第35話 さよならは、成長の名前で
「私たちの期間限定の結婚、今日で終わりにします。」
その言葉が落ちた瞬間、空気が凍りついた。
炎のゆらめきが止まり、時までも息をひそめる。
ただ、重たい沈黙だけが部屋に残った。
けれど、
「今日で終わりにします。」
好きという気持ちに、理由なんてない。
ひとりで盛り上がり、ひとりで沈んでいくだけの感情。
孤独な祭りのように――彼はそう思った。
その瞳の奥には、愛しさと寂しさが入り混じり、風に波立つ池のような揺らぎがあった。
一方で
その笑みは、和離を喜ぶものではない。
――幼いころから守ってきた少女が、ついに自分の世界で立ち上がった。
ただそれだけのことが、胸の奥をゆっくりと温めたのだ。
彼女の笑顔は、もう子どものように頼りないものではなかった。
凛として、まっすぐで、初めて「強さ」という光を宿していた。
外では、雨が静かに降り続いていた。
雫が屋根を伝い、石段を叩く音がやけに鮮やかに響く。
まるで、誰かが「もう手放していい」と囁いているようだった。
薄暗い光の中、錆びた錠前が赤黒く光っている。
その鍵穴の形に、彼女は見覚えがあった。
袖口に忍ばせていた玉簪――それとまったく同じ形。
今、それが過去を断ち切る「鍵」になるなんて、誰が想像しただろう。
あるいは、あれは彼が彼女に「選ぶ権利」を託した証だったのかもしれない。
たとえその選択が
カチリ。
乾いた音とともに、鍵が外れる。
……
だが次の瞬間、
唇にいたずらな笑みを浮かべると、ぐっと力を込め――彼を中へと押し込んだ。
「……え?」
「
「お兄様。」
彼女は手についた埃を払い、淡々と告げた。
「中でよく反省してくださいね。
揺れる灯の影だけが、牢の中をぼんやり照らしていた。
「あなたもよ、
「お兄様は知らないでしょう? 彼は出ようと思えば出られたの。でも、捕まえたのがあなたと知っていたから、私がどちらを選ぶか見たかったのよ。わざと『何もしない』ふりをして、周りに『自分は無実だ』と思わせる……ほんと、男の人ってどうしてこう駆け引きが好きなのかしら。」
「三。そこにいるでしょう?」
空気がぴたりと止まる。
「あなたの体から、青りんごの香りがするわ。
次の瞬間、梁の上から小さな咳払いが聞こえた。
「へへっ……皇子妃殿下、バレちゃいましたか。」
三は頭をかきながら、気まずそうに飛び降りる。
「いいわ。あなたがこの騒動の立会人。二人が本音を全部話して、不満も誤解も吐き出すまで、誰も牢から出してはダメ。もし彼らが出ないなら、あなたも付き合いなさい。」
「……えっ、あ、はい。承知しました、殿下。」
三は苦笑いを浮かべ、しぶしぶうなずいた。
振り返ると、
雨音に混じって、彼の呼吸が小さく響く。捨てられた子犬のように。
少しだけ立ち止まり、
「
その言葉は、
「……それにね。」
彼女の瞳はまっすぐだった。
「私はこのまま一人で生きるかもしれないし、もっと素敵な夫を見つけるかもしれないわ。」
そう言って、彼女は軽やかに背を向けた。
雨の光が髪に散り、金の糸のようにきらめく。
その笑みは灯火のように明るく、夜の中で自身の道を照らしていた。
――あれは、わがままなんかじゃない。
あれは、成長という名の「さよなら」だった。
彼もまた――すべてを知りながら、何も言わなかった一人なのだろう。
「……お兄様と
「そりゃあもう。貴族ってのは、人を振り回すのが得意ですから。」
冗談めかした声の奥に、ほのかな罪悪感が滲んでいた。
「肩のほうは……もう平気ですか?」
「ええ、もうほとんど治ったわ。お兄様は医術にも詳しいの。
私が小さいころ病弱だったから、自分で勉強してくれたのよ。
きっと今回も、傷跡が残らないように薬を調合してくれたんだと思う……だって、お兄様は、私に傷なんて残したくない人だから。」
「本当に……いい兄妹ですね。」
まるで幼いころ、「私のお兄様はすごいの」と自慢していたあの頃のように。
……お兄様の偏った愛情も、きっと自分がその優しさに甘えすぎたせいなのだ。そう思うと、胸の奥が少し痛んだ。
「……行きましょう、
河口では、遠くから兵たちの掛け声が響き、引水渠の工事は着々と進んでいた。
上流では、仮設の締め切り堤もほぼ完成に近い。
軍営では避難民の列が整理され、炊き出しの湯気が立ちのぼっている。
傷を負った者は治療を受け、子どもたちは温かな粥を手に笑っていた。
すべては――
「……まったく、この二人。喧嘩さえしてなければ、三日で国を変えられるのに。」 その声には、呆れと同じくらいの誇らしさが滲んでいた。
……自分に今、何ができるだろうか。
名も知らぬ者たちのために、袖をまくり、ゆったりと香を焚く。
香煙が風に揺れ、やがて空へと消えていった。
彼女は民たちと同じ列に並び、同じように頭を垂れた。
守られる姫ではなく、同じ地に立つひとりの人間として。
祈りの香がまだ漂う中、
「……もう、私は皇子妃ではありません。だから、あなたが守るべき立場にもいません。」
言葉は穏やかだが、どこかに決意の硬さがあった。
「でも――友人として、ひとつお願いがあります。」
「……お願い、ですか?」
「林家の兵を、もう少しだけ貸してください。彼らなら、賄賂にも動じず、まっすぐに働いてくれるはずです。今、必要なのは『忠誠』ではなく、『誠実』です。」
「……それから、もうひとつ。あなたに、この堤の監を任せたい。ここに残って、彼らの作業を見届けてください。できますか、
しばしの沈黙ののち、
「承知しました。命を懸けて、この地を守ります。」
その夜。仮設の灯の下で、
『お父様へ。
私と
この選択が正しいのかどうか、今はまだ分かりません。
それでも――これは、私自身が選んだ道です。
突然のことで、きっとお父様やお母様、そして本家の皆様にもご迷惑をおかけすることでしょう。
心よりお詫び申し上げます。
そして、もうひとつお願いがございます。
彼ならば、民の汗を金に変えようとする者たちを抑え、
誠実にこの地を守り抜いてくれるはずです。
どうかお体をおいといください。
外ではまだ、遠くで水の音がしている。
その音は、彼女の決意を洗い流すように澄んでいた。
ーーーーーーー
後書き:
今日は中秋ですね。
本当なら「団円」の場面がふさわしい日なのに、
今夜は
でも――誰かと寄り添うことだけが、団円ではありません。
自分を愛し、自分の足で立つことも、きっともうひとつの団円だと思っています。
どうかみなさんも、家族と笑い合えますように。
そして、自分自身の幸せも、どうか忘れませんように。
あなたの今日が、穏やかで、健康で、やさしい光に包まれていますように。
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