序章 ②
(……どうしよう)
床を見つめながら、よろよろと立ち上がる。皇太后は優しかったけれど、ほかの妃嬪たちからは失笑されてしまった。なにより、帝はどう思ったのだろうか。
「チッ」
耳元で舌打ちが聞こえ、毒々しいほどの赤い着物が視界に入り、濃厚な甘い香りが鼻をつく。
「こんな卑しい身分の者を後宮に入れるとは……皇太后もなにを考えているのやら」
声の主は皇太貴妃・麗妃(れいひ)で、後宮の管理采配を行う後宮指南役だ。
(卑しい身分……)
あまりの言われように、呆然としてしまう。
「花菫様! お疲れになりましたでしょ」
「
立ち尽くしている花菫に明るく声をかけてくれたのは、侍女の碧玉だ。
「さあさあ、部屋に戻って休みましょう。内務府からお茶をいただいてきましたから。あ、それから甘〜い点心もご用意してますよ」
碧玉は遠い親族の娘で、花菫と同じ十七歳。内向的で家にこもりっきりだった花菫と違い、活発で明るく、よく気が利く。碧玉の気遣いに弱々しい笑みで応え、謁見の室をあとにする。
御道に出たところで花菫に声をかけてきたのは。
「あら?
「あなた
二人は脇に籠を待たせておしゃべりをしていたらしい。
「はい……恐れ入ります」
そう答えて頭を下げる。花菫はまだ答応という低位の妃なので籠はなく、後宮の奥にある自分の宮まで歩いて帰らなければならない。
「奥州ってずいぶん野蛮な土地だと聞いたわ。ご実家はなにを?」
不躾に聞いてきたのは金貴人だ。薄桃色の着物に濃い薔薇色の披帛を合わせている。隣の夏貴人は藤の花のような淡い紫に、披帛は薄い黄色だ。
「雑貨商を営んでおりました」
視線を地面にさまよわせて答えると、「ええ!」「雑貨商⁉」と素っ頓狂な声が上がった。
「奥州の雑貨屋の娘がなんでここに? 私の父は軍機処次相の金武漢よ」
「信じられない、平民じゃないの。私の家は清洲領主、名家の夏家よ」
鼻息荒く言われるが、花菫はどう答えていいかわからない。
「教えてあげる。ここではなにより身分が尊ばれるの。同じ後宮にいるからって、勘違いしないようにね」
「あなたと私たちじゃ、生まれも育ちも違うんだから。身の程をわきまえて行動しなさいよ」
それから花菫の着物をなめるように見て、「ぷっ」と鼻で笑うと、二人は満足げに籠に乗って帰っていった。
花菫は息もできずに、ひたすら地面を見つめるばかりだった。後宮が楽しいところだと思って来たわけではないが、すでに心が折れそうだ。
「……なんですかあれ。
「えっ⁉」
碧玉の強烈な
「金貴人、あんなに太っているのに薄い色の着物を着たら、余計に膨らんで見えます。色合わせも桃色の濃淡って、ぼんやりしていて趣味が悪いです」
「ちょっと……碧玉ったら」
「そして夏貴人の服! 黄色って! 皇室の色ですよ? どれだけ名家でも、一介の妃が使っていい色ではないです。不遜にもほどがあります。あとやせぎすで貧相」
「碧玉!」
さすがに強めに注意するが、碧玉は悪びれた様子もない。
「気にすることありませんよ。花菫様はかわいいですから。後宮なんて、結局寵愛を受けた者が勝つんです。すぐに伽の声がかかって、一気に貴人、いや妃です!」
自分を励ましてくれているつもりなのはわかるが、花菫は誰かに聞かれないかとひやひやしっぱなしだ。
それに、寵愛だ、伽だと言われても、花菫はもちろん、それがどのようなものなのかを知らない。男性に触れたのも、幼いころ亡くなった父と、年の離れた兄くらいだ。正直言って怖い。
「ですから花菫様!」
「はっ、はいっ⁉」
突然、碧玉に手を握られる。
「もっと自信を持ちましょう! ほら、下ばかり見てないで、ちゃんと顔を上げてください。そんなんじゃ、周りも自分も、なにも見えませんよ」
そう。碧玉には後宮入りしてから何度も「顔を上げて」と注意されている。
でも、それは花菫にとってなにより難しいのだ。どうしても下を向いてしまう。
「……励ましてくれてありがとう、碧玉」
人の気配がないことを確認して、そろそろと顔を上げる。高い塀に区切られた水色の空が見えて、少しだけ気分が晴れる。
(……がんばらなきゃ……家のためにも、碧玉のためにも)
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