「愛しているから」

「まあ!」


 ヒオは思わず笑った。目がキュッと細まったのを感じる。

瞬き厳禁。

 満十二歳から五十五歳の女性は、婦女子会に参加しなければならない。もうあそこに行かなくてよいのだとわかって、ヒオは回転椅子を撫でた。椅子は回り続けている。すっかり巡らなくなった季節を想って、ヒオは誰もいない診察室でくすくす笑った。

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