第11話 裏通りの黒猫
三人は池袋西口駅前にいた。ついこの間、知佳とみゆきが一緒に歩いた、あの場所だ。
信号待ちをしていたみゆきは、軽いめまいを覚え、目頭を揉んだ。
結局、姿を消した知佳はどこにいるか分からない。殺された常澤 美弥子の犯人もいまだ不明だ。そもそもこの二つの事件につながりがあるのかすら分からない……
全てがまだ曖昧糢糊で、良い可能性と悪い可能性が潮の満ち引きのように頭の中を搔き乱すのだった。
思いつめて歩くみゆきの前で、海上が急に速度を緩めた。
「どうしたんです?」
ぶつかりそうになった海上の背中を避けながらみゆきは尋ねた。
周りを見回せば、西口から北に向かって伸びる繁華街の大通りの一角に居る。
海上はその大通りから右に伸びる細い路地の方を向いて大きく息をつく。
その路地は北京館裏より細く暗かった。両サイドには間口の狭いスナックやキャバクラの立て看板が道を塞ぎ、すれ違う事さえ困難と思われる程だった。
「さてと……」
海上は呟くと、路地へと歩を進めた。
百合も特に慌てるでもなく、少し離れてついて行く。
一体、海上はどこへ向かおうとしているのだろうか。みゆきは不思議に思いながらも百合たちの後に続いた。
狭い路地を少し進むと、左手に周囲とはアンバランスに大きめの喫茶店が現れた。
それは妙に古めかしい純喫茶然とした建物で、海上は一瞬のためらうような仕草を見せた後、思い切るようにしてその喫茶店へ入っていった。
カウベルの金属音が鳴り渡る。
店内にはスズラン型のシャンデリアが結構な数吊り下がっており、広い店内を上品なやさしい光で包んでいる。
だが、いくつかあるボックス席やカウンターには客は居らず、微かにクラシックが流れているだけだった。
すると、カウンターの向こう側から、ひょこっと猫顔の女性が顔を出した。
「いらっしゃいま……」
愛想の良い猫の顔が、こちらを見るなり強張り、大きな目に爛々と怒りが滲む。
「……お邪魔しますよ……」
妙に小声で挨拶した海上の顔を、ヒュッと何かが掠めた。
壁に当たって金属音を響かせたそれは、よく磨かれたフォークだ。
え? と、目を丸くして硬直したみゆきは、百合に腕を掴まれ、ボックス席に引っ張り込まれた。
「わ! ちょ! あぶな……!」
海上は喚きながら床の上を転がって逃げる。
猫顔の女性は身軽にカウンターの上に飛び乗ると、フォークやナイフ、スプーンに至るまで、本気の勢いで海上めがけて浴びせ続けると、
「馬鹿たれが! 何の役にも立たん警察が! しゃあしゃあと腑抜けヅラ見せに来たんか! こっちは大事な美弥子ば殺されとるんぞ! カマキリ男の首を一つや二つ持って来てから敷居ば跨げっち言いよろうが! ボケが!」
と博多弁で怒鳴り散らす。
降り注ぐ怒号と凶器の雨の中、やめて! やめてください! と懇願する海上の悲痛な叫びが空しくこだまする。
落ち着いた上品な店の雰囲気から、一瞬で修羅場と化した店内を、物陰から唖然と見つめるみゆきと、その横でため息をつきながら膝を抱える百合。
攻撃者は投げる物が底をついたのか、得物を探すように辺りを見回していたが、みゆきと目が合うと動きを止めた。
一瞬探るような目をした猫顔女子は、小首を傾げると、
「あんた誰ね?」
と、言った。
すると、隣にいた百合がスッと立ち上がり、
「こ、こんばんは……あのこちらは、うちの学生さんで七条さんと言う方でして……」
百合の紹介を受けてみゆきがおっかなびっくり自己紹介すると、店員はカウンターから身軽に飛び下り、みゆき方へ駆け寄ってきた。
「こんにちはー! みゆきちゃんね。うちは平 恵理子たい。
ここの喫茶店『シュバルツ・カッツェ』のオーナー兼店長しとるっちゃんね。
百合とはね、帝邦大時代の同級生? あ、学部が違うけん同級生やないとね。
なんて言うんやろか、あたしが工学部で、百合が文学部で…。
あ、同窓生って言うんかな? それたい!
ついでに百合とは清和寮の同期ってわけとよ。
やけん、結構長か付き合いっちゃんね。
え!? みゆきちゃんも清和寮に入ったと!?
あらまぁ! 運命やない、これ!
やったら是非モーニング食べにきんしゃい!
ゆで卵一個サービスしちゃるけんね!」
それまでと違い、急に人が変わったように人懐っこくなった。
平 恵理子と名乗った喫茶店のオーナーは、小さい顔にアンバランスについた大きい眼をクリクリさせながら、尚もまくし立てるように喋っていたが、その合間を縫うように奥からガタっと言う音がして、海上が這い出してきた。
それよりも、みゆきは恵理子に聞かねばならない事があった。
「あの……常澤さんの事……ご存じなんですか?」
恵理子は
「ご存知も何も……彼女はこの春からここでバイト始めたばっかいやったんちゃん……」
……そうか、常澤 美弥子が言ってたいたバイト先はここだったのか……みゆきは目を伏せた。
自分が常澤 美弥子と同じクラスだった事、少ししか話は出来ていないけれども、人懐っこい人柄で好感を持っていた事、喫茶店でバイトが決まった事を喜んでいた事などを恵理子に伝える。
聞いている途中から骨が抜けたように恵理子の体から力が無くなり、目から大粒の涙が零れた。
この若く可愛らしいオーナーは、有数の繁華街で店を維持するために肩肘を張り、魂をすり減らして生きていたに違いない。そんな恵理子にとって、現れた常澤美弥子は一筋の春風のような存在だったのかもしれない。
先ほど海上へ当たり散らしたのも、そのためだろう。
溜め込んだ澱を全て吐き出すように涙を流す姿は、みゆきにとって辛く、眩しく見えたのだった。
海上は無言で店内を片付けていた。恵理子が落ち着くのを待っているのだろう。
みゆきも食器を片付けるのを手伝いながら待つことにした。
無言で涙を流していた恵理子は、そばに立っていた百合の両肩をおもむろに掴むと背筋をしゃんと伸ばす。
その涙で濡れてクシャクシャになった顔は輝きを取り戻していた。
「いや、はは、ごめんね……いや~泣いてしもうた! やーん! こげん泣いたの久しぶりやもん」
照れ臭そうにした恵理子は、そそくさとカウンターの方へ回って来ると、「あらまー、片付けてくれたとね、ありがとうねぇ」と言いながら顔をキッチンでバシャバシャと洗い始める。
タオルで顔を拭き終えてサッパリした顔で一息つくと、
「……それで、あんたたちは何しに来たんね?」
「実はですね……」
百合は、みゆきと一緒にいた知佳が突然失踪したことと、常澤 美弥子殺害事件が結び付けられていることを、これまでの経緯を含め要領よく説明した。
「その上でですね……常澤さんの事件当日の様子などを恵理子さんにお聞きしたいと思ったのです……」
「なるほど」と言って恵理子が話してくれたところによると、事件当夜、常澤 美弥子に特に変わったところはなく、この店を出たのが午後10時。いつも通り東武東上線で住まいのある練馬まで普通に帰ったらしい。その後、練馬駅から自宅までの人気の無い場所で、何者かに襲われたらしい。
悲鳴を聞いた近隣住民は、現場から逃げる鎌を持った人影を目撃しており、その通報を受けて、警察が駆けつけた時には首から血を流して倒れている常澤 美弥子だけが残されていたらしい。
百合は話を聞くと難しい顔で、
「そうですか……これと言って特別なことはなさそうですね……里見さんとの繋がりを示すような話もなさそうです……」
と呟いた。
すると恵理子は首を傾げながら宙を仰ぐと、
「西池の理神庵……、池袋北京館……か……」
と独りごちた。
「何か心当たりでも?」
問いかけるみゆきに顔を向けると、恵理子は言いにくそうに言い淀む。
「ん〜、なんち言ったらいいかねぇ。偶然やとは思うけど、その二つには
みゆきは聞きなれない単語に戸惑った。
「いんきょう……ってなんですか?」
みゆきの疑問に海上は眉を
「印僑ってのはあれだ、華僑ってのは聞いたことあるでしょ?」
「はい。中国を離れて、国外に住んでコミュニティを築いている中国の人たちですよね?」
「そう。それのインド人版と思えばいい」
聞けば簡単な話だが、それが海上のしかめっ面と関係あるのだろうか?
みゆきの表情から察したのか、恵理子が口を挟んだ。
「北京館と理神庵は池袋印僑最大派閥『ガンガー』の支配下にあるとよ……なんでインド人が中華料理屋ばしよるんかは謎やけどね」
「もしかしてマフィア……ですか?」
恵理子は首を振り、
「マフィアやなかと思うとよ。縄張り争いとかの暴力的な話も聞かんし、法外なみかじめ料ば巻き上げられたなんて話も聞いたことないけん……例えるなら、顔の分からんコングロマリットみたいなもんかねぇ……」
「顔の判らない……?」
恵理子の淹れたコーヒーに口をつけながら、海上が続く、
「要するに池袋を地盤に手広く色んな商売しているのと、インド人がトップだってことしか情報がないんだよ……こう言う街だからねぇ、それなりにトラブルなんて毎日あるんだけど……ガンガー絡みの揉め事はすぐに示談とか手打ちになっちゃうんだ。だから俺たちも首を突っ込みたくても突っ込めないし、上の方からも問題が無いんだから余計な詮索はするなとお達しが出てるって寸法さ……」
……なるほど、だから海上は印僑と聞いた時に渋い顔をしたと言うわけか……とみゆきは納得した。
「あ、あの……」
それまで黙って聞いていた百合がおずおずと割り込む。
「恵理子さんは……池袋北京館の、佐藤さんと言う店長さんの事を何かご存知ですか……?」
だが恵理子は、他店の個人の事は分からないと、申し訳なさそうに言った。
みゆきは、任意同行のような形で佐藤から聞く事は無理なのかと海上に尋ねたが、即座に「無理だねぇ」と返された。
今の状況証拠にもならないような仮説だけでは、佐藤店長や、池袋北京館に対して警察が動く事など出来ないだろうとの事だ。『ガンガー』の存在もある。
カウンターに並んで同じような格好で頭を抱えたみゆきと海上。そんな二人を百合は不思議そうに見比べると、
「どう……したんです?」
「え? どうって……あの店長さんについて恵理子さんも知らないようだし、警察も手を出せないしで、完全に手詰まりになっちゃったじゃないですか……」
みゆきの泣き言に、百合は小首を傾げて呟いた。
「そんなことは……ないと思いますけど……」
えっ! と、その場に居た全員が弾かれたように顔を上げた。
百合は周囲の反応に若干吃驚したように眉を上げると、
「え?……新たな繋がりが見えているじゃないですか……その、占い屋さんが……」
と言った。
三人は一様に、あっ……と声を上げた。
池袋北京館の店長の線を追う事ばかり考えていたので、その線が途切れた事で知佳への道筋も立たれたようにみゆきは思っていた。だがまだ微かな糸があるとするならば、それはバックボーンを池袋北京館と同じくする理神庵だ。
「みゆきちゃん! 理神庵の場所、覚えてるかい?」
海上はみゆきに顔を向けると尋ねる。
「はい。何とか……大丈夫だと思います」
知佳と歩いた道順を思い出しながら答える。
海上がカウンターのコーヒーを一気に呷り、ヨシっと腰を上げたと同時に、つんざくような着信音が鳴り響いた。
「ったく……タイミング悪いよなぁ……」
ポケットからスマホを取り出した海上は、最初はだるそうに応対していたが、徐々に表情が曇る、
「分かったすぐ行く」電話を切った海上は、強張った顔で出口へと向うと、
「百合、みゆきちゃん。ゴメン。今から理神庵には行けなくなった……」と言った。
「どうしたんですか?」
みゆきに問われた海上は、苦しそうな顔で答えた。
「……蟷螂事件の……また次の被害者が発見された」
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