第6話 伊勢②

「九条さん……。本当にここに泊まるの?」


 旅館の入り口に立った海羽は、自分の瞳に映る光景に絶句した。石畳の道を照らすように灯籠が並んでいる。日が沈みかけているのもあり、淡い光が旅館までの道を照らしているのはとても幻想的だった。

 中へ入ると、大きなフロアに豪華な鉢が置かれ、そこから鮮やかな花を咲かせた木が顔をのぞかせている。


「部屋には露天風呂があるんだってっ!」


 シビルバンドで旅館のホームページを見ながらヒカリが口にする。部屋に露天風呂? そんなのは高校生が泊まっていい部屋ではない。


「九条さん、絶対高いよね? 高すぎるよねっ?」


 ヒカリは逡巡した末、バツが悪そうに口にした。


「予約した時に、スコア割引が自動で効いてね。ビジネスホテルとあまり変わらない値段なんだ。ごめんね」


 ヒカリが謝ったのは、スコアの優遇を受けたことが、この旅の趣旨と反しているからだろう。だが、それはヒカリのせいではない。この社会がそういうふうに出来ているのだ。


「九条さんが謝ることじゃないよ。というか、やっぱり九条さんはすごいねっ」


 海羽は明るく振る舞おうとしたが、どうしてもぎこちなくなってしまった。

 私が気にしたら、九条さんはもっと気にしちゃう。


「師匠。怒ってる?」


 ヒカリは雨に濡れた子犬のような目をして、こちらを見つめてくる。


「九条さんの意思じゃないのに怒らないよ。露天風呂楽しみだねっ!」

「ありがとう……。ねぇねぇ。一緒にお風呂入ろうよっ」


 海羽は改めてヒカリの体を見る。スタイルが良すぎて、自分がちんちくりんに見えてしまう。


「無理だよっ。無理無理っ」

「裸の付き合いしよーよーっ」

「絶対無理っ」


 だが結局、ヒカリに押し切られ、一緒に露天風呂に入る海羽だった。

 


 海羽達は湯浴みを済ませると、食事処へと赴いた。海羽達が来るのを予測していたかのように、すぐに料理が運ばれてくる。鮑の前菜、椀物、伊勢海老の造り、松坂牛の岩焼き、煮物に生姜ご飯という、人生で見たことのない豪華なラインナップだった。


「……」

「ヤバいね。めっちゃ美味しそう。ってか、絶対に美味しい」


 ヒカリは箸を手に取ると、いただきますと口にして、前菜を食べる。


「うっま。え、この世にこんな美味しい料理あるんだっ! 師匠も食べなって」

「う、うん……。いただきます」


 海羽も箸を手に取ると、鮑を口に入れた。あわびを食べるのは初めてだったが、鼻を抜ける磯の香りと共に上品な味が口の中に広がった。

 とても美味しい。ヒカリの言う通り、こんなに美味しい料理があるなんて知らなかった。だが、海羽は、この美味しさがヒカリのスコアのおかげだと思うと、どうしても素直に喜べなかった。


「お、美味しいね。九条さんの言う通りだ」


 硬くなりそうな表情を、必死に柔らかくする。だが、自分がこの幸福を享受することに、小さな棘が喉に刺さったかのようにチクチクと痛んだ。

 食事を終え、部屋に戻ったとき、海羽のシビルバンドが振動した。表示を見ると、母からの着信だった。


「お母さんに連絡するの忘れてたっ」


 海羽は、シビルバンドを操作して、応答する。


「海羽ちゃん。あなたどこにいるのっ?」


 心配そうな母の顔が空中に映し出される。


「えっと……。伊勢にいる」


 母親の両目が大きく見開く。


「どういうことっ? 今日は特別区に見学に行って帰ってくるはずでしょっ? なんで伊勢にっ」

「それについてはあたしから説明しまーす」


 ヒカリが自分の顔を、海羽の顔にピッタリとくっつける。


「あなたは?」

「遠野さんの友達の九条ヒカリです。あたしの我儘わがままで、遠野さんと一足早い夏休みを過ごすことにしたんです」


 佳子は困惑した表情を浮かべる。


「海羽ちゃん、本当なの?」

「私達、花嫁修行のために見聞を広めようって決めたのっ。お母さんに相談せずに旅行したのは悪いと思ってる。だけど、わかってほしいの」

「花嫁修行って……」

「ちゃんと帰るから」


 そう伝えると、海羽は通話を一方的に切り、ベッドへダイブした。


「お母さんに嘘ついちゃった……」

「花嫁修行なのは本当じゃん?」

「そうだけど、そうじゃないよ……」


 スコアの外側にあるもの。それを見つけたとき、私はどうなるのだろう。

 ヒカリが海羽のベッドに座り、ボスンと沈む。


「師匠は真面目だなぁ。女はね、嘘が上手くなきゃ、ダ・メ」


 九条さんって、黙ってれば色気あるけど、喋るとボロが出るんだよなぁ。

 海羽はベッドから起き上がると、ヒカリを見る。


「九条さんって――」


 ヒカリのシビルバンドから再び大きな音が鳴る。ヒカリはシビルバンドを見て、眉をひそめた。


「また悠真から。通知オフにしたはずなのになんで?」

「出ないの?」


 ヒカリは大きなため息を吐くと、シビルバンドをタッチした。


「ヒカリッ! って、浴衣っ? なんでっ?」

「あたしが何着てようが、あたしの自由でしょ」

「本当に帰ってないんだな。今どこだよ?」

「あたしこそ聞きたいんだけど、なんで、あんただけ通知オフにならないの?」


 ヒカリがジト目で早瀬の顔を見ると、早瀬は顔を逸らした。


「設定の問題だろ……。それより、帰らないとかどういうつもりなんだよ? 遠野とかいう女が関係してんのか?」

「あんたに関係ない」

「人が心配してるのにっ」

「それが余計なんだってっ」

「俺はお前を連れ戻すからなっ」

「出来るもんならやってみなよ。じゃ、バイバイ」


 ヒカリは通話を切る。その表情は、憤まんやる方ないと言った感じだ。シビルバンドを素早く操作して、設定を確認している。


「通知オフになってるんだけどなぁ。着拒するか?」

「悠真、くんって、九条さんの彼氏?」


 海羽の言葉に、ヒカリはお風呂に入れられた犬のような顔をする。


「悠真はただの知り合い。あたし、彼氏いたことないし」

「絶対いると思った……」

「意外とそうでもないよ。まぁ、悠真はあたしのこと好きなんだろうなとは思うけど、ないかなぁ。うん、ないな」


 悠真くん、ご愁傷様です。


「師匠は? 付き合ったことある?」


 ヒカリは自分のベッドに寝転がりながら、海羽に尋ねてくる。


「ないない。私なんてそんな」


 海羽は顔を真っ赤にして、手をブンブンと振った。海羽のリアクションに笑いながら、ヒカリは仰向けになって天井を見つめた。


「ねぇ。中西さんのことなんだけどさ。あたし、中西さんの話を聞いたとき、ああ、あたしは障害を持ってなくてよかったって思っちゃったんだよね。師匠にも自分で選んだわけじゃないとか言っときながら。醜いよね、あたし……」

「……私も、同じこと思ったよ。中西さんに共感しながら、同時に自分がそうじゃないことに安心してた」

「師匠も?」

「うん。きっと、私達は、本当の意味で誰かの気持ちを理解することなんて、出来ないんだと思う。どこまでも身勝手で。だけど、自分のことを考えることと、相手に寄り添うことは、矛盾してるようで、成立するんだと思う」


 海羽がヒカリを見ると、ヒカリと目が合った。


「あたし達の感情って不思議だね」

「そうだね」


 *


 同日の夜遅く。佳子は自宅近くの交番を訪れていた。


「娘が社会科見学に出た後、そのまま帰ってこなくて。お友達と一緒みたいなんですけど、今までこんなことなかったんです」

「お嬢さんのお名前は?」

「海羽です。海に羽と書きます」


 警察官はパソコンを操作する。


「伊勢にいますね」

「確かにそう言ってました」

「お友達の名前はわかりますか?」

「九条……。確か、九条ヒカリさんだったと思います」


 警察官は再びパソコンを操作する。


「確かに、この子も同じ場所にいますね」

「現地のお巡りさんに、保護してもらうことは出来ないんでしょうか?」

「あちらの生活安全課に連絡を取ってみますね。少々お待ちを」


 そう言って、警察官がシビルバンドで連絡をしようとしたとき、そのシビルバンドから音声が流れ始めた。


「伊藤巡査。この件は手出し無用に願う」


 男の声。感情がこもってなく、平板な印象を受ける。


「なんで私の名前を……。あなたは誰ですか?」


 警察官は警戒心を露わにしながら尋ねる。


「特別行動監理官」


 それだけ言うと、音声は切れた。警察官は、男の言葉を聞いた瞬間、顔面が固まる。

 警察官の反応に、佳子の胸がざわつく。


「あの……。今のどういうことなんでしょうか?」

「……すみません。現時点をもって、警察はお嬢さんの保護に協力できなくなりました」


 佳子は右手で口元を覆う。その手は驚きと恐怖で震えていた。

 一体何が起こっているの。


 *

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