第4話 日常の罅(ひび)
翌日、必須授業の英語のクラスにも知佳は姿を見せなかった。
……大学に入りたてで、早速休み癖がつくなんて……とブツブツ文句を言う初老の女教師の声を聞き流しながら、みゆきはぽっかりと空いた席を見つめた。
次に知佳の言っていた、民俗学の講義が行われる教室へと向かう。
三段黒板が三面ある、かなり大きめの階段教室だ。
万が一知佳が現れた時に見つけやすいよう、教室中央の最後列に陣取った。
ゾロゾロと絶え間なく学生が入ってきて、席を探している。
知佳のように黒髪ボブヘアの小柄な女性を探すが、やはり見つけることはできなかった。
もしも知佳が誘拐された場合を考えると、一刻も早く通報するなりの対処が必要だ。しかし誘拐と決まったわけでもない。下手に騒いで知佳に迷惑がかかってしまうようなことも避けたい……
みゆきが悶々としていると、教室のざわめきが鎮まった。
いつの間にか教壇には、紹介写真の通り地味目な黒っぽい服装にゆるくウェーブし
たロングヘア、不釣り合いなほど大きな丸い眼鏡を身につけた
「あ……あの……授業を始めます……」
地味な装いから勝手に年配だと思っていたが、遠慮がちに話し始めた声は意外に若い。
「せ……先週は河童のお話をしたところで終わった訳でして……古代におけるまつろわぬ者たちを、
みゆきも何かの小説で読んだ記憶があった。
く、王朝なり権力者なりを中心としたコミュニティから外れた異質な個人や集団を、鬼と言う妖怪に仮託したという話だった。
「そうして生まれたたくさんの妖しと言うものに、日本独特の味付けがされて、妖怪の個性が徐々に徐々にハッキリしていく訳ですね……一番判りやすいのは、“警句”と言う味付けです……例えば“
その後、河童や、天狗の話に移行していった。妖怪に詳しいわけではないし、興味も持ったことの無いみゆきから見ても、非常に面白い講義だった。
みゆきの甲斐沢准教授なる人物評は一言で表せた。
「不思議ちゃん先生」
立て板に水の魅惑的な喋りなど一切無いが、朴訥とした語り口調が何とも言えない魅力を備えていると感じた。
みゆきは一人思いながら、教室を後にする。
結局、知佳の姿は見つけられなかった。
その日の昼休み。
みゆきは学食で一人Aランチをつつきながら、サークル情報が詰め込まれた冊子をぼんやり眺めていた。
小さい頃は喘息気味で、体力をつけるために合気道をやらされており、特に熱意を持って取り組んだ訳ではないが、高校卒業するまで何となく続けていた。
段位なども貰ったが、熱意をもっていた訳でもないので、合気道部はパスの方向だ。
……知佳は何かサークルに入っていたのかなぁ……
色々な思考が飛び交って、集中できずにいると、
「あ、サークル探してるの?」
ムラの無い長い栗色の髪を、緩やかにウェーブさせた女子が、ランチプレートを
持って立っていた。
彼女はみゆきや知佳と同じ語学クラスに所属する
「ここ座っていい?」
みゆきの向かいの席を指差したので、どうぞ、と言って自分のお盆をずらして机を
空けた。
「今日は里見さん居ないの?」
慣れない都会暮らしに動揺していたみゆきに声を掛けてくれたのが知佳だった。
これ幸いとくっ付いて歩いていたのだが、
……案外見られているモノだなぁ……
と気恥ずかしくなった。
「里見さん、今日の語学の授業にも出ていなかったみたいだし……風邪かなにか?」
「いや……ちょっと良く分からないんだけど……そうだと思うよ……」
美弥子はふーん、そっか……と言って、特に気にする素振りも無かった。
いきなり話の継穂を失ってしまい、一瞬の静寂が訪れる。
気まずい焦りをみゆきが感じ始めた時、「ひよひよ、ひよひよ……」と、ひよこの
鳴き声が聞こえてきた。
美弥子は慌てて持っていたカバンを探ると、真っ赤なバンパーを装着したスマホを取り出した。バンパーには、勾玉ストラップが鈴なりになっており、中でも一際大きな青翠色の勾玉の根付が目を引いた。
「あ、それ……」
美弥子はスマホの画面から目を離さずに微笑んで答えた
「うん。ひよランド」
「え?」
みゆきは勾玉の事が訊きたかったのだが、美弥子は音の正体の事だと思ったらしい。
美弥子の言う『ひよランド』は、テレビCMやネット広告でもバンバン流れている
ので、知らない人はいないだろう。卵から孵したひよこを自分の分身として育て、
ネットワーク上の仮想都市にいる別のユーザーたちと一緒になって街を発展させていくゲームだ。
しかしゲーム好きなみゆきだが、この『ひよランド』はどうしてもやる気がしない。単純にセキュリティに対して不安と、そもそもひよこが好きじゃないのもある。
「これ、可愛くて便利なの。チャットもできるし、七条さんはやってる?」
「いや~。やってないな……やってみようかな~なんて……」
「そうしなよ。そんであたしとひよ友になろうよ」
ひよ友が何か具体的に判らないが、登録されたチャット仲間みたいなものだろう。
みゆきはそう判断した。
「ところで七条さんって地方から来たんだよね」
「地方……って言うか、まぁ千葉の外房の方だから田舎だわよ」
「あたしもね、群馬の奥地の方だから似たようなもんね……七条さんってバイトとか
どうしてる? 何かやってるの?」
みゆきは、やりたいがまだ決めていないと答えた。実際、東京での一人暮らしに慣れるので精一杯で、何となく二の足を踏んでいたのだ。今度学生部に貼られているバイト募集を見てみるつもりだ……と言うと、美弥子は「ああ、あれは家庭教師とかばっかりだからなぁ、あたしは無理だ」と言ってカラカラと笑った。
「常澤さんはバイトしてるの?」
「ん? あたしは池袋の駅前の喫茶店でバイトすることにしたよ」
それを聞いて、みゆきは思わず軽くため息が出た。彼女の見た目と言動からも伺え
るバイタリティの強さがみゆきには少し羨ましく感じられたのだ。
みゆきのそんな気持ちは知らずに、美弥子はランチをペロッと平らげ、それじゃ次の授業があるからまたね! と言って、颯爽と出て行ってしまった。
その背中を見送りつつ、みゆきはすっかり冷めた定食をつつき始めた。
結局その日は、必須授業が一時間目だけだったのと、他の履修も決まっていたので、手持無沙汰になってしまった。
なにより知佳の事も気になって、今いち集中力が出ない。
気持ちを落ち着けて、今後どうするべきかを考えるため、寮に帰ることにする。
みゆきは大学入学後、帝邦大学付属の学生寮『
た。
目白の閑静な住宅街に、歴史を感じさせる煉瓦塀で囲われた広大な敷地の寮で、明治時代の建学以来、地方から来た学生の住処として愛されてきた建物だ。
清和寮のシンボルともなっている『
れた
議室などが設えてある。
敷島館の両サイドには、打って変わってガラスを多用した現代的なビルが接続されており、向かって右側が女子寮である『海彦寮』、左側が男子寮である『山彦寮』と呼ばれる。
上級生や院生もいるため、まだ他の寮生と馴染めているわけではないが、みゆきにとって何物にも邪魔されずに居られる環境が、ひどく居心地が良かった。
帰り着いた午前中の敷島館の薄暗いエントランスホールは、朝夕に比べると学生の
姿もまばらで、ひっそりと静かな時間が流れている。
奥ではただ一人、この寮の管理人である
彼は入ってきたみゆきの足音に気付くと、日焼けした皺くちゃな顔を、一層皺くちゃにして、ニカッと白い歯を見せた。
「おかえり! えっと、確か君は新入生の……」
「七条です。七条みゆき」
「ああ、そうそう! みゆきちゃんね! ……なんだい、入学早々サボタージュか
い? そんなんじゃあ故郷の親御さんが泣いちまうぜい?」
まるで時代劇に出てくる江戸っ子みたいな口調だ。みゆきは笑って誤魔化す。
「ま、そうは言ってもあれだ! まだ慣れねぇことも多いだろうからな。まぁ落ち着
くまでは無理しちゃいけねぇよ」
「ありがとうございます」
何気ない言葉なのだろうが、頼る相手のいない今の状況には、心に染みる言葉だっ
た。
みゆきは「失礼します」と挨拶をして、足早に自分の部屋へ向かう。
引っ越し作業も一段落し、飾り付けも何もない部屋だが、帰ってくるとホッとする。
実家から持ってきた小学校の時から使っている学習机に向かうと、鞄からシステム
手帳を取り出した。
手帳をパラパラとめくり、里見 知佳のページを開く。
入学当初はみゆきのスマホが壊れていたため、手帳に名前と携帯番号、住所を書いて
くれたのだ。そこには独り暮らしをする前の世田谷区成城の住所が書かれていた。
高級住宅街として轟く成城の地名に軽い畏怖を覚えつつ、スマホのマップアプリで場
所を確認すると、置いたばかりの鞄を手に部屋のドアへと向かう。
「知佳の家へ……行ってみよう」
みゆきは自らを奮い立たせるように言い、いざ部屋を出ようとすると、思いがけず
ドアが勝手に開いた。
予想外の事に思わず手を引っ込めて立ちすくんでいると、開かれたドアの向こうか
ら化粧っ気の無いそばかす顔に眼鏡のショートヘアの女性が仁王立ちしていた。
入寮した時に挨拶した以来だが、海彦寮の寮長をやっている大学院生の|薬袋 真
「七条さんっ!」
「は、はい!」
やにわにヒステリックに名前を呼ばれて、みゆきは益々萎縮する。
「あなた! 大学入学早々何やってるの! 大学に入ったらもう終わりなの?」
「え……? はい……?」
「大学の入学金や授業料! 寮費だって親御さんが、七条さんの為に出してくれてい
るのよ!」
「あ、え、はい……それはもう大変感謝いたしております……」
「だったら! 授業をさぼるなんて事を出来ないはずよね!」
サボった訳ではなく、授業が無いから戻ってきたのだが……
その旨を、ついぼそぼそと言い訳してしまった。
「その考えが甘い!」
触れなくていい逆鱗に触れてしまったようだ。薬袋の声が裏返っている。
その声に、近くの部屋がそっと開いたが、薬袋の姿を見て慌てて閉じた。
「ちょっと! 聞いてるのっ!」
高周波の雷がみゆきの頭にまた落ちた。
「す、すみません!」
「あたし、今何て言った?」
「え?……あの親に感謝しろ的な……」
「そうじゃない! それはもう終わった!」
そうなのか。それは気付かなかった。みゆきは無意識に腕時計をチラッと見る。
「なに? どこかに遊びに行こうって言うの?」
「いえ、その……」
「はっきりしないわね! ちょっといらっしゃい!」
言うや否や薬袋はみゆきの腕をつかんで引っ張った。
「え!? ちょ……どこへ? てか何?」
「私の部屋へ来なさい! 考えを改めてもらいます!」
その後、薬袋の部屋でこってりと絞られたみゆきが解放されたのは、日も暮れた夕
飯前だった。
とにかく会話が噛み合わない。一を言うと十返ってくるようなやり取りが数時間も
続き、経験したことのない地獄に精も根も尽き果てたみゆきは、足をふらつかせなが
ら食堂へと入った。
まだ開いたばかりの食堂は人が殆どおらず、夜間のバイトに行く前に腹ごしらえを
していると思われる体格の良い男子学生と、数人の女子学生が点々と座っているだけ
だった。
みゆきは幽鬼の如き足取りのまま、厨房に向かって注文する
「魚……定食……下さい」
寮の食堂のメニューは基本的に肉と魚の二種類に分けられており、食堂入口にそれ
ぞれの内容が記された黒板が出ているのだが、今のみゆきにはそれを確認する気力す
らなく、魂とは別の何かが機械的に「魚定食」と口走らせた。
そんなみゆきの様子を、厨房からコック姿のやさしそうな初老の男性がチラッと見
やると、トレーの上にカジキのムニエルと和風ハンバーグの二品、コンソメスープとライスが乗せられた。
「あの……」
みゆきが戸惑って声をかけると、厨房のコックはにやりと笑って、
「君、七条さんでしょ?」
と逆に名前を尋ねてきた。
「はい……そうですけど……」
「おやじさんから聞いてるよ。女寮長に絞られたんだろ?」
「おやじ……?」
「浜崎のおやじのことだよ」
「あ……」
「あのおやじも口が軽いんだ……そのせいでちょくちょく出るんだ、女寮長にコテン
パンにのされちゃうのが……」
なるほど、このトレーに乗った二つのメインディッシュは、うっかり口を滑らせた
浜崎管理人定番の謝罪なのだな、とみゆきは理解した。
「まぁそう言う訳だから、有難く頂いときなさい」
みゆきは礼を言って、ずっしりと重いトレーを手にテーブルへと向かった。
美味しいご飯によって、多少元気が戻ってきたみゆきの周りに、三々五々人が入り
始めた。
既に噂が出回っているのか、顔も知らない寮生ですら、お疲れさま、と声をかけて
来る。
お腹も満たされ、頭もはっきりしてくると、少し心に余裕ができたのか、壁に掛け
られた大型テレビのニュースが耳に入ってきた。
『……先日都内で発生した連続通り魔殺人事件の捜査に関し、警視庁では引き続き目
撃者の捜索と防犯カメラの解析によって犯人の行方を追っています……』
都内の住宅街や繁華街の外れた人気のないところで起きた通り魔殺人のニュースだ。
鋭利な刃物で惨殺するだけで、強盗ではないということだが、先月から二件連続で
発生しているにも拘らず、いまだに犯人が捕まっていない。週刊誌などではその手口
から
をされている事件だ。
そんな恐ろしい事件のニュースを聞くと、再び知佳の事が気にかかり始めた。
……部屋に戻ったら、もう一度電話をかけてみて、それでも出ないようなら、明日
こそ知佳の実家を訪ねてみよう……
そう決めたみゆきは改めて気合を入れるかのように、コップの水を一気に呷って食
事を終えた。
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