第35話 さよならは、成長の名前で

「私たちの期間限定の結婚、今日で終わりにします。」


 その言葉が落ちた瞬間、空気が凍りついた。

 炎のゆらめきが止まり、時までも息をひそめる。

 ただ、重たい沈黙だけが部屋に残った。


 秋音シュウインはたくさんの言葉を口にした。

 けれど、景澄ケイチョウの胸に残ったのは、たった一言だけ。

「今日で終わりにします。」


 好きという気持ちに、理由なんてない。

 ひとりで盛り上がり、ひとりで沈んでいくだけの感情。

 孤独な祭りのように――彼はそう思った。


 景澄ケイチョウ秋音シュウインを見つめながら、言葉を失っていた。

 その瞳の奥には、愛しさと寂しさが入り混じり、風に波立つ池のような揺らぎがあった。


 一方で沈言シンゲンは、そんな二人を見つめながら、ふっと微笑んだ。

 その笑みは、和離を喜ぶものではない。

 ――幼いころから守ってきた少女が、ついに自分の世界で立ち上がった。

 ただそれだけのことが、胸の奥をゆっくりと温めたのだ。

 彼女の笑顔は、もう子どものように頼りないものではなかった。

 凛として、まっすぐで、初めて「強さ」という光を宿していた。


 外では、雨が静かに降り続いていた。

 雫が屋根を伝い、石段を叩く音がやけに鮮やかに響く。

 まるで、誰かが「もう手放していい」と囁いているようだった。


 秋音シュウインはゆっくりと振り返り、牢を見つめた。

 薄暗い光の中、錆びた錠前が赤黒く光っている。

 その鍵穴の形に、彼女は見覚えがあった。

 袖口に忍ばせていた玉簪――それとまったく同じ形。


 沈言シンゲンが十四歳の誕生日に贈ってくれたものだ。

 今、それが過去を断ち切る「鍵」になるなんて、誰が想像しただろう。

 あるいは、あれは彼が彼女に「選ぶ権利」を託した証だったのかもしれない。

 たとえその選択が景澄ケイチョウであっても、沈言シンゲンならきっと、責めたりはしなかっただろう。


 秋音シュウインは小さく息を吐き、微笑むと、袖から玉簪を取り出し、錠前に差し込んだ。


 カチリ。

 乾いた音とともに、鍵が外れる。


 沈言シンゲンは一瞬、目を見開いた。


 ……景澄ケイチョウを出すつもりか。まあいい。自分の望んだ形ではなくても、結果は同じだ。これでようやく、すべての絡まりが終わるのなら。


 だが次の瞬間、秋音シュウインはくるりと身を翻し、沈言シンゲンの衣の裾をつかんだ。

 唇にいたずらな笑みを浮かべると、ぐっと力を込め――彼を中へと押し込んだ。


「……え?」

 沈言シンゲンが声を上げる間もなく、足を滑らせ、鉄の中へ転がり込む。

秋音シュウイン、おまえ……」


「お兄様。」

 彼女は手についた埃を払い、淡々と告げた。

「中でよく反省してくださいね。景澄ケイチョウとちゃんと話ができるまで、誰も出られません。」


 沈言シンゲンは呆然と立ち尽くし、景澄ケイチョウは俯いたまま動かない。

 揺れる灯の影だけが、牢の中をぼんやり照らしていた。


「あなたもよ、景澄ケイチョウ。反省しなさい。失敗のせいじゃなくて――私を信じなかった、そのことを。」


 沈言シンゲンが眉をひそめる。「どういう意味だ、それは?」


 秋音シュウインは小さく笑い、肩をすくめた。

「お兄様は知らないでしょう? 彼は出ようと思えば出られたの。でも、捕まえたのがあなたと知っていたから、私がどちらを選ぶか見たかったのよ。わざと『何もしない』ふりをして、周りに『自分は無実だ』と思わせる……ほんと、男の人ってどうしてこう駆け引きが好きなのかしら。」


 沈言シンゲンの目が見開かれ、景澄ケイチョウの肩が小さく震えた。


 秋音シュウインはふと天井を見上げ、口元をゆるめる。

「三。そこにいるでしょう?」


 空気がぴたりと止まる。


「あなたの体から、青りんごの香りがするわ。小青シャオチンが調合した香り。二人の男は気づかないでしょうけど、私は小さい頃から香を調合するのが好きなの。」


 次の瞬間、梁の上から小さな咳払いが聞こえた。

「へへっ……皇子妃殿下、バレちゃいましたか。」

 三は頭をかきながら、気まずそうに飛び降りる。


 秋音シュウインはため息をつき、玉簪を手渡した。

「いいわ。あなたがこの騒動の立会人。二人が本音を全部話して、不満も誤解も吐き出すまで、誰も牢から出してはダメ。もし彼らが出ないなら、あなたも付き合いなさい。」


「……えっ、あ、はい。承知しました、殿下。」

 三は苦笑いを浮かべ、しぶしぶうなずいた。


 秋音シュウインは鉄の扉を閉め、再び錠をかけた。


 振り返ると、景澄ケイチョウはまだ俯いたまま座っていた。

 雨音に混じって、彼の呼吸が小さく響く。捨てられた子犬のように。


 少しだけ立ち止まり、秋音シュウインは柔らかく告げた。

景澄ケイチョウ。もしかしたらこの和離こそ、あなたが言っていた『愛するチャンスをくれ』って言葉への、いちばんの答えなのかもしれないわ。」


 その言葉は、景澄ケイチョウには希望を、沈言シンゲンには遅れて痛むような失望を残した。


 秋音シュウインは小さく微笑み、外の闇を見上げた。

「……それにね。」

 彼女の瞳はまっすぐだった。

「私はこのまま一人で生きるかもしれないし、もっと素敵な夫を見つけるかもしれないわ。」

 そう言って、彼女は軽やかに背を向けた。


 雨の光が髪に散り、金の糸のようにきらめく。

 その笑みは灯火のように明るく、夜の中で自身の道を照らしていた。


 沈言シンゲンは、その背中をただ黙って見つめていた。

 ――あれは、わがままなんかじゃない。

 あれは、成長という名の「さよなら」だった。


 秋音シュウインが県令の屋敷を出ると、外で待っていた許年キョネンの姿が目に入った。

 彼もまた――すべてを知りながら、何も言わなかった一人なのだろう。


 秋音シュウインと目が合うと、許年キョネンは気まずげに小さく会釈した。


「……お兄様と景澄ケイチョウの間で、あなたも苦労したでしょう?」

 秋音シュウインが微笑むと、許年キョネンも苦笑いを返す。

「そりゃあもう。貴族ってのは、人を振り回すのが得意ですから。」


 冗談めかした声の奥に、ほのかな罪悪感が滲んでいた。

「肩のほうは……もう平気ですか?」


 秋音シュウインはそっと右肩を押さえ、穏やかにうなずいた。

「ええ、もうほとんど治ったわ。お兄様は医術にも詳しいの。

 私が小さいころ病弱だったから、自分で勉強してくれたのよ。

 きっと今回も、傷跡が残らないように薬を調合してくれたんだと思う……だって、お兄様は、私に傷なんて残したくない人だから。」


 許年キョネンは少し照れくさそうに笑ってうなずいた。

「本当に……いい兄妹ですね。」


 許年キョネンの言葉に、秋音シュウインはふっと誇らしげに微笑んだ。

 まるで幼いころ、「私のお兄様はすごいの」と自慢していたあの頃のように。


 ……お兄様の偏った愛情も、きっと自分がその優しさに甘えすぎたせいなのだ。そう思うと、胸の奥が少し痛んだ。


「……行きましょう、許年キョネン。救援の進み具合はどう?前線を見に行きたいの。」

 秋音シュウインは雨上がりの街路を踏みしめるように歩き出した。


 河口では、遠くから兵たちの掛け声が響き、引水渠の工事は着々と進んでいた。

 上流では、仮設の締め切り堤もほぼ完成に近い。

 軍営では避難民の列が整理され、炊き出しの湯気が立ちのぼっている。

 傷を負った者は治療を受け、子どもたちは温かな粥を手に笑っていた。

 すべては――沈言シンゲン景澄ケイチョウが、それぞれ別の場所で手を尽くしてきた成果だった。


 秋音シュウインはその光景を見渡し、思わず小さく笑みを漏らす。

「……まったく、この二人。喧嘩さえしてなければ、三日で国を変えられるのに。」 その声には、呆れと同じくらいの誇らしさが滲んでいた。


 ……自分に今、何ができるだろうか。


 秋音シュウインは少しだけ考え込み、泥の上に膝をつき、手ずから簡素な祭壇を整えた。

 名も知らぬ者たちのために、袖をまくり、ゆったりと香を焚く。

 香煙が風に揺れ、やがて空へと消えていった。


 彼女は民たちと同じ列に並び、同じように頭を垂れた。

 守られる姫ではなく、同じ地に立つひとりの人間として。


 祈りの香がまだ漂う中、林蕭リンショウが足音も立てずに近づいてきた。

 秋音シュウインは気づくと、指先で衣の裾を整え、優雅に身をかがめた。

「……もう、私は皇子妃ではありません。だから、あなたが守るべき立場にもいません。」

 言葉は穏やかだが、どこかに決意の硬さがあった。

「でも――友人として、ひとつお願いがあります。」


 林蕭リンショウは少し驚いたように目を上げる。

「……お願い、ですか?」


「林家の兵を、もう少しだけ貸してください。彼らなら、賄賂にも動じず、まっすぐに働いてくれるはずです。今、必要なのは『忠誠』ではなく、『誠実』です。」

 秋音シュウインは一拍おいて、まっすぐに林蕭リンショウを見つめた。

「……それから、もうひとつ。あなたに、この堤の監を任せたい。ここに残って、彼らの作業を見届けてください。できますか、林蕭リンショウ。」


 しばしの沈黙ののち、林蕭リンショウは深く頭を下げた。

「承知しました。命を懸けて、この地を守ります。」


 その夜。仮設の灯の下で、秋音シュウインは筆をとった。紙の上にゆっくりと墨が滲んでいく。


『お父様へ。

 私と景澄ケイチョウは、和離することを決めました。

 この選択が正しいのかどうか、今はまだ分かりません。

 それでも――これは、私自身が選んだ道です。

 突然のことで、きっとお父様やお母様、そして本家の皆様にもご迷惑をおかけすることでしょう。

 心よりお詫び申し上げます。

 そして、もうひとつお願いがございます。

 林蕭リンショウ殿に、工部の監督官としての任を、どうかお取り計らいください。

 彼ならば、民の汗を金に変えようとする者たちを抑え、

 誠実にこの地を守り抜いてくれるはずです。

 どうかお体をおいといください。

 秋音シュウインより。』


 外ではまだ、遠くで水の音がしている。

 その音は、彼女の決意を洗い流すように澄んでいた。


 ーーーーーーー

 後書き:

 今日は中秋ですね。

 本当なら「団円」の場面がふさわしい日なのに、

 今夜は秋音シュウインひとりの物語になってしまいました。


 でも――誰かと寄り添うことだけが、団円ではありません。

 自分を愛し、自分の足で立つことも、きっともうひとつの団円だと思っています。


 どうかみなさんも、家族と笑い合えますように。

 そして、自分自身の幸せも、どうか忘れませんように。

 あなたの今日が、穏やかで、健康で、やさしい光に包まれていますように。

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