名前のない感情

天海 潤

第1話 東京①

 遠野海羽は、淡い水色の半袖シャツに腕を通し、チェック柄の紺のスカートを履くと、ストライプ柄のネクタイを手早く結んで、姿見で乱れがないか確認する。細く編み込まれたサイドの髪が後ろでまとまっており、残りの髪は肩にかかっている。いつもの私。カバンを手に取って、リビングへと向かう。リビングのテーブルには、カツサンドとスパニッシュオムレツが既に用意されていた。朝からカツを食べると想像するだけで、海羽の胃が悲鳴を上げる。


 席に座ると、いただきますと呟いて、カツサンドの耳を齧る。左手首に装着してるシビルバンドが今日の最高気温が三十四度になると表示していた。海羽がシビルバンドを操作すると、リビングのモニターが点灯し、ニュースを報道し始める。


「七月十七日のニュースを伝えます。今日一番のトピックといえば、やはりLove Intelligence Quotient。通称L.I.Q.の全国統一試験ですね。高校三年生にとっては、自分の最終スコアが決まる大切な試験です」

「海羽ちゃん。絶対失敗しちゃダメよ!」

 キッチンから母、佳子の激励が聞こえ、海羽はモニターをつけたことを後悔した。

「……わかってる」


 オムレツをスプーンで掬いながら答えると、佳子の大袈裟なため息が耳に入った。


「去年は3000点しか取れなかったんだから。今回のスコアで一生が決まると思うと、お母さん心配で心配で」


 最近の母親との会話の九割が、L.I.Q.に関してだった。海羽とて、スコアを軽んじているわけではない。母親の言うとおり、今年の結果で、文字通り残りの人生が決まるのだから。


「L.I.Q.は十八歳の誕生日に確定し、大学、就職、結婚と全てのライフイベントに影響してきます。二〇〇五年に少子化対策として導入されましたが、二〇三五年の今となっては人間としての価値を表していると言っても、過言ではないかもしれませんね」


 ニュースキャスターが、ご丁寧にスコアがいかに大事かを改めて教えてくれたせいで、海羽はカツサンドを無理やり胃袋に押し込む羽目になった。豚の脂とコッテリとしたソースの匂いが、脳みその血流を胃へと移していく感覚に陥った。母の想いは空回ってる。海羽はごちそうさまと口にすると、学校へ向かうことにした。



 海羽が教室に入ると、クラスメイトは各々のやり方で試験までの時間に備えていた。真剣な面持ちでテキストを熟読する者。友達と実技の練習をする者。だが、その一方で談笑しているグループもいた。これまで高いスコアを取ってきている、所謂ハイカースト組。今回も余裕でいい点数が取れるとでも言わんばかりに、ファッション誌を眺めながら夏休みに何をするか話し合っている。


 自分の席に着くと、実技に関する参考書を読み始めた。海羽は筆記ではいい点が取れるものの、いつも実技がうまくいかない。だが、ただの一回もデートに行ったことがないのに、喧嘩した後の仲直りといったお題を出す問題がおかしいのではないかと非難したくなってしまう。面接官とは面識もないのに、関係を修復するためのセリフなど思い浮かぶわけがない。

 最も、ハイカースト組は実体験を活かしているのか、そういう問題も簡単なのだろうが。


 チャイムが鳴り、担任と試験官が入ってくる。担任から試験に関する説明があり、問題用紙が配られる。試験官の合図で、一斉に紙をめくり、問題を解き始めた。


 『精子のDNA損傷が増加したり、運動性が下がるのは何歳以降か』

 『エリクソンが提唱した成人期の発達課題は何か』

 『L.I.Q.が六千以上の夫婦が、二人目の子供を産んだ時に受けられる助成額はいくらか』


 海羽はスラスラと解答していく。試験終了の二十分前に全ての問題を解き終わり、マークシートのミスがないかなどを確認した。

 時間になると、試験官の合図で、試験監督が答案を回収していく。あちこちから嘆きの声が聞こえてくる。

 昼休みになり、海羽は母の手作り弁当を食べた。本当は、読書をしたかったが、さすがに今日は試験とは無関係の本を読んでる場合ではない。休み時間の間、参考書を読んで過ごした。


 午後になり、教室で待機していると、緊張で両手から汗がじわじわと分泌された。ヌメヌメとした感触が気持ち悪く、何度もハンドタオルで汗を拭う。

 空調機の低い振動音だけが教室に響き、生徒たちの沈黙がより一層際立たせていた。

 教室のドアが空き、試験監督が声を張る。


「次、遠野海羽。」

「はいっ」


 海羽は立ち上がると、両手の拳をギュッと握りしめた。

 向かいの空き教室の前に立つと、ノックをしてからドアを開ける。

 二十代半ばの男性が席に座ったまま、こちらを見る。


「……遠野海羽さんですか?」

「あっ、はいっ。そうです」


 しまった。先に名乗るべきなのに、緊張でど忘れしてしまった。


「どうぞ、お座りください」

「失礼します」


 アナログなロボットかと思うくらい、自分の挙動がぎこちない。緊張に飲まれるな私っ! と自分を叱咤する。


「では実技試験を始めます。シチュエーションは、交際相手が浮気をした後、関係を修復したいと連絡してきて、実際に会うというものです。恋人として、適切な対応を取ってください」


 適切な対応とは何だろう。浮気を許すこと? それとも別れること?

 試験官がシビルバンドでタイマーをセットする。

 試験官は眉尻を下げ、哀願するような表情を作る。


「海羽っ。ほんっとうにごめん。二度としないって誓うよっ。だから、許してほしいっ」


 そう言って、頭を下げる。

 何か言わなければ。でも何を?


「え、えっと……。とりあえず頭を上げてください」


 試験官は顔を上げると、悲しそうな瞳でこちらを見つめる。


「怒ってるよな?」


 実際に付き合ってるわけでも、浮気をされたわけでもない。怒っているかと聞かれたら、正直怒る理由がない。だが、それではスコアは上がらない。


「お、怒ってます……。私という恋人がいるのに、どうして浮気したんですか?」


 海羽は、右手で右耳を触りながら答えた。自分の顔に怒りという感情を貼り付けて。


「それは……。最近すれ違いが多かっただろ? お互い仕事が忙しくて、時間が合わなくて。後輩は残業にも付き合ってくれて、愚痴も聞いてくれて。だから」


 この言い分を飲むのが、恋人として正しいのだろうか?


「わかりません。あなたの言ってること。それって、私が許すと言えば、許されることなんですか?」


 男性の眉がピクリと動く。


「遠野さん、今は試験中ですよ?」


 私は何を信じればいいのだろう。


「ごめんなさい……」


 俯き、溢すように口にした。



 放課後、海羽は図書室へと向かって廊下を歩いていた。


「浮気した彼氏を許すとかあり得なくない? 振っちゃったんだけど」

「あんた試験で何やってんのよ。そこは適当に怒ったフリして、最後に許してあげればいいんだって」


 女子たちが通り過ぎながら、実技試験の感想を話していた。

 そんなのでいいんだろうか。それで高いスコアを出す人間が、社会で成功するのだろうか。

 毎年、試験を受けるたびに考えてしまう。


 図書室に入ると、受付の中に入る。この時代に、わざわざ紙の本を読む人間など絶滅危惧種で、図書室はいつもがらんどうだった。誰もいない自分の聖域に辿りつき、深く息を吐き出す。

 需要はなく、形骸化して久しい委員ではあるが、本が好きな海羽はカウンターに座っている時間が好きだった。

 だから、今日も図書室には誰も来ないはずだった。


 海羽が紙媒体の単行本を読んでいると、図書室のドアが開き、ギィという音が鳴った。

 人が来るなんて珍しい。そう思って、本に栞を挟んで顔を上げると、瞳に映る人物に視線が釘付けになった。

 光が優しく金色の髪に差し込んでいる。やや無造作にハーフアップに結んだ髪型が、彼女の美しさが天然であることを証明しているかのように思えた。肩からは緩く巻いていて、インナーカラーのピンクブロンドがチラリと顔をのぞかせている。

 額は小さく、鼻がスラリと立っている。少しぽってりとした唇は、リップが塗られているだけなのに蠱惑的だ。

 綺麗という字は、この人のためにあるのだと思った。

 海羽は、彼女のことを知っていた。同学年の九条ヒカリ。絶世の美女で、ファッションモデルをやっていて、みんなの人気者。そして10000点満点のL.I.Q.で、9999点を叩き出した寵児。


 ヒカリはカウンターに座っている海羽に気づくと、近づいてきた。

 何か、借りたいのだろうか? 海羽が心の中でそんなことを考えていると。


「図書室の本とかけまして、近所のおばちゃんとときます」


 唐突にそんなことを口にした。

 謎かけ? え? 何で急に?

 海羽は混乱した。しかし、ヒカリはそんな海羽に対し、右の手のひらを差し出す。

 しかも、期待するような顔でこちらを見てくる。グレイッシュブルーの瞳が輝いている。

 え? 私は何を求められてるの?

 戸惑っていると、ウインクをしてきた。


「そ、その心は?」


 海羽は必死に脳みそを回転させ、ヒカリが求めてるであろう言葉を発する。すると、ヒカリはニンマリと笑った。


「どちらも知恵があるでしょう」


 すごいドヤ顔してる……。でも、微妙じゃない? 本で知恵ってありきたりだし、何で近所のおばちゃんにしちゃったんだろ。そこはお婆さんの方が年の功的にいいような。


「どうだった?」


 何でそんな顔で聞いてくるの? そんなに自信あるネタだったの?


「……普通かと」


 ヒカリは両目を大きく見開いて、口をポカンとさせた。

 いやいやいや、普通って評価だってだいぶ甘かったよ? 初対面だし、上げてるよ?


「しょうがないなぁ。一発ギャグで見返してあげるよ」


 そう言って、ヒカリは横を向いて、切なそうな表情をする。右手を口元に当てた。


「あたし、パンの耳に恋してるんだ……」


 一発ギャグ? それが? 嘘でしょ?

 ヒカリはチラチラとこちらを見てくる。その瞳はすごく何かを期待していた。


「えっと……。私には、よく分かりませんでした」


 ヒカリはよろよろと、こちらに近づくとテーブルに突っ伏した。


「きびっしーっ!」


 えええ。そんなこと言われても。


「あの……。九条さんですよね? 図書室に用があったんじゃないんですか?」


 海羽は混沌とした状況を解決したくて、用件を聞いた。

 ヒカリはガバリと起き上がると、テーブルに両手を置いて、海羽の方に身を乗り出す。


「お笑いの本ってあるっ?」

「えっと。探してみますね」


 海羽は電子端末を操作し、キーワードに「お笑い」「ギャグ」と入れて、蔵書の検索をする。

 端末は一瞬で検索結果を表示した。


「『笑いでコミュニケーション力を磨こう。L.I.Q.のハイスコアを目指して』って本ならあるみたいです」


 海羽が読み上げた本のタイトルを聞いて、ヒカリは露骨にテンションが下がったようだ。


「スコア関連の本かぁ。コミュニケーションには困ってないんだけどなぁ。まぁ、一応読んでみる」


 さすが、スコアの寵児。コミュニケーションに困ってないとは羨ましい。そんなことを考えながら海羽は端末を操作して、データをダウンロードする。


「学生証を出してもらえますか?」


 ヒカリがシビルバンドを操作し、学生証を空間に表示させたので、海羽はスキャナーでヒカリの学生証を読み取る。


「貸出期限は二週間になります。期限を過ぎると、データが消えるので気をつけてください」


 海羽が二ヶ月ぶりに図書委員としての勤めを果たすも、ヒカリは帰ろうとしなかった。それどころか、海羽のことをじっと見つめてくる。


「……あの、私がどうかしましたか?」


 おずおずと問うと、ヒカリは猫のように唸った。


「あたしのギャグを面白くないって言ったの、あなたが初めてなんだよね」


 やってしまった。相手はL.I.Q.9999なのだ。彼女こそが正義。彼女こそが法。クラスメイトどころか、教師ですら彼女には敬意を表する。きっとさっきのギャグも普通なら抱腹絶倒ものだったはず。それを私はなんと返した? 「普通」? 「よくわからない」?


「ごめんなさいっ」


 慌てて頭を下げる。もし彼女の怒りを買っていたらどうしよう。


「謝んなくていいって。それより、あなた名前は?」

「遠野、海羽です」


 海羽は頭を上げて、自分の名前を名乗った。


「あたしは九条ヒカリって、もう知られてるんだっけ。それよりさ」


 ヒカリは、海羽の手を両手でガッチリと握った。


「あたしの師匠になってよっ!」

「……へ?」


 予想外の言葉に、海羽の脳みそはフリーズする。


「し、師匠って、なんのですか?」


 ヒカリは満面の笑みを浮かべる。


「お笑いのに決まってるじゃん」

「えっと、なぜでしょうか?」

「あたしにダメ出ししてくれたから。あたしの周りって、あたしが何言っても超面白いって言うんだよね。ありがたいんだけど、それじゃ成長できないっていうかさ。本当に笑ってくれてるのかなってわからなくて。だから、さっきの感想痺れたんだよね」


 ヒカリの表情は憂いを帯びていた。グレイッシュブルーの瞳が、とても似合っていると思ってしまった。


「私はお笑いに詳しくないですっ! 九条さんの師匠になるなんて無理ですよっ?」

「大丈夫大丈夫。さっきみたいに素直に感想くれるだけでいいから」


 ヒカリはあっけらかんとした口調で言う。

 九条さんの周りの反応こそが正常だ。さっきの私はしくじっただけ。

だが、今更ギャグが超面白かったと言うことは、海羽にはできなかった。

 海羽に出来るのは。


「わ、私でよければ……」


 ひくつく笑みを浮かべることだけだった。

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