第3話
その名前に、僕の思考は一瞬停止した。
預言者、レイザー。僕も知っている名前だ。父が勇者として旅立つ前、何度も僕たちの村を訪れ、父に助言を与えていた人物。白髪に、いつも穏やかな笑みを浮かべた好々爺。彼が語る未来のビジョンは、いつも希望に満ちていて、父も彼を深く信頼していた。その彼が、なぜ、魔王軍の最後の砦である、このファイナルタワーの最上階に?
「やあ、エミール。久しぶり、と言うべきかな。こんな場所での再会になるとは、俺も思っていなかったがね」
聞こえてきたのは、紛れもなく、僕の記憶にあるレイザーの声だった。だが、その声色には、かつての温厚さのかけらもなかった。冷たく、乾いていて、どこか嘲るような響きがあった。
「どういうことだ……説明しろ、レイザー! ゲルニカはどこだ! お前は、魔王軍に捕らわれていたのか!?」
父の声は、まだ目の前の現実を受け入れられていないようだった。
次の瞬間、レイザーが放った言葉は、父の、そして僕の最後の希望を打ち砕くのに十分すぎた。
「言い忘れていた……というより、あの方に口止めされていてね。言えていなかったが、俺は預言者と魔王軍の新四天王ゲルニカを兼任してたってことだよ。つまり、俺は本当は魔王側で、あんたらの陣営で言えばスパイっていうのかな?」
時間が、止まった。
世界から、音が消えた。
僕の頭は、レイザーの言葉を理解することを拒絶した。ゲルニカ。彼が、ゲルニカだと? あの、いつも優しかったレイザーさんが? 父の、唯一無二の協力者だった彼が?
そんな、馬鹿なことがあるはずがない。何かの間違いだ。
だが、父の絶叫が、それが紛れもない事実であることを、僕の脳髄に叩きつけた。
「なんで…!! あんたが…!! 誰よりも人類の未来を憂いていたあんたが…!!! 魔王側についてんだ!!! 答えろ!!! レイザァー!!!!!」
父の叫びは、怒りだけではなかった。裏切られた悲しみ、信じていたものに足元をすくわれた絶望、その全てが込められた、魂の慟哭だった。
僕は、石柱の陰で、自分の口を両手で必死に塞いでいた。嗚咽が漏れそうになるのを、奥歯を食いしばって堪える。父の、あんなに苦しそうな声を、僕は聞いたことがなかった。
レイザーは、そんな父の叫びを、鼻で笑うかのようにあしらった。
「そんなに大声を出すなよ、エミール。理由は……そうだな。いずれわかる時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。ただ一つ言えるのは、俺は俺の信じる正義のためにここにいる。それだけだ」
その言葉を合図に、部屋の空気が一変した。深海のように静かだった魔力が、牙を剥き、父へと襲いかかる。
まずい!
僕がそう思った時には、もう遅かった。
甲高い、肉が断ち切られる生々しい音が響き渡った。
「ぐ……あ……っ!」
父の、短い呻き声。
何が起きたのか、僕には全く見えなかった。ただ、扉の隙間から、父の体がゆっくりと前に傾ぎ、その胸から腹にかけて、一本の赤い線が走っているのが見えた。血が、泉のように噴き出し、床の石畳を濡らしていく。
レイザーは、いつの間にか父の間合いの内側、ゼロ距離に踏み込んでいた。その手には、これまで見たこともない、黒く、禍々しい輝きを放つ剣が握られていた。そして、その剣は今、父の体を深々と切り裂いた後だった。
「……速い……」
父が、信じられないといった様子で呟いた。
「おしゃべりに夢中だったな、勇者エミール。戦場で、最も警戒すべき相手に背を向けたまま、感傷に浸るとは」
レイザーは冷たく言い放つと、父の体を蹴り飛ばした。父の体は、なすすべもなく床を転がり、壁に叩きつけられてようやく止まった。
「父さん……!」
僕は叫びそうになるのを、唇を噛み切るほどの力で堪えた。父の傷は、深い。どう見ても、致命傷だった。内臓まで達しているかもしれない。血が止まらない。
もう、終わりなのか。こんな、あっけない幕切れなのか。
絶望が、僕の視界を黒く塗りつぶそうとする。
しかし、レイザーは、倒れた父に追撃をかけようとはしなかった。ただ、警戒を怠らない様子で、ゆっくりと距離を取りながら言った。
「早く直せよ、勇者エミール。お前の自己治癒魔法では、この程度の傷なんて数秒で治せるだろ? ……化け物め」
その言葉に、僕は耳を疑った。自己治癒魔法? 父に、そんな力が?
壁際でうずくまっていた父が、ゆっくりと身を起こした。その顔は苦痛に歪み、脂汗が噴き出している。だが、その瞳は、まだ死んでいなかった。燃えるような怒りの光が、レイザーを射抜いていた。
「……魔力の消費が激しいから、普通は使わないけどな!!」
父が叫ぶと同時に、その全身から、淡い金色の光が溢れ出した。光は、父の胸の傷口へと集まっていく。すると、信じられない光景が僕の目の前で繰り広げられた。
裂かれた皮膚が、筋肉が、内臓が、まるで映像を逆再生するかのように、みるみるうちに繋ぎ合わさっていく。噴き出していた血は止まり、深々と刻まれた傷は、数秒後には薄い傷跡すら残さず、完全に消え失せていた。
床に広がった血の海だけが、今の出来事が現実だったと証明していた。
僕は、あまりの衝撃に言葉を失った。これが、勇者の力。これが、僕の父の、本当の姿。人間を超えた、まさに『化け物』と形容されるべき、奇跡の力。
父は、完全に回復した体で、ゆっくりと立ち上がった。その体からは、先ほどまでの消耗が嘘のように、再び闘気がみなぎっている。
「どうした。何故、傷を直してる間に攻撃しない」
父は、聖剣アスカロンを構えながら、静かに問うた。
レイザーは、肩をすくめて答えた。
「お前とは一度やってみたかったんだ。万全の状態のお前と、俺と。どちらが上か、決着をつけてみたかった。正々堂々の男の戦いってやつを、な」
その言葉を聞いた父の口元に、自嘲的な笑みが浮かんだ。
「最初、俺が喋ってる間に不意打ちしてきた奴が、何を偉そうなことを!」
「うるさい……続けるぞ」
レイザーの言葉は、まるで子供の言い訳のようだった。だが、その瞳は、もう笑ってはいなかった。純粋な、剣士としての闘争心が、その瞳の奥で燃え盛っている。
次の瞬間、二人の姿が、僕の視界から消えた。
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