第二十話 まだ誰も知らない旋律
音羽の胸には、まだ痛みと熱が入り混じったままだった。
涙を拭うこともできず、ただ俯いて呼吸を整える。
(……もう、戻れない。私は気づいてしまった……)
その張り詰めた空気を、あっさり切り裂く声が落ちた。
「――で、真。お前、なんで廊下で寝てんだよ」
竜司が額を押さえ、わざとらしくため息をつく。
「いや……久しぶりに、いい曲が浮かんでさ」
真はゆったりと起き上がり、何事もなかったように伸びをする。
「そのまま弾いてたら、気づいたら……まあ、寝落ちしてた」
「……はぁぁ?どっちにしろ寝相悪すぎねーか?」
竜司は呆れ声を漏らす。
横で音羽は、小さく唇を噛んでいた。
(……あの寝言みたいな旋律……あれ……)
胸の奥で鼓動が疼く。
自覚してしまった想いが、まだ収まりきらない。
真と目が合うのが怖くて、視線を落としたまま息を整えた。
「ほら、行くぞ!さっさと準備しろ!」
竜司はわざと乱暴に言い、黒いジャケットを真に押しつけた。
「……別に、これでいいだろ」
真は気怠そうに肩をすくめる。
「よくねーよ!あいつのライブに行くんだぞ? お前、その寝癖で行ったら即退場だわ!一緒に行く俺らも恥ずかしいわ!」
竜司は呆れ顔で、真の肩をぐいと押さえた。
「ほらシャツをきちんと入れろ。見られてるって意識持て」
音羽はぽかんと立ち尽くす。
竜司の手際は、まるで出かける前に夫を送り出す奥さんのようで――。
「次、髪!」
竜司はポケットから小さなワックスを取り出し、真の前髪をざっと整える。
「これなら少しは“人前に立つ顔”になったな。……あーもう、俺、美容師の副業いけるかもな
ほら音羽、これで真、それなりの業界人っぽく見えるだろ?」
「え、ええ……」
思わず頬が熱くなる。
乱雑に撫でつけられただけなのに、真の顔立ちは急にくっきりと際立ち、光に映える横顔は舞台袖に立つアーティストのようで――。
(……え、ちょっと待って。真って……こんなにかっこよかったっけ……?)
「……仕上げだ」
竜司は最後にサングラスを渡し、真の胸ポケットを軽く叩いた。
「はい完成。俺の苦労を感謝しろ」
真は少し面倒くさそうにサングラスをかけたが、その瞬間――。
「……っ」
音羽は息を呑んだ。
無頓着なはずの彼が、たった数分で“誰もが目を奪う存在”へ変わってしまった。
胸の奥が跳ね、心臓が胸の奥から飛び出しそうに打ち鳴らされる。
髪を整え、ジャケットを纏っただけなのに、目の前の彼は別の世界から抜け出してきたように見えた。
街灯の光に照らされる横顔は、目尻の小さな皺さえ不思議な落ち着きをまとわせる。
袖を直す何気ない仕草なのに、その一瞬ごとに胸が掴まれる。
光と影が頬をかすめて流れるたび、その横顔全体が心に焼きつき、瞬きをするのも惜しくなる。
時間が止まったみたいに、呼吸も瞬きもできなくなる。
ただ、その存在だけで世界が塗り替えられてしまう気がして――胸が苦しい。
(……やだ……どんな仕草も、全部がかっこ良く見えちゃう……これ、惚れた補正ってやつ……?)
思わず視線を逸らそうとして、逸らせなかった。
逸らしたら、この一瞬さえも失ってしまう気がして。
(ずるい……こんなの、もっと好きになっちゃうに決まってる……)
胸がぎゅっと締めつけられ、呼吸のリズムさえ乱れていく。
その緊張を断ち切るように、竜司の声が響いた。
「時間ないぞ!行くぞ!」
現実に引き戻されるみたいに、三人は慌ただしく玄関を飛び出す。
背後でドアの音が大きく響き、胸に残った余韻を振動でかき消した。
外気は思いのほか冷たく、さっきまでの熱を一気に冷やす。
ほんの数秒前までのバタバタが嘘みたいだった。
夕暮れの街には車のライトが点り始め、人々の足音とざわめきが流れ込んでくる。
それでも三人のまわりだけは、時間が止められた静止画のように、淡い光に縁取られていた。
だが、世界が流れていく中で、音羽の胸だけは別の拍を刻んでいた。
その鼓動はまだ早鐘のように鳴り続け――誰にも止められない旋律となって溢れ出していた。
その音が、喜びなのか痛みなのかは、彼女自身にもまだわからなかった。
夕暮れを越えて街に落ちる灯りのひとつひとつが、胸の鼓動に寄り添うように瞬き――まるで静かに見守りながら、そっと包み込んでいるようだった。
そして、その温もりの奥で、彼女さえ知らない旋律が、ひっそりと芽吹き始めていた。
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