第一幕 空の港から




 羽畑はこの国で最も混み合う空の港である。喜ばしきゴールデンウィークを間近に控えたこの日、四月二二日でも行き交う人の数が減る気配はどこにも見当たらない。空の旅へ出かける人や、空の旅を終えて空港を後にする人にとっては、この混雑は一瞬で過ぎ去る嵐のようなものだろう。これから始まる、或いは終えた旅へ思いを馳せるために乗り越えなければいけない幾つかの関門に過ぎない。何とも羨ましい限りだ。どうぞ、お幸せに。

 行き交う無数の人々を眺めながら、百比良という若者は誰にも聞こえないように無言でそう毒づいた。短く刈り込んだ髪とスーツを着込んでいてもわかる恵まれた体格に、やや緊張を与える凛々しい顔立ち。百比良以外にもそうした姿で人混みを眺める者たちが、よく見てみるとロビーのあちこちに立っているのがわかる。百比良はそうした者たちの一人でもあったが、百比良を含めた彼らは空の旅を利用する、或いは使用したために空港に今こうして姿を現しているわけではない。寧ろ、ある意味では、彼らは平和な空港にとっては招かれざる者たちであるかもしれなかった。彼らが悪というわけでもないけれども。

 空港から遠く離れた市街地にでもありそうな売店の横に生えた無骨な柱。そんなところに、百比良は少し前から立っている。ロビーを行き交う人々を眺めているうちに、彼はあることに気付いた。考えてみればそれは至極当然で、売店の前を通り過ぎる人がこれから空の旅に出かける人なのか、それとも空の旅を終えて新たな旅に出る人なのか、その見分け方だった。職業柄、百比良には通行人を観察する癖がついている。その癖を応用しただけのことだったが、それは、教えさえすれば誰にでも見分けられるような簡単な方法でもあった。服装のように、ある程度の知識を要するものではない。話はもっと単純だった。

 早い話が、人が纏う雰囲気のようなものが答えを自ら教えてくれるのだ。空の旅を終えて新たな旅に出るため、空港を後にする人はどこか柔らかく、足取りも軽い傾向にある。彼らから発せられる解放感というものは、空の旅を無事に終えたというストレスからの解放に通じるものがあるはずだ。一方で、空の旅にこれから出るのであろう人の歩みは神経質で、何か見えないものに急かされているようでもある。無事に空の旅に出ることができるのか、そもそも何事もなく保安検査場を通ることができるのか、忘れ物はないかなど不安が尽きることはあるまい。いざ空の旅に出たところで、別種の不安に襲われるのだが、それはまた別の話だろう。少なくとも今は、空港を行き交う人に注目しているのだから。時間をやや持て余した百比良は、このようなとりとめのない考えに頭を回していた。

 ところが、その百比良だけの頭の中の世界は突然の終わりを迎える。終わりを告げたのは、彼の左側から現れた厳つい顔付きをした男の呼びかけだった。

「百。お前何で電話に出ないんだ。携帯を不携帯とは言わせないぞ」

「えっ。ああ、すみません。着信に気付かなくて。何度もお電話いただいてたんですね」

 この威圧感の塊のような人物は、百比良の上司にあたる武藤という男だった。百比良と二人で組んでおり、今までは別行動を取っていたのだが、百比良を呼び出すために電話をかけたらしかった。電話に出ないから直接やって来たようで、携帯を見てみると不在着信が十件ほど表示されている。通行人の観察に精を出していた百比良は遂に着信に気付くことができなかったのだ。武藤がやや不機嫌そうなものも、そのためだろう。

「電話に出なかったのは業腹だが、何かあったのかと心配するじゃないか。今度からは気を付けてくれよ。俺たちはあと少しで奴と接触しなければいけないんだからな、こんなところで油断されちゃ困る」

「そうだ、そうですよね。肝に銘じます」

「頼むぞ。そろそろ準備に取り掛かる時間だし、気を入れ直してくれよ」

 そう言うと、武藤は百比良の肩を軽く叩いてニカッと笑い、白い歯を見せた。

 幸いなことに、武藤はそこまで理不尽な上司ではない。百比良にとってはこれ以上ないほどに良い上司ですらあった。顔付きこそ厳ついが、根は優しいのだ。そんな武藤は再び厳つい顔付きに戻ると、百比良に着いてくるように手招きする。携帯を操作して百比良の他にロビーのあちこちで立っていた者たちにも指示を出したようで、行き交う人々に気付かれることなく、静かにスーツの集団が一箇所に向けて動き出した。彼らは指示一つで迷うことなく行動する、自我を持たないロボットのようでもある。もっとも、実際には自我も持っているし、油断もする、目を背けたくなるほどに人間そのものなのだけれども。

 武藤に率いられた百比良を含めた数十名のスーツたちがモノレールに揺られてやって来たのは、羽畑空港の空港警察署だった。受付を素通りして二階の会議室に入った一行は、そこでやや額が後頭部にまで広がった男と対面する。一行を代表して武藤が挨拶した。

「本日は突然の応援要請に応じていただき、感謝申し上げます。挨拶が遅れましたが、私が警視庁公安部外事第四課第二係の武藤です。こちらも四課の面々です」

「これはご丁寧に。私が空港警察警備課長の木積です。ようこそいらっしゃった」

 頭を深々と下げた武藤に続き、一同も一斉に頭を下げる。額の広い男もそれに応じて頭を下げ、顔を上げると微笑んで武藤と握手した。課長の紹介で警備班の班長を務める羽車や森と名乗る男たちもその場に加わり、いよいよ話は本題に入って行く。

「では、早速ですが警戒体制への移行をお願いしても宜しいでしょうか」

 この武藤の一言で、空港は装っていた日常から秘めていた非日常に切り替わる。そこに一切の猶予も慈悲もありはしない。公安部と空港警察との連携による、警戒体制が発令されるのだ。一階の到着ゲートを中心に検問所が速やかに設置され、空の旅を終えて羽畑に降り立った者たちを待ち構える。この関所たちを乗り越えることができなければ、空港から立ち去ることもできない。それは、即席でありながらも反則級に強力な、見えざる包囲網と言うべきものですらあった。ならば、問いたくもなる。一体誰が為の包囲網か、と。

 言うまでもなく、この包囲網が待ち受けるのは、空の旅を終えて地上に降り立つ者たちだ。待ち構えている、待ち伏せていると言ってもいいだろう。一方で、羽畑に降り立った者たちにとっては不可避の落とし穴そのものでもある。羽畑以外に降り立つことを許されない空の便を利用した以上、よほどのことがなければ降り立った羽畑に設置された検問所を回避する術はありはしない。そういうものなのだ、そのための包囲網なのだから。

 だが、こうして誕生した包囲網はあくまでも、網でしかない。網が捕えようとしているのは空港に降り立った旅客という魚の群れであるように見えるが、この場合の漁師に相当する武藤や百比良が狙っているのは、ただの雑魚ではなかった。百比良たちの獲物は大漁ではなく、魚の群れの中に巧妙に姿を隠した大魚だったのだ。

 その獲物はもうすぐ空の港に現れる。鉄の鳥の腹に身を預けて不安に苛まれながら、それでも「人間」であろうとする狂おしき獲物が。ミラノから飛来する望まれざる獲物が。来る。降りて来る、空からここに。それを止める術は誰も持ち合わせてはいなかった。武藤も百比良も、その他大勢も後手に回って対応を急ぎ、包囲網を敷くことくらいしかできない。さらに、包囲網を敷いたとしても、やはり獲物を待つことしかできなかった。

 百比良たちは、万全の態勢を整えたという自信でも拭いきれない居心地の悪さから目を背けつつ、獲物を乗せた鉄の鳥が空の彼方から現れるのを待ち続ける。辛抱或いは忍耐の刻は遅くも早くもなってはくれない。いざ獲物が現れたとしても、それだけを旅客の大海原から釣り上げることも大変なことのはずだ。幾つも設置された検問所の中の一つに配置された百比良は、したこともない魚釣りと今の自分を比べつつこれから起こることに思いを巡らせる。すると、少しだけ憂鬱な気分が心の片隅に屋根を張った。厄介なものだ。

 声に出さずそう呟くと、百比良は安っぽいパイプ椅子に静かに座り込んだ。

 パイプ椅子の足が不規則に軋む音が鳴っては止み、また鳴っては止むことが続いた。

 包囲網が敷かれてから一時間ほどは、包囲網自体は機能しなかった。機能させなかったと言った方が適切かもしれない。獲物を乗せた鉄の鳥がやって来るまでは検問所を稼働させる必要がないからだ。そもそも、検問所は獲物を捕らえるために整えられたのだ。

獲物を捕らえるための検問所に獲物が引っかかる前からその他の雑魚を止めていると、肝心の獲物が素通りするのを見逃してしまう恐れもあった。それでも、旅客の群れが検問所を素通りする光景というのは奇妙なものだった。百比良は、突如羽畑に出現した検問所を不思議そうに眺める旅客たちの顔を随分眺めた。眺めさせられた。あの時間は旅客や百比良たち、どちらにとっても不幸だった。お互いに居心地の悪さを感じながらも、どうすることもできないもどかしさ。味わわずに済むのなら味わいたくはなかった苦手な食べ物を、銃を突きつけられて無理矢理口に放り込まれたようだった。武藤の指示に従うことでこうなったわけだが、上司に対する恨みというものは生じなかった。武藤も同じように居心地が悪そうにしていたからだ。皆辛いのだ。獲物を捕らえるために、歯を食いしばってこの場に立ち続けていることに変わりはないのだ。それが皮肉にも支えとなった。

 百比良は武藤と同じ検問所でそのときを待ち続ける。口数も少なく、簡素な机の横を通り過ぎる旅客から顔を背けた二人は、自然と視線がすぐ近くの壁で煌々と輝く電光掲示板を眺めていた。行き先、出発日時、搭乗口……掲示板に表示される情報はときに言語を変えながら、次第に飛び立った便が消えて新たな便が現れながら移り変わって行く。そこに表示されるのはこれから飛び立つ便であって、獲物を乗せた到着する便ではない。武藤も百比良もそれは十分分かっていたが、二人は目を離すことができなかった。そこ以外に特に気になるものもなかったのもそうだが、掲示板を眺めることで現実から逃避しているような気分になれたからでもあった。

 百比良や武藤は旅客でもなければ、空港の職員でもない。獲物を捕らえにやって来た部外者なのだ。その部外者にとっては獲物を乗せて来るわけでもない、ここから飛び立つ便の情報の羅列も関係がないことで、それを眺めることは一種の安らぎのようなものを二人にもたらしていた。獲物を待ち受ける中で襲い来る緊張から逃避するには、掲示板は打って付けの道具になり得る素質を備えているとも言える。自然と、百比良はそう思えた。

 二人は隣に並べた軋むパイプ椅子に座り込み、無言で電光掲示板を眺め続ける。二回ほど、空の旅を終えた人の群れが検問所を通り抜けていった後だろうか。武藤と百比良は遂に、電子的な白昼夢から覚めるときが来た。目覚めを招いたものは何の変哲もない、単なる放送だった。それも二人にとっては待ち侘びつつも再び緊張を強いる号笛だけれども。

『皆様、ミラノ・マルペンサ発NL1989便、羽畑行きをご利用いただきありがとうございました。またのご利用をお待ちしております。羽畑でお乗り換えになられるお客様は搭乗口で係員にお伝えください。国内線、国際線それぞれは異なる係員が対応いたしますため、ご注意ください……』

 獲物を乗せた鉄の鳥がようやく、地上に降り立ったのだ。放送を聴いた途端、武藤はバ

タンと音を立てて立ち上がる。それに釣られて立ち上がった百比良はそこでようやく、正面から武藤の顔を見た。指示を仰ぐためであったが、言葉は続かなかった。

 笑っている。武藤がその厳つい顔を歪めて笑っている。だが、微笑みのような暖かさを感じるような笑みではない。長年恨み続けた因縁の相手を葬り去ったかのような、どす黒いものを滲ませながら、武藤は醜く笑っている。そんな武藤は口を閉ざしたままの百比良の肩に手を乗せ、笑ったままに指示を出した。

「百。皆に検問所を開くように伝えてくれ。奴を見つけたら連絡するように、ともな」

「……わかりました。伝えます」

 百比良は武藤が笑う理由が何となく分かった気がした。それを問いただす気にはならなかったからこそ、そのまま指示に従う。速やかに指示を出さなければ、間も無く押し寄せる旅客の波に翻弄されて獲物を逃がしてしまうかもしれなかった。もしそうなれば、ここまでやって来た意味がなくなってしまう。それだけは何としても避けなければならない。

 検問所を機能させるため、百比良は自分を納得させつつ緊急の連絡を孤独に始めた。応じた捜査員たちは空港警察の警備員を配置させ、押し寄せる旅客への対応を準備する。

 放送から五分も経たずに、到着口は人で溢れ返った。鉄の鳥の腹から出るのにもそれなりに時間がかかるものだが、それ以上に到着口を通過するのには時間が必要だった。十箇所以上検問所は設けられたが、それでも何百人もの旅客が数分で通過することはとてもできたものではない。1989便の乗客はこの日、羽畑で初めて到着後に検問所を通るように指示された者たちとなったのだった。獲物以外の乗客は不幸としか言いようがない。

 百比良と武藤も検問所に並ぶ乗客たちの一人一人と向き合い、手荷物検査と身元確認を実施して行く。列の最初に並んだ、老練と評するに相応しいように見える老紳士に、まずは航空券の提示を求める。老紳士は渋ることなく、潔くパスポートまでも見せてくれた。

「イタリア出身のメディコ・デッラ・ペステさんですね。ご協力感謝します」

「ファーストクラスの席を取っておいて良かったよ。おかげで列の先頭に並べたからね」

「手荷物にも問題はありません。お荷物はお返しします。ありがとうございました」

「グラッチェ(ありがとう)」

 日本語に堪能なイタリアの老紳士は灰色のボルサリーノを被り直すと軽く頭を下げ、ヒョイと軽い足取りで去って行く。百比良はその上品な後ろ姿を見送っていたが、その余韻は携帯から発せられる単調な電子音に掻き消される。空港警察の警備員に検問所を任せて着信履歴を見てみると、同僚の藤山から電話がかかって来ていた。このタイミングでの電話ということは、つまりはそういうことか。掛け直す時間も惜しんだ百比良は、武藤に着信を伝え、二人で藤山たちが担当する検問所へと急行する。午前十時には似合わない緊張

が、機能し始めた検問所を取り仕切る側に流れた。武藤と百比良の二人が持ち場から離れたということは、そういうことなのだ。張り巡らせた網が、獲物を捕えたに違いない。

 到着口を中心として半円状に広がる出口までの広場には、放射状に検問所が設置されていた。武藤と百比良はその中でも右端の検問所を担当していたため、藤山たちが担当する方まで移動しなければならなかった。では、藤山たちが担当している検問所がどこにあるのかと言えば、それは真反対の左端だった。五〇メートルもない、そこまで広くもない広場の右端から左端へと移動するのはそれほど苦ではない、通常ならば。つまり、今回は違うのだ。しかも、ただ移動するのでもなければ、かと言って疾走するわけでもない。逸る気持ちと体を抑えながらも急がなければならないのだから。これは尋常ならざる苦行だ。

 一秒でも速く目的地に辿り着くために猛烈に前へ、前へと進み出そうとする脚と、体を前進させるために前後に動こうとする腕を抑えることは、なかなかに労力を要する。この体の動きは、もちろん目的地に急行したいという思いを反映しているものだが、その一方で、ただ目的地に急行できればそれで良いわけでもないのが厄介なところでもあった。

 検問所を担当していた捜査員らしき男たちが急に走り出しでもすれば、それを見た旅客たちに不安を与えることは想像に難くないのだ。それだけならまだしも、それだけのことでもないが、獲物にこちらの動きを察知される危険さえ生じてしまいかねない。検問所という獲物から見れば自身を捕えるための罠に等しいものを運営していると思わしき男たちが慌ただしく動き出せば、警戒を招くのは必定でもある。不必要な警戒を助長することほど、悪手と酷評される愚行もこの世にはあるまい。捜査員としてその行いは致命的だ。だからこそ、急ぐ気持ちを持ちつつも体にその発露を許すことはできない。それでも、抑制に対する精一杯の抵抗は早歩きという形で現れるものだが。

 カサカサ、と滑稽な音を早歩きのための摺り足で立てた二人組は広場の端から端へと移動する。移動は三〇秒ほどであったが、それは百比良に形容し難い気恥ずかしさを感じさせるのに十分な時間である。検問所に並ぶ人々の視線に晒されているかのような感覚は、決して心地よいものでも、慣れるようなものでもなかった。そんな気恥ずかしさを抱えながらも広場の左端に辿り着けば、そこの検問所を担当する藤山たちと合流する。検問所に設置された長机の後ろに立てられた仕切りの裏で、捜査員たちは顔を合わせた。

「お疲れ様です。何とか間に合って良かったです」

「まさか奴がここに並ぶとは。まったく、運が良いのか悪いのか」

 藤山が武藤に挨拶し、続いて水見が獲物に対する愚痴をこぼす。よく知らせてくれた、と武藤は藤山たちへの感謝を口にしていたが、その言葉は百比良の耳には入って来ない。

藤山たちと異なり、これから奴と接触することになるのだから、無理もないことだろう。

 しかし、百比良の意識が会話から逸れたのは緊張だけが原因ではなかった。長机の後ろに立てられ、百比良たちの姿を四方から覆い隠す仕切りの一角の隙間からは検問所に並ぶ人々の列が垣間見える。百比良の視線の先には、列に並ぶとある一人の男の姿があった。

 自身と同年代と思わしきその男を見た瞬間、百比良は悟る。この男こそが、今日我々が羽畑まで足を運ぶことになった元凶、即ち網を張って待ち受けていた獲物だろう、と。その男の人種を特定することはできないが、ここに来る前に見た資料に書いてあった通り、日台韓中いずれかの血を引くアジア系の顔立ちであることに間違いはなかった。かと言って親近感が湧くはずもないが、それ以上に、百比良の視線を釘付けにして離さないのはその男の放つ異様な雰囲気だった。いや、あからさまに不審な人物といった外見でもないのだが、特に悪目立ちもしないような上等なスーツを着こなしていても看過できない異質な雰囲気というものが、百比良に危機感を訴えかけてきているのだ。やはり、そうなのか。

 そう、この男こそが包囲網の獲物だった。整った目鼻立ちの中でも一際目を引く輝くことを知らない瞳に、肩まで伸びる墨汁に浸したかのような長髪と、そこから覗く小さな銀色の逆十字架のピアス。極めつきには、鼻と口をこれまた墨に浸けたようなマスクで覆っているため表情が全く読み取れない。そんな男は自身を捕えるための検問所を前にしても慌てた様子はなく、寧ろ早く面倒事を済ませて立ち去りたい、とでも言いたげな退屈を滲ませた視線を横目に逸らしていた。百比良は列に並ぶ異様な男から目を逸らすことができず、無意識のうちに仕切りへと近付いて食い入るように男を見つめ続ける。そのお陰で、背後から自分を呼ぶ武藤の声に気付くことはなかった。

「百、百! 余所見してる場合じゃないだろう。一体何を覗き見して……」

 武藤や藤山たちも、百比良の視線の先を確かめるべく仕切りと仕切りの隙間に顔を寄せる。やがて全員の視線は、百比良が案内することもなく、やはり獲物に吸い寄せられた。それだけの魔力のようなものが視線を列の男に引き付けているのか、誰もが獲物を捕えるという目的を忘れかけて見入ってしまう。仕切りの中で広場に似合わない静寂が流れた。

「奴だ、奴が遂にやって来たんだ」

 その静寂は魔力のようなものに取り込まれることを拒んだ武藤の一声で破壊される。武藤は列の男の顔に見入ったかのようだったが、我に帰って彼の表情を見た百比良はその想像が誤りであったことに気付かされる。武藤は一目見たときから、引き付けられるどころか、逆に闘志を燃やし始めていたのだ。列の男に対して、である。特に焦った様子も見せない列の男の態度も、武藤の闘志を高めたのかもしれなかった。百比良は、少しだけ列の男に同情した。一度火が付いた武藤の闘志はなかなか消えるものではない。その粘り強さにこれまで、何人もの犯罪者が根負けしたことか。この闘志は武藤が時折見せるどす黒い

笑みの根源とも言える。現に、百比良の隣で列を垣間見る武藤は再び顔を歪めているではないか。目の前に現れた獲物は彼にとって、正真正銘の獲物かもしれなかった。執拗な猟犬の姿がそこにある。差し詰め、列の男は狩場に追い込まれた華奢な鹿か。

 百比良が後ろに引いても尚、武藤は仕切りの隙間から列の男を眺め続けている。声には出さずとも、百比良には闘志を燃やす上司が何を呟いているのかを読唇してみた。

 あと二人、あと一人……と、抑えきれない渇望が武藤の口から無音で溢れている。検問所に並ぶ列が一人ずつ進むたびに、獲物が検問所に近付く。それを喜ぶかのように、武藤は獲物に接触するときを待ち望んでいるのだ。一方で、百比良にとって獲物との接触は必ずしも喜ばしいものではない。獲物はただの獲物ではない。猟犬が追うのは獣なのだ。獣を侮れば痛い目を見ることは、狩りに出たことがない百比良でさえ知っていることだ。

 それ故に、百比良は武藤に声をかけずにはいられなかった。獲物に狙いを定めてどうしようか、と舌舐めずりをしている猟犬が足元に気を配らずに崖に落ちていくような、そんな危なさを上司の背中から感じたからだった。大きなお世話かもしれないけれども。

「タケさん、そろそろ行きましょう。奴を列から離して、連行しなくちゃいけませんよ」

「……そうだな、そうだよな。ここで眺めてても、奴から来てくれるはずがないしな」

 百比良の呼びかけに振り向いた武藤は、少しばかり落ち着きを取り戻しているように見える。自分自身に言い聞かせるようにも聞こえる口調で、武藤は仕切りの隙間から顔を離した。その顔に既に笑みはない。隣の上司は、その剛健さによって自身の身をも焦がす闘志を覆い隠すことに成功していた。それは、百比良を感服させるに足る頼もしさだった。

 獲物と対峙するべく、二人は検問所の内部を覆い隠す仕切りの外へと向かう。既に列に並ぶ人の数は少なくなり、いよいよ獲物が検問所の長机に手荷物を置こうとしているところだった。手荷物が長机に置かれた途端、空港警察の警備員が列を誘導して獲物の後ろに並んでいた四、五人を別の検問所へと並ばせる。即ち、百比良たちが担当する検問所に並んでいるのは獲物ただ一人ということになった。武藤と百比良、それに藤山たちなど、第四課の面々が静かに獲物を取り囲む。皆の視線は獲物に集中している。獲物以外に注意を払うべきものもないのだから、当然のことだった。

 一方で、無理矢理主賓として簡素な長机の前に立たされ、捜査員たちに取り囲まれているのにも関わらず、獲物は動じる様子を見せない。ゆっくりと瞳を動かして前後左右から自分を見つめる百比良たちの姿を確認すると、何もやましいことなどないかのように、善良な旅客のつもりだろうか、手荷物からパスポートを取り出して机の上に静かに置いた。

 獲物を取り囲む一同はその冷静な態度に驚くと同時に、苛立ちを覚えるのを避けられない。この期に及んで一般人として振る舞うつもりとは、何と良い度胸をしていることか。

 堂々と獲物から叩きつけられた挑戦状とも言うべきパスポートを、一同を代表して武藤が手に取る。武藤も極めて冷静な態度で動くように努めていたが、その目に宿る闘志を隠し通すことはできていない。獲物に目を合わせずとも、その視線は間違いなく獲物を射殺さんばかりに煮えたぎっている。覆い隠した闘志を露わにさせるほどには、獲物の行動は武藤の怒りを呼び覚ましたのだ。それでも武藤は抑揚のない、冷たい声でパスポートに記載された情報を読み上げ、百比良たちに共有を試みる。何と頑丈な上司だろうか。

「日本出身の、天野安門さんですか」

 獲物の男は口を動かさない。ただ、耳に付いている銀色に輝く逆十字架のピアスが小さく揺れるだけだった。首を縦に振ることで肯定を示したのだ。声を発さなかったため、武藤は一度顔を上げて獲物の顔を見つめるが、すぐにまたパスポートに視線を落とした。

「イタリアからのご帰国ということになりますが、ご旅行でしたか」

「いや、『仕事』でね」

 獲物の男は、今度は質問に答えた。非常に冷たく、感情というものを感じさせない声色は、目の前の男が本当に人間なのかどうかを疑わせるだけの不安を与えてくる。それは百比良を含めた獲物以外の全員の視線を再び集める切掛となった。獲物の男の声を初めて聴いたからでもあったが、簡単に答えるとは思わなかったからでもあった。武藤は一瞬目を丸くして驚いたようも見えたが、再び険しい顔付きに戻り、これ幸いと男の言葉について追求を開始する。しかし、獲物はそれほど甘くはなかった。逆に辛酸を舐めさせられる。

「失礼ですが、『仕事』とはどういった類のものでしょうか」

「それはそちらには関係のないことだ。それよりも、手荷物検査を早く済ませてくれ」

「これは失礼を。天野様はお急ぎでしたか」

「それもそちらには関係のないことだ」

 取り付く島もないとはまさにこのことで、こちらに対する一切の譲歩も協力も得られそうにない。相手が相手のため仕方のないことではあったが、武藤の問いかけを遮断する姿勢を見ると、連行に同意するようにはとても見えなかった。今はとりあえず、時間を稼ぐしかないだろう。武藤に援護が必要だ、と直感した百比良はかける言葉を見失った武藤に助け舟を出す。あくまでも時間を稼ぐためだけの泥舟だけれども、ないよりはましだ。

「では、手荷物検査を行いますので少しお待ちいただけますか」

 そう言うと、百比良は武藤に目で合図して預かった手荷物と共に仕切りの中へと消えて行く。藤山や水見など、獲物の監視を残して二人は獲物の手荷物に触れる機会を得た。

「すまん、百。助けられたよ。まさかあれほど堂々と言い返されるとはな……」

 捜査員に囲まれたらもう少し緊張しそうなものだが、と武藤は少し落ち込んでいた。

 自身よりも一〇歳ほどは若く、百比良と同年代にも見える若者であろう獲物がここまで強固な態度で応じてくるとは、少し想像とは違っていたのだろう。だが、そこまで落ち込む必要もあるまい。相手のあの態度はあくまでもこちらが天野安門として接しているからであるに違いないからだ。百比良は緊張の最中でも、武藤の闘志を見習って獲物に食らいつく気概を養っていた。天野安門という恐らく戸籍を乗っ取ったか偽造して得た偽りの身分に身を隠したからこそ、獲物は何もやましいことはないとでも言いたげな不遜な態度を崩さないのだろう。ならば、こちらも茶番をやめて猟師或いは漁師として、獲物を狩る立場として獲物に宣告してやれば良いのだ。そうすれば獲物は屈するより他にはなくなる。

 その前に、まずは獲物の手荷物を検査しなければならないのだけれども。捕える口実でも見つかれば幸いだ、と武藤と百比良の二人は獲物が持ち込んだ革製の上質なアタッシュケースをひっくり返すかのように隅から隅まで調べてみる。こういう場合隠しポケットに何かを隠していることもあるため、それはもう念入りに調べたのだが、鞄から出てきたのは何の変哲もないノートパソコンと二台のスマートフォン、それとそれらに付随する充電機器だけだった。拳銃を持ち込んで空の旅に出ることができるはずもないのだから、銃火器の類が出てくることはあり得ないとは分かっていたものの、どこか拍子抜けする鞄の中身だった。やはり、このままでは獲物を捕えることはできない。

「タケさん、奴の正体を知っていることを明かして連行するしかないですよ」

「連行すると言ってもな……この場で逮捕することはできないし、拘禁するにしてもいずれ上からの圧力で釈放するしかなくなるのは目に見えてる。それでも連行したいか?」

「そんな目で言われても説得力ありませんよ、寧ろそれでも連行したいのはタケさんの方でしょう、誰がここまで俺たちを引っ張ってきたと思ってるんです」

「よく分かってるじゃないか、なら行くぞ」

 武藤の闘志の熱量を知らない百比良ではない。この場で逮捕することができなくとも、獲物の素性を知っていれば見逃すことなどは考えられないのだ。二人は顔を見合わせると左の懐に手を伸ばしながら頷き、引き締まった顔付きで仕切りの外へと歩き出す。その勇ましい姿は、獲物を仕留めに行く猟師或いは漁師そのものだった。

 検問所では静かな対峙が続いていた。獲物を監視するために仕切りの外に残された捜査員たちは獲物を目の前にして一言も発することもなく、奇妙にも沈黙を続けていたのだ。藤山に至っては長机を挟んで目の前に立っている獲物と目を合わせているのが耐えられなくなり、頻りに仕切りの中の様子を確認するかのように振り返る有様。獲物から目を離すことは、時と場合によっては命に関わるというのに。また、それは同時に、捜査員の精神にまで圧迫感を与えるほどの緊張が場を包んでいたということでもあった。

 緊張の糸は仕切りの外へと武藤と百比良が出てきたことで一応の緩和を迎える。藤山はようやく落ち着きを取り戻したようで、再び長机を挟んで対峙する獲物に向き直った。更に、預かった手荷物を持つ百比良の空いた方の手の形を見た藤山たちは、この後に起こすべき行動を瞬時に理解する。腰のあたりに下がったままの右腕の先の手の指のうち、親指と人差し指だけが立っていたのだ。彼らにとって、その合図はそういうことだった。

「天野様、お待たせしました。手荷物の方には問題はないようです」

「そうですか、それでは失礼します」

 周囲に合図を送りつつ、何食わぬ顔で百比良は獲物に手荷物を返却し、一礼する。それは一切申し訳ないなどとは思っていない礼だったが、少なからずこれから取る行動についての礼としての意味を込められていた。そして、百比良たちの行動は手荷物を受け取った獲物が検問所から立ち去ろうと、背を向けたときに遂に実行される。

 人影がすっかり消え去った静かな広場に、ジャキッという日常には似合わない金属音が複数響く。その音が消え去らないうちに、武藤が獲物に対して声を張り上げた。

「動くな! 両手を挙げてそのままこっちまで歩いて来るんだ」

「これは、どういうつもりかな」

 獲物の背中に複数の銃口が向けられている。どれもS&Wの回転式拳銃だ。口径9ミリメートルの回転式拳銃のシリンダーには五発の弾丸が装填されており、そのどれもが獲物の手足を撃ち抜いて無力化するために用意されたものだった。そんな状況下でも動揺を露わにせず、堂々としたまま武藤や百比良の前まで歩いてきた獲物に対して、武藤は自分たちが本気であることを宣告する。獲物より背が高い武藤は見下ろす形でこう言い放った。

「天野安門……いや、安華と呼ぶべきか。手荷物の方には問題がなくても、お前の方には問題があるんだよ。我々はお前の入国を黙認するほど甘くはないというわけさ」

「どちらかと言えば、君たちの方に問題があると思うがね。この国に来てからまだ何の罪もまだ犯していない者に対して銃口を向けることほど、問題の種になり得るものも他にはないと思うが」

「饒舌だな、ようやく焦り始めたのか?」

「いや、そういうつもりではない。寧ろ、君たちが正確に手足だけを狙えるのかどうかが不安でね。素人が持つ拳銃に狙われることほど危険なことはないからな」

「キサマ、誰が素人だと!」

 煽ったはずが盛大に煽り返された武藤は思わず安華と呼ばれる獲物の胸倉を掴もうと手を伸ばすが、急いで百比良や藤山が間に入る。ここで安華に対して暴行を加えれば、最終的に檻に入るのは武藤になりかねない。それでは本末転倒も甚だしいことこの上ない。

「落ち着いてください、タケさん……おい、口の利き方には気を付けてもらおうか。我々は外事第四課だぞ。お前のことは大体知っているんだからな」

 武藤を止めた百比良は安華に対して自分の立場を弁えろ、と警告を発する。安華の言動は銃口に囲まれている者とものとは思えなかったからだ。だからこそ、百比良は特にそれ以外の意味を含めずに警告したわけだが、その言葉は思いがけない反応を招いた。

「ほう。大体は知っている、だと。ならば言ってみるがいい。お前ごときがこのヤスカの何を知っていると言うのか」

 安華の予想外の反応に対して百比良は一瞬面食らったが、すぐさま素人呼ばわりされたことへの怒りと合わさった反抗心が敵意を増幅させる。それが安華を刺激する悪手であることが分かっていても、百比良は言い返してしまう。

「そんなことを言って何になると言うんだ。俺にとってお前はただの危険人物でしかない。それ以上でも、それ以下でもない。社会を脅かすただの屑でしかないんだよ」

「そうか。ならお前たちに構っている暇はない。もう行かせてもらおう」

 驚くことに、一方的な宣言と共に安華と呼ばれる男は背を向けて歩き出した。安華以外の全員は呆気に取られて数秒はそのまま立ち去ろうとする男を見つめていたが、慌てて再び拳銃を構え直す。発砲するべきかどうかの逡巡は武藤への視線の集中を招いた。その一方で視線を立ち去ろうとしている男にも割かなければならない。拳銃を構えた男たちがその姿に似合わず、頭を左右に動かしている光景は奇妙な笑いをもたらすものでもあった。

 ただ一人、武藤だけは落ち着きを取り戻して安華を呼び止める。このまま何もせずに安華を取り逃すことを武藤の闘志は許さない。たとえ、それが身を焦がし過ぎたとしても。

「待て。このまま行かせると思うか。それとも、銃口から逃れる自信があるのか。もしそうであるならば、大層な過信だな」

「拳銃で止められると思うその発想は貧弱としか言いようがない。あくまでもそれは脅しに留めておくべきだった。いざ撃つとなったとき、自分の命を捨ててでも撃つことができる奴がいるとでも言うつもりか」

 警察官がそう簡単に銃を撃っていいわけではない。特にこの国においては。海の向こうの銃大国の警官ならば話は別だろうが、武藤や百比良たちはそうもいかない。下手に発砲すれば責任を取らなければならなくなるかもしれないのだから。発砲した本人のみならず、四課そのものまでもが、だ。それを痛いほどに身に染みて分かっているからこそ、構えた拳銃の引金は随分と重くなる。もはや誰も拳銃を構えることすらできなくなった。

 一人、また一人と銃を構えた腕を下ろして悠々と立ち去る安華と呼ばれる男を見送るだけである。こうして、ヤスカは空の港の検問所を越えてこの国に降り立ったのだった。

 到着口の外には、首都圏に直行するバス便が行き来する停留所がガラス張りの外に広がっている。ヤスカはそこに見向きもせず、ただひたすらに直進し続けた。やがて停留所を通り過ぎると吹き抜けに辿り着く。一階から四階までぶち抜いた吹き抜けをエスカレーターが貫き、午後の暖かい陽の光が降り注いでいた。その眩さやエスカレーターからも目を背けたヤスカは、天井に吊り下げられた四角い案内板に視線を移す。そこには、空港から市街地へと向かう路線が乗り入れる鉄道の駅と、モノレールの駅などを利用するにはどの方法へと向かえばいいのかが示してあった。この吹き抜けの右に曲がれば鉄道、そのまま進めばモノレールに乗れるということだ。ならば取るべき行動は一つ、直進するのみ。

 吹き抜けを真っ直ぐに通り抜けよう、とヤスカは人の往来へと踏み出そうとする。ところが、その第一歩を踏み出す前にヤスカは立ち止まってしまった。というのも、背後に気配を感じたからである。振り返ってみれば、そこにはヤスカの旅の仲間であるかのようについて来ている二人の姿が見えた。二人というのは、武藤と百比良だ。ヤスカは目を細めてついて来るな、失せろと訴えるが、それを受けても尚二人は険しい顔のまま立ち去ろうとはしない。ヤスカを連行することができなかった二人が今更尾行したとしても大した意味はないであろうに、物好きもいたものだ。そう呟くとヤスカは前を向き、小さく嘆息して再び歩き始める。進行方向と直角に交わる、絶え間ない人の波を器用に避けながら。

 少し歩いた先にあるエスカレーターを登ると、そこはモノレール羽畑空港線の改札口になっていた。券売機や窓口が設置された壁の上側には路線図が掲示されているが、空港からはモノレール以外の鉄道路線が都心部へと伸びており、その都心部に至っては色とりどりの路線図が複数の駅で折り重なり、迷路のようにあちらこちらへと向かっていた。これでは初めて来日した観光客が困惑するわけだ。ヤスカは特に迷うこともなく近くの柱にもたれかかると、鞄からスマートフォンを取り出して再起動を試みる。画面にIT企業のロゴが表示されて再起動を待つ間は、再び複雑怪奇な路線図を眺めていた。

「やあ、安華くん。モノレールでどこに行くのかな」

 すると、不愉快さを与えてくる小馬鹿にしたような声色で話しかけながら武藤が近付いて来る。その後ろには百比良もついて来ていた。ついて来るだけでなく、話しかけてまで来るとは。一人でモノレールに乗ろうとしていたヤスカにとっては厄介でしかない。

「馴れ馴れしく話しかけないでくれ。お前たちに構っている暇はないと言ったはずだが」

「こっちはお前のためにわざわざここまで来てるんだ。そう簡単には離れてやらないぞ」

 軽薄な声色から一気に冷えた態度に急変した武藤は、百比良に合図してヤスカの背後に回らせる。これで武藤と百比良から、後ろの左右を固められる形となった。そんな時、ようやくヤスカが手に持ったスマートフォンの画面に光が戻る。無事に再起動だ。

「そのスマートフォンを誰の名義で手に入れたとか、パスポートを誰に頼んで偽造したとか、色々気になるが……まぁいいだろう、それは車内で聞かせてもらおうか」

「さぁ、モノレールに乗ろうか。嫌でもご一緒させてもらうよ。切符は買うのか?」

 武藤と百比良の会話に構うことなく、ヤスカはスマートフォンを操作して財布のアイコンのアプリを起動させる。そのままスマートフォンを片手に歩き出し、慣れた動きで改札通り過ぎた。こうなると、慌てるのは武藤や百比良だ。仕事用の端末に勝手にアプリをインストールするわけにもいかなかったので、モノレールや電車に乗る際は私用のスマートフォンを使うか、わざわざ切符を買うしかない。ヤスカがあっさりと改札をと通過したことに驚く暇もなく、二人は急いで券売機に走らざるを得なかった。つまり、私用のスマートフォンを携帯していなかったのだ。更に、改札に置き去りにされれば嫌でも慌てる。

 そんな二人がどうにか切符を入手して改札を通過し、モノレールが出発するホームへと辿り着く頃には、丁度モノレールの快速便が乗り入れているところだった。先にホームに着いていたヤスカを探し出した二人はその後ろに並び、車両のドアが開くのと同時に四人掛けの座席を確保した。進行方向の二人席にヤスカが座り、その向かいの二人席に武藤と百比良が座って対峙する。モノレールは来た道をまた戻るため、羽畑空港の第二ターミナル駅から車両の一角に奇妙な三人を乗せながら動き出した。

 モノレールは非常に緩やかに走り出している。特徴的な一本だけのやや太い線路の上を滑るように進む車両の窓の外には、空港の敷地に建てられた大小様々な施設と、その間を走る幹線道路や倉庫が広がっていた。海の上の人工の大地に創り上げられた灰色の街並みの中には、無理矢理付けたかのように緑を発色する木々が植えられている。特に、幹線道路の両端にそれは顕著だった。灰色の地面と壁に覆われた道路に存在する色合いは時折頭上に掲げられる看板くらいなものだ。通る人のためにはああいう木々が必要なのだろう。

 幹線道路から離れると、線路は徐々に海へと近付いていく。海の近くにも倉庫は並んでいたが、その中には船を収納しているものもあるらしかった。コンクリートで覆われた無骨な波打ち際に留められた小さなボートなどは消え去った漁村への憧れを想起させるものであるが、いつまでも景色を眺めてはいられないのがヤスカの現状だった。そう、先ほどから視線を向けまいと努めていた正面には、武藤と百比良が座っているのだ。そして、彼らはこのヤスカを連行できないと分かっていても尾行して来るという厄介者でもある。

「外の景色にももう飽きただろう。そろそろ来日したわけを教えてくれないか、安華」

「この期に及んで天野安門という隠れ蓑は通用しないことくらい、わかってるはずだ」

 武藤と百比良はヤスカを連行できないことを知りながらも、その意地でヤスカに問いかける。それだけ、ヤスカの来日というのは深刻な事態であると考えているのだ。

「それは『仕事』としか言いようがない」

二人の意地にある程度理解を示した上で、それでもヤスカは答えようとはしない。彼が彼自身に課している規則が情報の漏洩を許さないのだ。その規則は生きる上でも指針となるものでもあるため、それを破ることはヤスカ自身にもできはしないだろう。

 だが、それで武藤と百比良が納得することはない。業を煮やした百比良は、捜査員という立場と一人の人間としての立場から、ヤスカという男の在り方を真っ向から非難する。

「その『仕事』で大勢の人を傷付けるつもりか。無実の人々を」

「それは『仕事』の内容による。今回はそうとも限らない。あくまでも、現時点では」

「一体お前は、『仕事』で何をするつもりなんだ」

「それは依頼主との約束に反する。『仕事』の内容を明かすことはできない」

「依頼主? 依頼主とは、誰のことだ」

「それも明かすことはできない。明かせば信頼を失い、生きていけなくなる」

「人の命を危険に晒してでも生きていくのか、お前は!」

「『仕事』の内容によってはそうなるだろう。それが、このヤスカの生き方だからだ」

 畜生、と百比良は唇を噛んでヤスカから顔を背ける。どんな有難い説法も聖書の言葉もこの男には絶望的に届かない気がした。それだけ、目の前に座る男と百比良たちが生きている世界が違うということか。そもそも、この男は人間か? 今はそれすら怪しかった。

 百比良との会話を打ち切り、ヤスカは涼しい顔で再び窓の外を眺め始める。二人の会話を黙って聴いていた武藤は、ここでようやく口を開いた。その切掛は、モノレールがとある駅に停車した際に少し揺れ、それによってヤスカが手に持っていたスマートフォンを床に落としたからだった。腰を曲げて床に落ちたスマートフォンを拾うヤスカの姿を見た武藤は、これほどまでに異質な存在に見えたヤスカも、重力に逆らうことはできない人間であることを確認したのだ。あのヤスカとて、所詮は人間の肉体を持つ者で、こちらとその点においては変わらないのだ。ならば、何と哀れな男だろうか、と。

「安華よ、お前は検問所で百にこう言ったな。お前ごときがこの安華の何を知っているのか、と。ならば逆にお前に問おう。お前は自分を何者だと言うんだ」

 再び動き出した車内で、陽の光を浴びながら武藤はヤスカに問いかける。皮肉を込めた問いかけにヤスカがどう答えるか。答えに窮するか、言い逃れをするか、屁理屈をこねるか。さぁどう答えるのか、と身構えた武藤は、百比良と共に意外なものを見る。

 ヤスカは笑った。マスクをしているからはっきりとは分からなかったが、眉尻を下げている。困っているようにも見えた。その姿に、武藤と百比良の二人は突然、目の前の異様男から人間味を感じる。今まで感じなかったのを、まさかここで感じることになるとは。

「このヤスカが何者かを知るものなどいるはずがない。ヤスカですら知らないのだから」

「何を言っている。お前は社会を脅かす危険人物だろうが」

「今は無害なモノレールの乗客でしかない。不運にも妄執に囚われた二人組に付け回されているがね。困ったものだよ」

 ヤスカの白々しく、被害者のように振る舞う態度により、武藤の闘志に怒りが加わる。気付いたときには、最早ヤスカに対する問いかけではなく、殆ど罵倒に近い言葉を武藤は浴びせていた。だが、それは意外にも的を射ているものでもあった。

「何が無害な乗客だ、この悪党め。『仕事』を請け負って金を稼ぐ生き方で満足してるのかどうかは知らないが、所詮そんなものは使い捨ての駒なんだよ。お前が信頼を失わないように気を付けてる依頼主とやらも、お前のことなんて金で買える安い命だとしか思ってないだろうさ。それに、お前みたいなやつに傷付けられる人たちの命は安くないんだ」

 これ以上ない皮肉を込めた糾弾がヤスカに叩きつけられる。確かに、この指摘はヤスカの生き方を真っ向から否定するものだった。平和な社会で何事もなく生きたいと願う人々を守る立場にある警察官としての立場からすれば、ヤスカのような男の生き方は受け入れられるものであるはずがなかった。それは犯罪者の詭弁に過ぎない、ただの愚説なのだ。

 さあ、何とでも言い返してみろ、その全てを叩き潰してやる。そう言うかのように、言葉を叩きつけた武藤はヤスカを睨み付ける。これにどう言い返すのか、と百比良は密かに狼狽するヤスカの情けない姿を見るのを楽しみにしていたが、ヤスカは武藤の言葉を最初から聞いていなかったのような様子で、あっさりと口を開く。

「確かにその通りだ。その考えに対しては反論の余地はない。依頼主からの信頼を失うわけにはいかないが、それは依頼主との信頼関係を築くのとはまた別の話だからな」

「俺は、いや、俺たちは金で買える安い命しか持っていないお前が、どんなに高い金でも買えない人々を危険に晒したり、命を奪ったりする『仕事』をしていることが許せないんだよ。そのくせ、自分の安い命は一番高いかのように守ろうとするのも許せないんだ」

「分かったらさっさとこの国から出ていってくれないか、お前は疫病神なんだよ」

 武藤の非難に百比良も加勢し、ヤスカの生き方について彼らが感じる矛盾と憤りは遂に露わになる。掛け替えのない人の命を弄ぶ外道が、自身の命だけは必死で守ろうとするのと同じような感覚を、ヤスカの生き方は二人に与えていたのだった。ところが。

「……待て。お前たちは勘違いをしているようだが」

 突然、ヤスカは妙なことを言い出した。一体全体、何を勘違いしていると言うのか。武藤と百比良はあれやこれやと思い当たる節がないかと記憶を辿ってみたが、その口から飛び出した言葉は彼らの想定の遥か彼方までもを超えていく。

「このヤスカは確かに自分の命を守ろうとはする。しかし、それは『仕事』を行う上で倒れるわけにはいかないからだ」

「……何が言いたい。『仕事』を遂行する上での邪魔者を消しても罪にはならないとでも言うのであれば、それも大きな間違いだぞ」

「それが罪かどうかはお前たちが決めることではないし、『仕事』を行う上での邪魔者に容赦はしない。余程のことがなければな」

 武藤は予め逃げ道を潰すが、それでもヤスカの言葉は止まらない。そもそも牽制を牽制とも思ってすらいないようだった。住む世界が違うという事実が滲み出てきている。そして、ヤスカが指摘した勘違いは武藤と百比良がヤスカの生き方について感じる矛盾と憤りさえも根幹から揺るがすことになる。次のヤスカの発言が、二人を混乱の底に落とした。

「お前たちはこのヤスカが自分の命を一番高いもののように扱い、守ろうとしていると思っているのだろうが……そのように思ったことは一度もない。寧ろ、このヤスカの命はこの世の誰よりも安かろう」

 言葉の意味が飲み込めず、武藤と百比良は言葉を失ってしまう。辛うじて武藤は発言について問いかけることができた。それも混乱の中でどうにか言葉を絞り出して、だが。

「何を言っている? お前の命が誰よりも安い? どういうことだ、それは」

「お前たちには分かるまい。生まれたときから人間であったであろう、お前たちにはな」

 つまり、ヤスカは最初から自身の命が依頼者からも金で買える程度の安いものだと分かった上で『仕事』を行っているということになるではないか。それを許容してそうした生き方を選んでいるとしたら、正気を疑う。いや、間違いなく正気ではあるまい。人間であるならば、自分の命に対する執着という本能は並大抵のことでは乗り越えることができない内なる心に聳え立つ障壁であろうものを。少なくとも、平和な家庭に生まれ、親から愛情を受けて育ち、市民の安全を守るという職に邁進している二人には理解が及ばない境地だった。何という男だ、人間だ。……果たして、本当に人間なのか?

 いつの間にか、二人のヤスカに対する怒りや憤りは消え失せ、残ったのは恐怖だけだった。いや、百比良に関しては、この危険人物に対する敵意が芽生えつつあった。この男を社会に解き放てば、必ず不幸になる人々が現れるに違いない。どんなに過酷な覚悟を持っていたとしても、この男を賞賛することなどできはしないのだ。だが、しかし。

 ヤスカに対して浴びせる非難の根拠を失った二人は、もう言葉が出てこなかった。自分たちが出会ったのは、人間とも思えない化け物のような精神を持つ男だったのだ。この男を止めることなどはできるはずもなかったのだ。そう気付いた二人はモノレールの終点に辿り着くまでヤスカから目を逸らし続ける。ヤスカは二人を見つめ続けた。

「前にも言ったと思うが、お前たちに構っている暇もなければ、意味もないことは分かったはずだ。これ以上尾けるようなら邪魔者として扱うことになるが、どうするかね」

 モノレールの終点かつ起点、浜末町駅で座席から立ち上がったヤスカは、まだ座席に座ったままの二人にそう告げる。それに答えられる二人ではなかった。少し遅れて降車した二人は、視界の端で山毛線の改札を通過するヤスカの姿を見つめるしかなかった。


 山毛線の新箸駅で降車したヤスカは、通りを埋め尽くすサラリーマンの波に紛れて駅の近くのビジネスホテルの自動ドアの中に足を運んだ。そこは、SUPホテル新箸・虎ノ紋という全国に展開するチェーンホテルである。照明の光が綺麗に反射する黒い床と磨かれたガラスで覆われたエントランスを通ると、程よく冷房が効いたフロントの受付係の丁寧なお辞儀で出迎えられる。その礼儀正しさに思わず礼を返してカウンターに近付いたヤスカは、予定時間通りにホテルに入れたことに少しだけ安堵しつつ話しかけた。

「チェックインを」

「かしこまりました。お名前をお願いいたします」

「ツインを予約したヤース・K・アドゥワです」

「只今確認いたします。お待ちくださいませ」

 仕事の早い受付係のタイプ音がカタカタとエントランスに響く。数ある名のうちの一つを名乗ったヤスカはカウンターの横の壁に掛けられた絵を眺めることにした。エントランスに飾られた絵画はどうやら、ルネサンス期の画家であるピーテル・ブリューゲルが描いた『叛逆天使の墜落』の模写らしかった。この絵を見たとき、まず目に飛び込むのは天使とは思えない怪物たちの姿だった。絵の中央には剣を構えた天使が君臨しており、怪物たちを罰するかのように剣を振りかざした天使たちが天空から舞い降り、怪物たちは地上へと逃れていく。何とも悍ましい光景だ。これをカウンターの横に置くとは恐れ入る。

「アドゥワ様、ご予約の確認ができました。既に宿泊代はお振込みいただいておりますので、ルームキーをお渡しいたします。こちらはカードキーとなっておりますため、ドアノブの上のパネルにタッチする形でお使いください。ごゆっくりお寛ぎくださいませ」

 カウンターに上のトレーに銀色と黒色で彩られたカードキーが載せられ、深々としたお辞儀と共にヤスカは客人として迎えられる。エレベーターで一〇階まで登り、右側の通路の一番奥、非常階段に隣接する部屋のドアにカードキーをかざすと、カチリという小さな音と共に部屋の鍵は開いた。ルームキーを壁に取り付けられたホルダーに入れると電気が点くが、すぐに他のカードと入れ替える。便利な機能だが、それは部屋の中にいるときに限るものだ。紛失を防ぐという点においてこれに勝るものもないのだが、万能でもない。

 ようやく少しは気を緩められる場所に到着したヤスカはジャケットを脱いでハンガーに掛けてクローゼットにしまうと、ネクタイを緩めながら、静かにベッドに倒れ込んだ。一瞬意識がぼんやりとするが、すぐに我に帰り、アタッシュケースからモノレールの改札で使ったスマートフォンとはまた別のスマートフォンを取り出して再起動させる。

 今回は再起動が一分一秒と待ち遠しかったため、画面に光が戻るとすぐさまパスコードを打ち込み、財布のアイコンのアプリではなく水色の背景に黒い紙飛行機が飛んでいるアイコンのアプリを起動する。そのメッセージアプリは秘匿性が高く、既読後の一定期間で会話の記録が消去されるもので、ヤスカは『仕事』に関する連絡などにこのアプリを重宝しているのだった。また、このアプリはヤスカと他者を繋ぐものの一つでもある。そのアプリにおけるヤスカが保有するアカウントに、新着のメッセージが二つ来ていた。

・一件目……「夕食の招待」

・二件目……「二三日の面会場所」

 一件目のメッセージを確認したヤスカは柄にもなく、青ざめる。あと小一時間ほどで、このホテルに迎えが来る、とは。次の瞬間、ヤスカはベッドから飛び起きてシャワールームに駆け込んでいた。全ては夕食の会場に万全の状態で向かうためである。無事にホテルに到着したからといって、心休まるときなどはなかったのだった。彼の選んだ生き方がそれを許さないとも言えるのだが、いずれにしてもこの国に来て初めてしたことは、シャワーを浴びる、になりそうだった。彼自身が望まずとも、そうするのは彼なのだから。


 時計の短針は日に二度底を指す。その二度目がまもなくやって来る頃に、夕焼けとは無縁の、別種の輝きを放つエントランスにヤスカはその姿を現した。エレベーターの扉が開くとフロントを通り過ぎ、ガラスで挟まれた漆黒の自動ドアへと向かう。

「お気をつけて、いってらっしゃいませ」

 受付係のお辞儀に見送られて外に出る。車寄せを挟んだ向こう側の歩道は、ホテルにやって来たときよりも人で溢れていた。主に人々の流れは二つに大別される。駅へと向かう人と、駅から離れる人だ。そして、ヤスカはそれらを眺める立場でしかない。かつては駅から離れる立場だったが、その前は駅へと向かう立場でもあった。それは今となっては最早過ぎ去ったものだが、道行く人々がまた別の立場を背負うために歩いているのを見ていると、どこへ向かうのかと考えられずにはいられない。彼らとは異なり、ヤスカは根本的には自分自身の立場を変えることはできないからだ。それは行動に応じて変化するものではなく、ヤスカという男そのものの在り方の不変を示しているものだ。いずれにせよ、ありふれた景色はふとした側面から、不意に彼の歪んだ心に入り込んで来たのだった。

 誰にも知られることのない孤独な感傷をひっそりと抱えながら、それでもヤスカは車寄せの向こう側を見続け、迎えの車を待ち続ける。やがて、時計の短針がきっかり底を指す時が来ると、車寄せと車道を繋ぐ入口に二つ目の光を灯した車が滑り込んできた。車寄せと入り口の間に広がる、闇に包まれ始めていた豪華な庭園の樹々と、車道に落ちた木の葉の寂しげな姿を容赦なく照らしながら、黒い車体は暗闇と殆ど同化させたまま、である。

 滑らかに曲がりながら車寄せに停まったこのハイヤーこそが、ヤスカを夕食へと誘う送迎だった。エントランス側の壁から車寄せに伸びる平たい庇に取り付けられた照明によって、初めて光の下にその黒真珠のような車体が晒されている。全体が輝いているわけではないが、照明に照らされた箇所と、未だに闇を残した箇所が同居しているその姿を美しいと評することに躊躇いは必要がないと思えるほどだった。これが、美しさというものか。

「お迎えに参りました、義兄上様。どうぞお乗りください」

 表面に光の波を浴びている漆黒の車から降りて来た初老の運転手は、上品かつ落ち着いた色合いのスーツに身を包み、固めた薄灰色の頭髪を現しながら深々と頭を下げる。義兄上様、という呼ばれ方はあまり心地が良いものではないが、それを一々指摘するほど急いではいなかった。ここはビジネスホテルであるため、車寄せに荷物持ち係が待機しているわけでもないのだ。つまり、義兄上様という呼ばれ方を誰かに聞かれる心配もない。

「少し白くなったな。もう黒染めはやめたのか」

「それでも髪の毛は元気でございますよ。足腰は弱りましたが運転には差し支えません」

 さあ、お乗りくださいと運転手は運転席の反対側に周り、後部座席のドアを開けてヤスカを招き入れる。革製のシートに座ったのを確認すると、運転手は静かに、丁重にドアを外から閉めた。照明の下に晒された車体とは対照的に、車内は薄暗く、運転席と助手席の間に設置されたモニターの僅かな発光だけがやけに目立っていた。運転手の趣味らしく、モニターは基本的に黒色に染まり、再生を中断した楽曲を表すCDの銀色のアイコンが表示されている。それがモニターの僅かな発光の大部分を占め、残りの光はモニターの周りのボタンから発せられるものだった。ここで色彩豊かなカーナビを表示していないところが、運転手の良さでもあった。確かに、薄暗い車内に豊かな発色は似合わないだろう。

「では、発車いたします。シートベルトはお閉めになられましたか」

 運転席に乗り込んだ運転手はバックミラー越しに後部座席の方を見て安全を確認し、ヤスカはそれに首を縦に振ることで応える。肯定を視界の端に捉えた運転手は視線を前に戻し、ハンドルを握った。やがて、ヤスカを乗せた黒塗りの車は車寄せをぐるりと回って夜に染まりつつある街へと躍り出る。道路を駆け抜ける、鋭く黒い車体は周りの景色を光の列に変えて行った。目に悪いほど眩いネオンの街すらも、一瞬の光に作り変えながら。

 いくつかの交差点を過ぎると、ようやく色が変わった赤信号で車は静かに停車する。そこは、新箸から少し離れたプラチナの通りを抜けたところだった。四車線の大通りの両脇には車のライトと街灯で照らされながら、緩やかな風に抜かれて小刻みに揺れる街路樹が果てしなく続いていたが、それらは既に頭の後ろに流れて行った過去になっていた。

「それにしても何年振りですかな、天野様……いえ、義兄上様がご帰国なされたのは」

 窓の外の景色を何となく瞳に映していると、運転手がバックミラー越しにヤスカに視線を移して話しかける。突然の問いかけに思わず視線を前に戻して運転手の顔を見ようとするが、そのときには車は走り出し、運転手はフロントガラスへと向き直っていた。

「……五年振りかな。だが、帰国という言い方は厳密に言えば正しくはない。私の名前が天野安門ではないことくらい、知らない爺やではなかろう」

「いえいえ、義兄上様のご帰国を待ち侘びておられるお嬢様にとってはご帰国でございますよ。あの方は既にこの国を母国となさることに決めておられるのですから。……それにしても、よくぞお戻りになられました。我々も嬉しゅうございます」

「義兄上とそう何度も呼ぶな、その名は私を表すものの一つでしかないのだから」

「これは失礼を」

 短い会話が運転手の軽い謝罪で途切れると、再び車内に静寂が訪れる。そのまま人工の光に包まれた通りから、光がまばらな住宅街の奥へと黒塗りの車は姿を消して行った。照明が降り注ぐ晴れやかな舞台の横を固めている、薄暗い袖へと下がって行くかのように。

 新箸のビジネスホテルから車に揺られ、ヤスカはプラチナの名を冠する閑静な住宅街の一角で停車した。それは一時的な停止ではなく、到着を意味するものだった。緩やかな坂の上に並ぶ住宅街の最奥に広がる広大な敷地と、それを覆う街灯付きの高い石造りの塀。塀の上に瓦を葺きながらも、等間隔に明治のガス灯を想起させるデザインの街灯を設置しているその風変わりな塀の向こう側にある屋敷こそが、この送迎の目的地だった。表札のない正門を固く閉ざしていた薔薇の装飾をあしらった鉄のゲートが静かに開き、車から降りたヤスカを招き入れていた。

「奥様とお嬢様がお待ちです。どうぞお進みくださいませ」

 運転手は車から降りると立ち止まっていたヤスカに一礼し、入門を促した。それに従って頷くと、目の前に聳え立つ、三階建ての屋敷の玄関へと通じる石畳の上を歩き出す。石畳の左右に広がる緑の芝生や色とりどりの草花も日が暮れた今は色を奪われて静まり返っているが、塀と同じく等間隔に地面から生えたガス灯のような街灯に照らされて所々の様子は窺い知ることができた。石畳の左右を覆う芝生からやや離れたところにある、小さな岩で囲まれた池の辺りにも街灯が生やされ、優雅に泳ぐ鯉の姿までもがはっきり見える。

 屋敷の方に目を映せば、白い壁に備え付けられた照明が壁そのものを照らし、闇に覆われた世界の中で、その白い外壁だけが輝いている様子が目に入る。その壁もただ一面が純白に染め上げられているというわけではなく、黒いガラス窓が闇に染まった屋内を示唆していて良い塩梅だった。黒いガラス窓にゆらゆらと浮かぶ庭の街灯ほど、幻想的なものはこの場にはありはしないような気さえしてしまう。それだけ魅力的なものがそこには映っている。明治から時を止めているようにも思える、純白の煉瓦造りの屋敷はこのようにしてヤスカを堂々と出迎えていたのだった。そんな屋敷へとヤスカは一人、向かって行く。

 石畳の道を進んだ先にある、薄茶色で染められた木製の扉に鍵は掛かっていなかった。押せば開くのだが、木製にしては少し重過ぎる。よく見てみれば、扉の表と裏は確かに木材でできているが、その間の四センチメートルほどの隙間は鉄でできているではないか。なるほど、道理で重たいと思うわけだ。ただの扉ではないのだから、当然のことだった。

 扉を開けるとそこは広々とした玄関で、ガラス細工や陶磁器、絵画などいかにも屋敷にはありそうな鑑賞物が置いてある。それらを半分無視しつつ真っ直ぐ進むと、一階から三階までを上からくり抜いたような形の吹き抜けが月明かりに照らされていた。吹き抜けの天井はガラス窓になっているのだ。そして、何も照らされているのは吹き抜けの空間だけではない。そこは、ただの吹き抜けではないのだから。一階から三階までを繋ぐ木製の螺旋階段と、その螺旋の中央の空間に設置された半裸の女神の石像。腰に布を巻き、剣を夜空に掲げて降り注ぐ光を一身に浴びる女神像は、この屋敷の守護を司っていると言っても過言ではない美しさと神々しさを兼ね備えていた。初めてこの屋敷を訪れたときから、この女神は何一つ変わっていない。その美しき巨体に蛇のような螺旋の階段を纏わり付かせながら、永遠にここに君臨し続けている。ヤスカはその階段を登りつつ、ぐるりと回りながらその女神像を見つめ続けて二階へと上がった。女神の体に絡みつく、毒蛇の姿を頭の片隅で想起しながら。

 二階へ上がると、ヤスカは白い壁と茶色い柱に挟まれた廊下を歩き、一番奥の部屋の質素なドアを二回ノックした。そこは屋敷の主人のための部屋だった。お入りなさい、という静かな声が聞こえたため、ドアを開けて入室する。

「失礼します」

 頭を下げて挨拶し、頭を上げると、シャンデリアの鈍い光に彩られた洋室が広がっていた。火が消えたまま、薪木だけがくべられたもう使われていない暖炉に、大の大人が三人は川の字で寝られそうな天蓋付きのベッドや、中庭を一望できるバルコニーに通じる大きなガラス窓で構成された室内は豪華そのものである。ただ一つ、この部屋の主だけが豪華さとは無縁の佇まいで来客を出迎えていた。尚、部屋の主は屋敷の女主人でもある。

「お久しぶりね、ヤスカさん。……いえ、天野さんと呼ぶべきなのかしら、今は」

 衰えを知らないようにも見える見事な銀髪を短く切り揃え、ゆったりとした黒いワンピースに身を包んだ女主人は、七二歳とは思えないほどに正しい姿勢で革製のソファから立ち上がり、扉の前に立っているヤスカの前に来て手を握る。ヤスカも手を握り返し、改めて挨拶を述べる。

「……カミーラ様もお変わりないようで安心しました。五年もの間彼女を預かるだけでなく、学校に通わせるなどの援助をいただいたことは感謝してもしきれません」

「あの子のことなら、寧ろ私が感謝するべきよ。子どももいなかった私が、今はあの子の将来が楽しみで元気になったくらいですもの」

 屋敷の女主人、カミーラ=A・イン・ザ・ヘラの最近の元気の源は自分の娘として預かった養女の成長と、その将来に対する期待であると言う。そして、その娘こそが、ヤスカの心に咲く一輪の華なのだ。挨拶を終えた二人はテーブルを囲み、カミーラが入れたコーヒーを飲みながら近況を語り合う。

「この春からあの子も中学生になるのよ。小中一貫校だからそこまで大事とも思っていなかったようだったけれど、新しいクラスに馴染めるのか心配で心配で……」

「友だちはいないのですか? 確かに、少し心配になりますが」

「クラスで何人か話す子はいるとは聞いたことはあるけれど、家に連れて来たことはないわ。特に、男の子はだめみたい。子どもにしか見えないの一点張りで、話すのも嫌って」

「男は、いつになっても童心を心に残しているものですから」

「ヤスカさんと暮らしていた時間が長いぶん、そうなるのも仕方ないのかしらね……年上のお兄さんと比べれば、同い年の男の子は幼稚に見えてしまうものなのかも」

「……まあ、そんなところでしょう」

 軽く肯定しつつ、ヤスカは改めてカミーラの、ヤスカと「あの人」との関係に対する認識がどういうものだったかを思い出していた。そうだった。カミーラにとって、ヤスカと「あの人」は『兄と妹』だったのだ。兄弟という認識で考えた場合、厳密には『姉と弟』と表現するべきなのだけれども。二四歳のヤスカと、一三歳として生活している「あの人」の関係性は、正確に言えば『姉と弟』の他にも言いようがあるのだが、それはまた別の話だ。少なくとも、カミーラにとっては『兄と妹』のままで良い。その方が幸せだ。知らない方が良いこともあるのだから。知っているのは二人だけで良いのだ。

 そんなヤスカの内なる奇妙な葛藤を知らないまま、コーヒーを飲み干したカミーラはコーヒーカップをプレートに置く。それは合図だった。話を終え、この屋敷にやって来た目的の一つを果たすときが来たことを示していた。カミーラは優しく微笑み、口を開く。

「あの子も貴方を待ち侘びているわ。こんなところで老婆心の長話に付き合うより、行くべきところがあるでしょう?」

 「あの人」にとって、またはヤスカにとっても初めて出会った親と呼べる存在であるカミーラは、ヤスカの背を押して再会への階段を登らせようと努めてくれた。それに対して素直に感謝したヤスカは、女主人の部屋を出て再び吹き抜けに戻り、女神像の滑らかな肩を眺めながら階段を上がって行く。緊張の裏腹に微かな高揚を覚えつつ、それから目を背けて冷静を装いながら。

 ホテルで車に乗り込んでから小一時間ほどが経ち、吹き抜けを照らす月明かりはますます強まり、怪しげな雰囲気を女神像と、それに纏わり付く階段に与えている。その螺旋の果てに三階の廊下は続いているが、三階の様子は吹き抜けとはまた違うようだった。

 五年前、二階と三階の廊下にそこまでの差はなかった。二階の廊下は白い壁と茶色い柱に挟まれ、赤い絨毯が敷かれていた。所々には花が生けられた壺や絵画が配置されているその光景は、いかにも屋敷の廊下であった。だが、今目の前に広がる三階の廊下は最早廊下という言葉すら当てはまらないように見えてしまう。まず、壁も床も天井も、その全てが白かった。果てしない白の世界に迷い込んだかのような錯覚すら覚えてしまうほどだ。通路、廊下という空間としての認識がそこには通用しない。ただ一つ、白の世界の果てに見える黒い扉だけが、この奇妙な空間から脱出する方法に思えた。その唯一の救いに縋らざるを得なくなるような扉の存在は、意図的に白の世界に迷い込んだ者を吸い寄せる役割を持っているようだった。そして、恐らくその予想は正しかったと思う。

 ヤスカ自身が、自らを待ち受ける「あの人」がいるであろう部屋に向かうという緊張をふと忘れて、この白の世界からの脱出を求めて気付いた時には扉の前に立っていたからだった。ものの見事に、吸い込まれたのだ。ヤスカは見事に引っかかってしまった自分に少しだけ笑った。これでは、まるで「人間」そのものではないか。そうとも限らないのに。

 長い廊下を白の世界の策略によって一瞬で通り過ぎたヤスカは、黒い扉の前で立ち尽くした。扉に手を伸ばし、また引っ込めることを数回繰り返すと、いつの間にか自分がとてつもなく重たい扉の前に立っているような気分になって来る。この扉を開くことに躊躇いがないわけではないが、開けなければ会うことはできない。『仕事』のためだとしても、ここまで来たのだから会いたいことに変わりはないはず。ヤスカよ、覚悟を決めるのだ。

 そう自分に言い聞かせたヤスカは、実際には木でできているであろう、重くもないはずの扉をノックして、返事を聴くよりも前に、やけに重々しく慎重に開いて行く。返事を確認するべきかと迷ったが、声を聴いたら聴いたでまた新たな躊躇いが生まれる気がしたため、そのまま扉を開き続けた。遂にヤスカにとっての禁断の扉が開かれる時が訪れた。

 扉がゆっくりと開け放たれると、部屋の中の様子よりも先に目に入ってくるものがあった。薄暗い部屋の中で揺れる銀色の影。小さな机の上に置かれた燭台から放たれる光を受けて煌めく銀髪に気付くまでには数秒を要した。つまり、扉の前では、ヤスカの肘くらいの背丈の人物が待ち構えていたのだった。それは、「あの人」以外には考えられない。

 言うことを聞かない体をどうにか従え、恐る恐る頭を下げて目の前に立つ、顔の見えない人物の分かりきった正体を確認しようとする。下を向いて見れば、ヤスカの顔を見上げている人物と視線が正面からぶつかった。

 黒に染まりながらも、淡い輝きを放つ真珠のような瞳。繊細に輝く銀髪は背中まで伸びている。背はそれほど高くはないものの、その目は見たもの全てを従えるかのような力に満ちている。それでも美しさを損なわない奇跡とも言える調和を兼ね備えた少女は、その整った顔つきでヤスカを見上げ続けている。ヤスカは少女の瞳に覗き込まれ、無意識のうちに跪いていた。少女の目線から逃れたかったからではない。そうせざるを得ないと言うよりも、そうすることに一切の躊躇いはなく膝を曲げて少女の目の前に平伏していた。

 一方の少女は跪いたヤスカに驚くこともなく、滑らかに視線を上から下に移動させてヤスカを見つめ続ける。顔が少し動いたことで身に纏っていた制服のスカートが少しだけ揺れた。更に、跪いたヤスカの頭に高さを合わせるように少女は床に膝をつく。スカートを巻き込まないように広げながら座ったことで、床に一輪の華が開いた。

「やっと帰って来たのね、顔をあげて良いのよ」

 ヤスカの耳元に顔を近付け、蕩けるように甘く、透き通る声で囁くと、少女は歳と外見に似合わぬ落ち着き振りで跪く僕の頭を優しく撫でた。それだけで良かった。ヤスカの心に咲いた一輪の華はそれだけで潤いを取り戻し、用意した言葉は全て吹き飛ぶ。この場合は、吹き飛んだことが却って良かったかもしれなかった。取り繕った陳腐な言葉よりも、今はこの瞬間がヤスカにとって唯一の救いだった。『仕事』を請け負って荒んで行く心を癒してくれる唯一の存在に再会しただけで、十分だった。

 薄暗い部屋の中でヤスカは銀髪の少女に頭を撫でられながら何も言わず、一瞬の永遠を噛み締める。だが、ヤスカは忘れていた。自分だけ満たされて、満たすことを。

 いつまでも顔を上げずに撫でられていると、突然少女の頭を撫でていない方の細くて白い手のひらが伸びて来て、ヤスカの右の頬に触れる。次に、頭を撫でていた方の手のひらも離れて左の頬に触れた。次の瞬間、ヤスカの顔は小さな力で上げられそうになる。上がるには足りない力だったが、ヤスカ自身が顔を上げようとするには十分な効果があった。

 肩まで伸びたヤスカの髪に手が触れると少女はくすぐったい、と小さく微笑みの吐息を漏らし、ヤスカの顔を見ると静かに微笑んだ。その微笑みはヤスカの不安や躊躇いを消し

飛ばし、この国に来て良かったとさえ思わせるものだった。

「あなたのことだから、『仕事』も兼ねて帰って来たんでしょう?」

 お見通しよ、と言わんばかりに優しい瞳で少女は語りかける。それはそうだがそれは建前で、とヤスカは反論しようと口を動かそうとするが、それはできなかった。何故か?

 少女の手をヤスカの両頬に触れさせていた腕が、その腕が生えている少女の体が、跪いたヤスカの体を包み込んだからだった。『兄と妹』や『姉や弟』よりも親子のような関係を感じさせる、暖かくも奇妙な光景が広がる。一三歳の少女が母として、子のように二四歳のヤスカを癒しているのだ。二人の間に違和感はなくとも、事情を知らぬ者が見れば首を傾げるだろう。二人の世界はそれだけ、他人が入り込む余地はなかった。

 そうだとしても、当の本人である、少女の温もりに包み込まれたヤスカも、混乱していた。無理もないことだ。突然の抱擁に乱され心がそう簡単に落ち着くはずもない。混乱が極まり、和やかな雰囲気の中で無意識に呟いてしまう。

「イノセンス……君はそうだと知ってこのヤスカを受け入れようと言うのか」

「その通りよ……でも、その名前で呼ばれるの、好きじゃないわ」

 好きじゃない、という言葉を恐れたヤスカはびくり、と背中を振るわす。すぐさま顔を下げて謝ろうとしたが、それは少女によって必要がないことが示される。背中に回された少女の手のひらが、優しくヤスカの背中をトントンと叩いた。それだけでヤスカを襲った動揺は消え失せ、二人は至福の時を再会する。益々暗くなる部屋の中で、二人の心は境界がなくなるまで溶け合い、互いを癒し合った。幸福は、そこに確かに存在していた。


 それからどれだけ時間が経っただろうか。部屋の締め切ったカーテンの隙間から眩い一筋の光が二人を照らす頃、少女はヤスカに優しく語りかけた。

「今日から『仕事』ね。ほんの少しだけど、心配だわ」

「大丈夫。もう、大丈夫だ」

 少女に抱きしめられたまま、抱きしめたまま、ヤスカは瞳を固く閉じた。『仕事』に巻き込むわけにはいかない。このヤスカが倒れるわけにはいかない。誰も守る人が居なくなってしまうから。悲しませるわけにはいかないから。この命が誰よりも安かろうとも。


 ヤスカは一人の娘を守る父のように、また少女を抱きしめ続けた。

 少女も愛する息子を癒す母のように、ヤスカを抱きしめ続けた。

 互いに依存し合う二人を引き裂くことができる者はこの世界にいなかった。二人だけの世界とはそういうものだから。たとえそれが、どれだけ狂った世界だったとしても。

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